2回訊問

問 前科はないか。


答 ありませぬ。

問 警察署で調べを受けたことはないか。

答 4度ほどあります。
 
1度は16歳の時、女中奉公中、無断でお嬢さんの着物や指輪を身に着け、活動(活動写真=映画)を見に出たため、次に21歳の時、朋輩芸妓の三味線の撥(ばち)を56個とキセル1本盗んで入質したため、次は26歳の時、娼妓奉公中、客の金100円を盗ったため、次は2829歳の頃、大阪で花札や麻雀賭博をしたため、警察でお調べを受けましたが、許して頂きました。

問 学校はどこまで行ったか。

答 東京神田尋常小学校を卒業してから、家庭に先生を呼び習字を少し習いました。

問 親兄弟は。

答 父は阿部金吉、母はカツと云いますが、母は昭和81月に、父は昭和91月にどちらも75歳くらいで病死しました。兄弟は7人あり、私は4女の末子で、そのうち2番目と3番目の兄は私が10歳くらいの時亡くなり、1番目の兄は生れてすぐ亡くなりましたから、現在残っている兄弟は長男新太郎当50年、次女今尾トク当49年、3女巽照子当38年と私の4人です。

 現在兄新太郎は横浜で畳屋をしており、姉トクは今尾清太郎の妻で、清太郎は元埼玉県入間郡坂戸町で運送屋をしていましたが止めて、昨年頃から東京の荏原区上神明町に住み、雑貨の行商をしております。


問 健康はどうか。

答 弱そうに見えますが身体は丈夫であります。名古屋で娼妓をしていた23歳の時、梅毒に罹って注射を10本して貰い、その後、梅毒の症状はありませんでしたが、昨年10月頃、手などに腫物が出来たので草津温泉に湯治に行き、癒りました。本年1月、医者の診断を受けたるところ、梅毒第3期だと云われました。私の梅毒は外に出ないものと見えます。

 24歳の時に腸窒扶斯(チフス)に罹りましたが、それが治ってからはズット丈夫になりました。やはり夏頃イボ痔で2ケ月ばかり入院した事があります。

問 月経は順調か。

答 私は16歳の暮から月経がありましたが、いつも順調で4日間くらいで済みます。月経の時は少し頭痛がしてイライラしますが、寝るほどではありません。

問 親兄弟や親戚に精神病者はないか。

答 ありません。親はどちらも老衰のため病死し、2人の兄が亡くなったのは脚気衝心(かっけしょうしん)や腸窒扶斯のためです。他の兄弟は現在は皆丈夫で、親戚にも精神病の人はありません。

問 被告が育った当時の家庭はどうであったか。

答 私は神田で生れたのですが、兄新太郎は嫁を貰っており、姉トクは嫁ぎ、次の姉照子は年頃でまだ家庭におりました。私が育った頃は家が一番隆盛な頃で、家には職人が6人くらいおり、忙しい時は10人も15人も職人を傭って畳屋をして裕福だったし、私は末子でしたから両親に大変可愛がられました。

 母は派出(はで)好きで見え坊でしたから、小学校2年くらいの頃から私に三味線を習わせ、綺麗にしては連れて歩いたので、勉強はよく出来なくなり、自然、嫌いになり、学校の先生からお稽古なんか止めなさいと云われましたが、小学校在学中ずっとお稽古に身を入れてしまいました。

 学校を卒業して後、1年くらい裁縫のお稽古に通ったり先生を家に呼んでお習字を習ったりしましたが、家に大勢職人がいて色々の話を聞かされるため、10歳くらいの頃から男が女とすることなどを知り、自然ませておりました。

 それに兄新太郎は少し道楽者で、私の
15歳くらいの時、堅気の姉さんを出してしまい、それまで外に囲っていた水商売の女を家に入れましたが、ちょうどその頃、家の職人を照子姉さんの婿養子にしたため、新太郎兄さんが照子姉さんに家を相続させるのではないかと思い、嫁さんと一緒に若夫婦を虐め、母は照子姉さんに味方し、毎日家の中がごたごたしておりました。

 両親は家が揉めるので、私に見せてはためにならぬと思ったらしく、毎日表で遊んで来いと云うので、私はいいことにして毎日お友達の宅などへ遊びに行っており、自然外が好きになりました。

