4回訊問

問 被告が吉田屋の女中になってから、主人吉蔵と関係するまでの事情はどうか。

答 私が吉田屋に住み込む時は給金は30円まで保証するとの事でしたが、実際はチップが40円くらい頂けました。女中は5人おり、全部住込みで真面目な料理屋であり、お内儀さんもいい人で面白く働いていました。

 吉田屋に行くとすぐ石田夫婦から「どうして奉公する気になったか」と聞かれましたから、「亭主が事業に失敗してしたため、共稼ぎするのです」と嘘を云っておりました。

 主人の石田吉蔵を初めて見た時、様子のいい優しそうな人だと思い岡惚れましたが、別に態度に出しませんでした。

 ところが
10日くらい経った頃から、石田は廊下ですれ違った時などに私の頸を指で突いたり、わざと廊下に立ち塞がってみたりするので、自然気があるのではないかと思いましたが、芸妓時代、親父に揶揄(から)かわれたこともあるので、単純の揶揄いだと思っておりました。

 225日頃、用事があって暇を取り、稲葉の家に行き2日ばかりして帰ったことがありましたが、帰った晩、私が電話室で芸妓屋に電話をかけていると、石田が用もないのに電話室に来て、小声で私に「お疲れ様、昨夜はいいことをして来やがって」と云いましたから、「御冗談でしょう」と云うと、石田は「嘘をつけ」と云いながら私の耳朶を噛み、膝で私のお尻を突いたので、私は横目で色っぽく睨み、嬉しく思いました。

 石田は魚河岸へ行くため、毎朝早く起るのですが、私が翌朝早く便所に行くと、石田が女中部屋の廊下にウロウロしており、「冷たい手をしているな」と云って手を握り、私を抱き締めてくれました。その後、折さえあれば、抱き合ったり、キッスしたり、お乳を弄(いじ)って貰ったりしていましたが、まだ関係しませんでした。

 43日の夕方、大宮先生から電話がかかったので、お内儀さんに話し、暇を貰って出かけ、2晩外泊して夜11時に帰ると、その晩、廊下で石田が何も云わずとても痛く私の腕をツネりました。

 翌日昼間、石田と私で自然と一緒に誰もいない2階の広間に行きましたら、座敷の隅で石田は「あの電話は旦那だろう畜生」と云い、私は返事せずにやりと笑うと、石田は私を抱き締めたので、キッスしてそのまま下りました。

 4月中旬頃でしたが、御内儀さんが「お加代さん、離れにお客さんですよ」と云うものですから、御銚子を持って行って見ると、石田が客になって酒を飲んでいるので驚きました。訳を聞くと石田は「外で酒を断っているから今日は家で客遊びをするのだ」と云い、首に吊してある禁酒と書いた成田様の御札を見せました。

 私が側でお酌をすると、石田は手を握ったり抱き締めたりし、そのうち私のものを弄りましたが、私は嬉しく感じ、石田のするままに任せておりました。


 間もなく「八重次」という芸者が来て、石田の清元(江戸浄瑠璃の一派)を初めて聞きました。喉はいい、素的だったので、全く惚れてしまいました。芸者が帳場へ行った留守、一寸した間にその席で初めて情交しましたが、その時はただ入れて貰っただけでゆっくり出来ませんでした。

問 そのうち情事が家人に知れわたったので、石田と2人家出して待合に泊る様になったが。

答 左様です。本年419日の晩、私と石田が応接間の電気を消してそこで関係しようとしている時、女中に見付けられてしまい、家人に知れたので、石田がゆっくり外で相談しようと云い、422日の朝にはしめし合せて家出し、渋谷丸山町の待合「みつわ」に行きました。

問 その経緯は。

答 石田と初めて関係した翌朝、私が朝早く便所に行ったところ、そこへ石田が来て待っており、誘われてそっと離れの間に行き、また関係しましたが、段々2人の仲が露骨になり、419日の晩宴会があって家の中がゴタゴタしていた時、私と石田が応接間に入り、電気を消して長椅子に並んで腰かけ、関係しようとしていたところ、女中が「あれ応接間の電気が消えている」と云いながら座蒲団を取りに這入って来たので、2人共慌てて飛出したため、その女中に見付かってしまいました。