問 被告はその頃から漸次不良の仲間入りをしたか。

答 左様ではありません。その頃はどちらかと云えば堅過ぎるくらい真面目な考えを持っておったのですが、15歳の時、お友達の家で学生に姦淫されてからカラリと気持ちが変って不良となり、浅草で遊び暮す様になったのです。

問 その経緯は。

答 その頃、毎日の様にお友達の福田ナミ子さん宅へ遊びに行き、私が15才の夏の頃でしたが、そこに遊びに来た福田さんの兄さんの友達の桜木健という慶応の学生と知合いました。私は割合ませていたので懇意になり、2人がその2階で巫山戯(ふざけ)ているうち、その学生に関係されてしまいました。

 その時、大変痛みがあり、2日くらい出血したので、私は驚いたし、これで自分は娘でなくなったのかと思うと何だか怖ろしくなって、どうしても母に話さずにはいられない気持ちになり、その事を母に話し、その後、その学生と福田さんの家で会ったので、2人が散歩に出た時、学生に「自分は母にこの間の事を話したのだが、あなたも親に話して下さい」と云ったところ、その学生はその後福田さんの家に寄り付かなかったので、母がその学生の家に行ってくれました。相談に乗ってくれなかったので、そのまま泣き寝入りになってしまいました。

 当時、その学生と夫婦になろうというほどの気持ちがあった訳ではありませんが、揶揄(からか)われたと思うと口惜しくて堪らず、もう自分は処女ではないと思うと、この様なことを隠して嫁に行くのは嫌だし、これを話してお嫁に行くのはなお嫌だし、もう嫁には行けないのだ、どうしようかしらとまで思い詰め、とても焼糞になってしまいました。

 母は私のイライラしている様子を見て、「お前さえ黙っていれば判らない事だし、お前の知らないことを男がしたのだから何でもない」と慰めてくれ、大正琴を買ってくれたりなどして、前より一層可愛がられば可愛がられるほど、癪に触る様な気持ちになり、ある日どこかへ行って遊んで来ようと思い、家の金15円ほどソオッと持出しました。

 その頃、私の近所には不良が沢山いたり、私の姿を見ると何とか声をかけては揶揄(からか)いましたが、それまでは振り向きもしませんでした。ところが、その時は私は不良に声をかけ、「今日は気分が悪いから面白いところへ連れて行ってくれ」と云うと、23人尾(つ)いて来たので、一緒に浅草へ行き、晩まで1日遊び暮し、帰る時、金を持ち帰ると悪いと思ったから全部分けて遣(や)りました。

 ちょうど照子姉さん夫婦が家出した頃で、家の中がゴテゴテしていた頃であったため、親達は別段私の事を気に止めず、母から「随分遅かったネ」と云われたので、「上野の山に行って来た」と云っておりました。

 金を持出しては遊びに行き、不良仲間に奢って遣ったり小遣をくれたりすると、皆からサーチャンサーチャンと騒がれるので面白くてたまらず、親が余り小言を云わないのでいい事にして、段々増長してしまい、朝は起されても仲々起きず寝坊をし、起きると
2階までお膳を運ばせ、御飯がすむとすぐ着換えては浅草へ遊びに出かけ、3館共通の金竜館などで1日遊び暮しては、夜9時頃でなければ帰りませんでした。

 ある時などは、金を一掴み持出して外へ出てから勘定すると60円あったので、怖ろしくて震い上り、返そうと思い戻りましたが、家に職人が大勢いたため、そのまま返さず使ってしまったことがありました。

 この様にして、1年くらい不良仲間に入って暮しましたが、照子姉さんは家出してから亭主と別れてしまい、家に戻っているうち、近所の職人を情夫に持つ様な不行儀な事があり、私もそれを知っていたので、親達が私を叱ると私が「姉さんだって」と云うものですから、親は黙っておりました。

 それに今考えて見ると、父は外出勝ちであったし、例えば、外で私が晴衣姿で遊びに出るところを見ても知らぬ顔をするという可愛がり方でありましたから、益々増長したと思います。

 それでもたまには父が怒って、2階の私の寝間の入口の戸を釘付けにしたり、晴衣を風呂敷に包み物置へ投げ込んだりしましたが、私は隣の小母さんを呼んで窓から屋根伝いに外出したり、職人に着物を取り出させたりして、やはり遊びに出かけておりました。

 私の不良仲間は男は10人くらい、女は2人くらいあり、大抵は浅草で持っている小遣を皆にたかられながら、いい気持ちで遊びましたが、性的関係はなく、ただ一夏鎌倉で遊んだ時、20歳くらいの男2人と一度宛(ずつ)関係しただけでした。

問 その後、被告が芸者になるまでの出来事は。

答 私の16歳の4月、その頃、照子姉さんの嫁の世話があった時、私が不良になったので呆れたためもあると思いますが、一面、私が家におっては、姉の不行跡を口外してその妨げとなるのを恐れたらしく、母が私に「今度姉さんの縁談があるから、姉さんを片付けるためには、お前も温和(おとな)しくしていなければならないから、小間使に行け」と云われて、芝区聖坂の聖心女学院の前のお屋敷に奉公に出され、お嬢さん付の女中となりました。

 ところが、今まで可愛がられ放縦な生活をしていたため、窮屈でたまらず、その上、御勝手でお食事をするという始末ですから、情けなくなり、食事の度に涙が出て淋しくて淋しくて仕方がなく、浅草で遊んだ事が忘れられず、奉公に来て1月くらい経った時、無断でお嬢さんの晴衣や帯や指輪を身につけ、後で返せばいいと簡単に考えて、浅草へ出かけてしまい、金龍館に入りました。

 すると、そこで捜しに来た姉に遇い、連れ戻されたが、この時始めて警察に連れて行かれました。その後、家に温和しくしておりましたが、私が17歳の春、兄の新太郎夫婦が親の金を持って家出してしまったので、両親は先々を心配して畳屋を止め、神田の家を売り払い、トク姉さんの嫁入先きである埼玉県坂戸町へ家を建て、親子3人で引き移りました。

 しかし、父は田舎で商売をしていなかったから、私も仕事がなかったため、また三味線の稽古を初めましたが、やはり温和しくしていられず、近所の男と懇意になり、一度くらい関係した事もあり、時々散歩などしたので目に付きました。

 それに1人で近所の洋食屋などに出かけたため、田舎の事ですから私の噂が五月蝿(うるさ)くなったので、父はそれを見兼ねて怒り、「そんな男好きなら娼妓に売ってしまう」と云い出しました。

 母やトク姉さんは心配して父をいさめたし、私も本当に怖ろしくなり、3日も眼を泣きはらして父に謝ったものですが、父はどうしても承知せず、大正117月、18歳の時、私を連れて横浜市蒔田町にいた遠縁に当る稲葉正武方に行き、娼妓にする世話を頼みました。

 私は連れて行かれる汽車の中で父と口を利かず、どうせヒビの入った身体だし、こうなった以上はどうともなれモウ決して親元へは帰らないと決心しました。

 ところが、まだ齢が足らなかったので、娼妓にはなれなかったから、稲葉方に1月ばかり世話になった後、稲葉屋から紹介屋に頼み、前借金300円で中区住吉町の芸妓屋「春新美濃」に抱えられ、「みやこ」と名乗り、すぐ1本の芸者になりました。

 その頃、私の家は東京に貸屋が56軒あったので暮しは楽であり、金に困った訳ではありませんでしたから、私の前借金の一部を稲葉の礼にして、外は私の支度に使い、私の小遣にもしました。当時私は父を恨んでいたのですが、後から聞くと、父は「一時男相手の商売をさせれば、すぐ厭になり、謝って帰るに違いないから、その時は迎えに行く」と母や姉に云っていたそうです。

問 芸者になった当時の感想はどうであったか。

答 芸者になって見ると、私の様に途中から這入った中年芸者は、どうしてもお酌上りの芸者より芸が劣り、下積になり勝ちだし、「春新美濃」は一流の芸の芸妓屋で万事が厳重であったし、私は前借金の一部を小遣に持っていたので金には困りませんでしたが、それでも待合に行くと、淫売を奨められるので、厭な商売だと思いましたが、どうせ親に見捨てられた身だから、成り行きに委せようと自棄になり、働くより遊ぶことを考え、先の希望など全然持っておらず、色々の都合で方々に住み替えながら芸者稼業をしておりました。

問 被告が各地に転々して芸者をした模様は。

答 その話をするには、私と稲葉正武との関係を申上げねばならぬのですが、稲葉は兄新太郎の先妻のウメの姉黒川ハナの亭主で、当時横浜で木彫業をして、私方と交際していたので、稲葉は私が前から不良少女である事を知っていたものでありますから、私が1月ばかり同人方に世話になっていた時、無理矢理に関係してしまいました。