 その翌朝、石田が私に「昨夜家内から痛めつけられた、ゆっくり外で相談しよう」と云ったので、私は一旦外で石田と相談して、すぐ戻る心算で、422日晩、お内儀さんに「一寸内へ行って来たいから2日ばかり暇を貰いたい」と云って、石田と示し合せた通り、423日午前8時新宿駅で落合い、渋谷の待合「みつわ」に行きました。

 石田に惚れたのは時の浮気で、吉田屋に雇われてから終始、大宮先生の事を考え、末を楽しみに働いており、お内儀さんには前から5月一杯で暇をとると話して置き、先生と塩原へ行くため、石鹸箱や化粧品を買って準備していたくらいでしたが、先生は誠意があるが女の気持ちを察してくれない人で、手紙1本くれるでなし、会った時「せめて手紙を下さい」と云うと「お前は嘘八百でも手紙を貰えば嬉しいのか、俺は5年、10年別れていても決して忘れないのだから、本当の気持ちを信じてくれ」と云い、左様に云われると我慢しなければならないと思いますが、それでも頼りなく遂に浮気する様になったのです。

 423日朝、石田と家出する時も待合で石田と連流する気持ちはなく、一寸相談したらすぐ帰る心算でありました。25日には吉田屋に80人くらいの宴会があり、26日にはあるお屋敷からお手伝いを頼まれていたので、お内儀さんからも25日には帰って来て下さいと云われており、石田も忙しいことを知っていたのですから、石田としても恐らくすぐ帰る心算だったと思います。

 吉田屋では私が荷物を纏めて持出したから、これは石田と家出する考えであったに違いないと云いますが、当時私は前から5月一杯で暇を貰うと云っていたのですから、少し早い目に暇を取っても、左程迷惑はかけないだろうと思い、石田と相談したらすぐ帰り、改めて暇を取る考えであったから、取敢えず荷物を纏め、稲葉方へ送って置くため手荷物として鶯谷まで出して置いたものです。

問 石田と家出後、被告の行動は。

答 423日午前8時頃、渋谷の待合「みつわ」に行ってから料理をとり、石田とゆっくり話合いましたが、その時石田は「昨晩オトク(石田の妻)にゴテゴテ云われたが、女中が云いつけたらしい。お前だって居辛いだろうから、今月末には暇を取った方がいい。実は俺の家は電話が担保に入れてあるくらいで、今すぐという訳には行かないが、お前には小さい待合でも持たせて末長く楽しもう」と云いますから、私は「あんないいお内儀さんがあるくせに、私みたいなものを、そんなにまでどうして思うのですか」と云うと「オトクは色男を拵らえ、1年間も家出した女だが、子供が可愛いばかりに家に戻したのだ。いかに男が浮気でも、女房に男を拵らえられと思うと腹の中がにえくりかえる様で、本当の愛情は持てるものではない。俺は実はお前が来た時から好きだった」と云ってくれたので、「私だって好きだわ」と石田に抱き付きました。

 ここで石田とお内儀さんとの夫婦仲についてお話したいと思いますが、石田のお内儀さんは、石田が女に五月蠅(うるさ)い亭主だからそれを警戒するためからかも知れませんが、私達に折に触れては云い切れないほど石田の悪口を聞かせました。

 例えば石田の女道楽で6年間も女妾を囲っておき、ある時、お内儀さんが妾のところに行き塀を乗り越えて這入ると、2人は真裸に重なっていたとか、十二社(西新宿)の待合に石田を迎えに行った時、石田が妾と別れるとか別れないとかの事で十二社の池を血で染めると云い、芝居もどきで蛇の目傘を差し、女の洗髪を掴み女を引っ叩いていたとか、石田は女に好かれるか知らないが、意気地なしで男の中に出て一人前に喋れる男でないとか、犬畜生の様に云っておりました。

 ある時などは、お内儀さんが病気で23日寝た側で私が看病していると、やはり石田のことを「あんな男は亭主に持つ男ではない。薄情で女好きで」と、くさしていたこともあります。もっとも石田はお内儀さんが病気で寝ているのに、家へ芸者を呼んでは飲む様なことをしていたからです。