 稲葉は口が上手で、私はまだ世間知らずでしたから、稲葉にスッカリ丸め込まれて、芸者になってからも仕事の暇には稲葉方へ遊びに行っては関係を続け、稲葉は私が19歳の時「春新美濃」は厭だと云うと、神奈川区春木町「川茂中」という芸者屋に住み替えさしてくれました。その時の前借金は600円で、当時はそんなことに頓着ありませんでしたが、後で考えると、稲葉に胡魔化されていたのです。

「川茂中」で芸者をしており、ちょうど私が稲葉の家に遊びに来ていた時、大震災に遇いました。

 稲葉の家では何も出さず全焼し、私も前借があって親元へ帰る訳には行きませんから、稲葉の家を一時助けたり、前借を返すため、その年の
10月、稲葉の家族全部と一緒に富山市に行き、清水町「平安楼」という芸妓屋に1000円以上前借して住み替え、「川茂中」へ返した残り200300円は稲葉に渡し、その金で稲葉は家を借り、「平安楼」の近所に住み、私は客のない時はいつも稲葉方へ行っており、やはり引続き稲葉と情交がありました。

 その当時は「春子」という芸名で稼いでおりましたから、稲葉方の暮し向きを一切私が引受け、小遣全部を出しておりましたから、私の収入だけでは足らぬ生活の苦しさを見兼ねたものですから、芸者仲間の三味線の撥(ばち)やきせるを盗んで入質し、50円くらい拵(こしら)えて稲葉に渡しました。

 それが大正13年、私が21歳の時で、これがため警察へ挙げられたため、ここにはいられなくなり、その年の10月頃、稲葉の家族と共に東京に引揚げ、芝区露月町31番地に家を借り、稲葉方と同居し、半年ほどフラフラ遊んでおりました。

 そのうち、大連で芸者をしていた稲葉の家内、黒川はなの従妹が稲葉方に世話になったところ、稲葉はその女と関係をつけた上、芸者に売ったので、ゴテゴテしているのに家内の黒川さんはそれを知って知らぬ顔をしておりましたから、私はこの時初めて、稲葉夫婦は今まで自分を金箱の様に考え、食い物にしていたのだという事が判り、口惜しくなりましたから、もう稲葉と縁を切ろうとしましたが、富山の前借の稲葉と連判だったので、すぐ縁を切る訳にも行かず、この始末をつけるため、大正145月、信州飯田町の三河屋という芸妓屋にやはり稲葉の連判で前借金1500円くらいで住み込み、「静香」と名乗って働きました。

 信州は皆、(誰とでも寝る)不見転(みずてん)芸者で、お茶屋やお客もその頭で検黴(梅毒検査)もありましたから、場所柄、私も不見転をしたところ、花柳病に罹ってしまいました。

 私は検黴まで受けて芸者をするなら、一層娼妓になった方が増しだと思い、22歳の正月、大阪市の飛田遊廓「御園楼」に住み替え、娼妓になり、源氏名を「園丸」と名乗って出ましたが、その時、稲葉とは縁を切ってしまいました。

「御園楼」に住み替える話が極(きま)った当時、母も私と稲葉との関係のあることを知っておりましたから、今後縁を切る話を母に話したいと思い、横浜にいる紹介業甲斐田さんという人に頼み、態々(わざわざ)、母を信州の三河屋へ連れて来て貰いました。


 そして母にこれまでの稲葉との関係を話し、印を返して貰う事を頼み、「御園楼」から2800円くらい前借した金で「三河屋」へ前借を返し、今度は父の連判だけにして貰い、母に200300円小遣をやりました。

 私が親に小遣をくれたのはこの時が初めてであります。それまで私は親を恨んでおりましたが、気を取り直し、母には前借金も殖えたし、もうここまで落ちてしまったのだから、今更どうなるものでないから、今後私のわがままは勘忍して下さいと謝って貰いました。

問 被告が娼妓をしていた時の出来事は。

答 「御園楼」は当時大阪で一流の店であったし、私も売れて3枚とは下らず可愛がられておりました。その頃から私は客を相手にするのが厭でありませんでしたから、「御園楼」では面白く働きました。