 私はお内儀さんから石田の悪口を聞いても、石田の事を何とも思わず、却ってお内儀さんを「亭主の悪口を云って馬鹿だなあ」と思っておりました。私は浮気で石田と関係したのですが、石田の夫婦仲が左程よくないところへ、石田がお内儀さんが知らないらしい電話担保の内情まで私に打明けたので、それほど自分を思ってくれるのかと段々石田に惹き付けられたのです。

 石田は私に旦那があるものと思い込んでおり「お前の旦那だって大した事はないだろう。何とかしようじゃないか」 と云うものですから、私は「うん」と云いました。石田はその日「みつわ」で私に「今日は結婚式だから1杯飲もう」と云いました。ところがその時も頸に禁酒という成田様の御札を下げていましたから、私は「それでも貴男は酒を断っているのでしょう」と云うと「今日はお前と一緒になるのだから飲むよ、お前にこれを遣る」と云い御札を私に渡し、「後で2人が成田様へ謝りに行けばよい」と云っておりました。

 話が多少前後しますが、私と石田が「みつわ」に行き寛いだ当時、私はまだ石田に対し他人行儀にしており、「旦那」と呼んだところ、石田は片膝を立てて坐っており様子のいい姿で「2人だけの時、旦那なんて云うなよ」と前から考えていた様な甘い事を云うので、最初から私は石田に参ってしまいました。酒を飲みながら1時間か2時間そんな事を話合った末、寝床に這入り、久し振りにゆっくりした気分に浸りましたが、私は案外石田は巧者な男だなと思いました。

 実際、私が今までに接した数多の男の中で、石田は一番情事が濃厚で上手でした。情交したり互いに弄り合ってから、寝床で石田は「今日は2人の結婚式だから、23日を記念するため芸者を呼ぼう」と云いましたから、私もそれは面白いねと賛成し、早速、芸者を呼んで貰いました。石田はどんな考えであったか知りませんが、私としてはこのままではいつまでも寝てしまい、帰れなくなりますから、芸者を呼べば自然と起きだし、帰る機会が出来るし、2時間くらい芸者を揚げてから食事すると、ちょうど6時頃になり、帰るに都合がよいと思ったのです。

 石田はドテラのままでしたから、私は一風呂浴びて仕度してから2階の客間に行き、芸者と騒ぎ、芸者が帰り御飯が出たので食事をしようとしていると、女中は「旦那は下で寝ています」と云うので、やれやれと思いながらまた寝間に戻り、寝ている石田に「もう6時だがどうする」と云って顔をすりつけると、石田が引張り込んだものですから、仕度も解かず、そのままズルズルと寝床に入り、また石田と寝てしまいました。

 それから27日の夕方まで居続け、寝床は敷放しにし、昼となく夜となく情交し、芸者を寝床にまで呼んで酒を飲み乱痴気騒ぎをし、遂に上って夢中になっておりました。

「田川」で28日も芸者を呼び、27日の晩から29日の朝まで寝床を敷いたまま、夜も殆んど寝ずに猥褻の限りを尽して遊び暮しましたが、私がとても疲れたと云うと、石田は私と情交してはそのまま居眠りしながらも私の身体を擦ってくれるという親切振りで、全く私は生れて初めて女を大切にし喜ばしてくれる男に出会ったと思い、惚々し、益々離れられなくなりましたが、金がなくてはいつまでもこうしていられませぬから、大宮先生のところへ行き、金を貰って来ようと思い、石田に「金の工面をして来るが東京では出来ないから、名古屋まで行く。名古屋まで行けば50円くらい何とかなると思うが待っていられるか」と聞くと、石田は「待っている」と云いました。

「もしオトクさん(お内儀さん)が迎えに来たらどうするか」と云うと、その時はどうもと云いますから無理もないと思い、「それでは行って来る」と云い、女将には自分が帰るまで石田を帰さないでくれと頼んで、29日午前7時頃「田川」を出て知合の浅草区柳橋の芸妓屋「歌の家」方芸妓山子きんを訪ね10円借りて旅費にし、名古屋に行き、駅前の清駒館から先生に電話をかけましたが、その日は会えなかったので、黒川加代という名でその旅館に泊り、その事を特別配達の手紙で石田に知らせて置き、翌30日午後1時頃、南陽館で先生に会い、1時間くらい話してすぐ帰りました。