 1年くらい経った頃、ある会社員の客が私を落籍してくれることになりましたところ、その人の部下も私の客であることが判ったため、落籍の話は駄目になり、客から勘忍してくれと云われ金を貰った事がありました。それで、少し腐っているところへ紹介屋に煽(おだ)てられたので、翌年早々、23歳の時、名古屋市西区羽衣町の「徳栄楼」に前借2600円で住み替えました。

 ここに移る時は、その抱主は丸ぽちゃの可愛らしい女を希望していたところ、私は面長でどちらかと云えば鉄砲肌の女であります。紹介屋から是非抱えてくれと頼まれて抱えることになったらしく、当時、私はその事情を知らなかったのですから、抱主が内儀さんに仕方なく抱えたんだ、名などは何でもいいと話している事を耳にしたので、その事情を知ったのです。

 私は抱主が気に入らぬのなら気に入らせてみせるという気になり、貞子という源氏名で一生懸命働きましたので、売れっ子になり可愛がられる様になりました。

「徳栄楼」では2年間くらい働きましたから、この頃は思い出の多かった時代です。その頃は何でも鶯(色)のものを好んだため、主人は私を「セキセイ」と悪口を云いましたが、私は遠慮なくボンボン云い、ある時は朋輩が逃げたいと相談を持ちかけたものですから、私は逃がしてやると云い、自分の部屋の窓から外に出したところ、その朋輩は大きな化粧箱を持出したので、それが地に落ちた音で見付かってしまった事がありました。

 主人はそれでも普段は大して叱りませぬでしたが、酒に酔うと私を「セキセイ」を呼べと云っては呼び付けて叱る様な事を云っておりました。
 それで負けていられず、ボンボン云ってやり返して、主人は私に負けてしまいました。それも半ば冗談の様にするので面白くもあり、またお内儀さんはとてもいい人でした。また「徳栄楼」も一流の店であったし、客種もよかったのです。

 この頃、母が会いたくなったと云って来てくれました。その時は商売を10日くらい休ませて貰い、とても歓待し、帰る時も小遣を80円くらいやり、母や姉の子供全部に土産物をどっさり買ってやり、喜ばしました。

 稲葉が「今度、芸妓紹介業を始めた」と云って手紙をくれましたが、交際はしないと云ってやりました。すると、稲葉の娘がワザワザ遊びに来たので、1週くらい泊らして土産を持たして帰らしたこともありまして、その後チフスを患ったりして、商売が段々厭になったので、どこかへ住み替えようとして無断で店を出て、大阪の元世話になった紹介屋のところへ行ったところ、先方から通知があって「徳栄楼」から使いが来て連れ戻され、抱主は「お前が逃げる方が得だ、稼ぎ高で借金を返して貰うより、逃げればお前の親の家作を差押えて一度に取る」と云ったので怖しくなり、温和しく相談づけで大阪の松島遊廓「都楼」へ住替え、「東」と名乗りました。確かその時の前借金は2000円くらいだったと思います。

 ところが、その店は今までと違い、ずっと格が落ちるし、客筋も悪かったので、すぐ厭になり、何とかして自由の廃業したいと思い、店へ来てから半月くらいしてからそこを逃げ出し、東京へ来て元世話になった塚田という紹介屋の前の宿屋にいると、「都楼」から探しに来た使の男に見付かり連れ戻され、無理矢理に丹波篠山の「大正楼」に住み替えさせられ「おかる」と名乗りました。

 それは私が26歳の冬のことで、「大正楼」は前よりも酷く、玉の井の淫売以下であり、何しろ寒い冬の晩でも外へ出て客を引張る様な辛い勤めをしなければならぬので、私は益々厭になり、半年くらいした時、ある客を踏台にして駈落の様にして逃げ出したことがありましたが失敗し、連れ戻されてしまいました。

 そうしてそれから源氏名を「育代」と代えました。私が逃げるため、客の金100円を盗んだのもこの頃のことです。しかし、看視が厳重でどうしても逃げられませんでした。

 ところが、ある時、表の大鍵が下りていながら、かかっていないことに気が付いたので、客を送り出した時、わざと音をさせ鍵をかけない様にして卸(おろ)し、店の者を安心させておき、そっとそこを抜け出し、一番電車を待って、その日神戸まで逃げてしまい、それ以来、娼妓から足を洗ってしまいました。