 その時先生に「実は今まで隠していたが自分にはゴロツキの情夫があり、吉田屋に暴れ込み復縁を迫って来たので、吉田屋の主人が仲に這入ってくれたが、その男は200円出せば大連に行くというから、何も云わずに100円下さい」と出鱈目を云いました。

 すると「遣るのは遣るが、今100円しかないからこれを持って行け、後は55日に上京するからその時渡す」と云い、100円と旅費10円とをくれ、なお「お前はその男が好きなら遠慮せずに一緒になれ」と云いましたから、私は「そのくらいなら金を取りに来ません」と云いました。

 実際、私は石田ばかり思って先生を捨てるという気持ちはなく、先生は先生として慕っておりましたが、石田にも充分惚れておりました。30日、名古屋から帰りの汽車中、午後5時頃静岡で石田に「8時東京駅着く」という電報を出し、8時半頃着き、電話で石田に「疲れたから神田駅まで迎えに来て貰いたい」と云ったところ、石田は30分くらいすると神田駅に着きました。

 私が名古屋へ出かけてからも石田の事が片時も頭から離れず、名古屋の清駒旅館に着き泊る事になった時、石田へ手紙を出そうか出すまいか、手紙を出さないため帰る様な男なら跡を追っても詰まらないから、手紙を出すまいかなどと考えたが、やはり石田恋しさの余り、手紙を出した様な始末で、旅館に1人泊った時も石田を想い、淋しくて寝られず、ビール2本飲んで寝たくらいでした。

 大宮先生に会った時も先生に申訳ないと思いながら、殆んど石田に心を惹かれており、早く帰りたく、午後3時の特急に遅れると6時の普通列車になってしまうと気が急いで仕方がなかった。ところが先生が風呂に入ろうと云ったので、がっかりしました。

 それでも先生が自動車で送ってくれたので、3時の汽車に間に合いましたが、汽車中でも早く帰って石田に噛り付きたい様な気がしてならず、自分でもこんなに石田に惚れているのではしょうがないから、一層石田が留守に帰ってくれた方がよい、留守中帰れば口惜しい事は口惜しいが、あきらめがつくと思ったり、汽車が静岡に着くと、石田を思う気持ちが押え切れず電報を打ったり、色々考えておりましたが、東京駅から電話をかけると石田が「田川」にいたものですから、留守中よく我慢して待っていてくれたと思い、自分の気持ちがからりと変り、石田を思う一念の外、何もなくなってしまいました。

 石田に「淋しかったでしょう」と云うと、「淋しいはいいが女将が来て……」と話しを濁しましたから、これは大抵勘定の事だろうと察し、「そんならもう行くまい」と云い、石田が「荒川区の尾久に知人があるからそこに行こう」と云うので、円タクで尾久に行きましたが、「みつわ」から吉田屋へ勘定の催促したかも知れず、催促したとすれば知合のところへ手を廻したと思いましたから、2人で尾久の待合をブラブラ歩き、尾久町4丁目188待合「満左喜」が感じがよさそうであったから、そこへ這入りました。それは10時半頃です。

「満左喜」で石田に「田川」へ何と云って出て来たかと聞くと「具合が悪いというから迎えに行って来る」と云って出て来たと云いましたから、吉田屋へ電話をかけられては困ると思い、「田川」へ今晩は都合で帰れないが、吉田屋には知らせない様にと電話すると「絶対吉田屋には電話かけないから帰って来てくれ」とのことでした。

「満左喜」で泊った
30日の晩は、2人が21晩離れていたので、寝ると続けて2度関係しましたが、私が旅行した間、石田は1人で「田川」に寝ていたため眼が冴えており、私が疲れて寝ると揶揄(からか)ったので、冗談に石田の手首を腰紐でしばると、石田は子供の様に喜んで、寝ると縛られた手で私をくすぐったりして、やはり碌々寝ずに巫山戯(ふざけ)ており、夜、明方から51日の夜まで、食事もせず酒を飲んでは関係しておりました。その間、別に真面目な相談もせず冗談に「お前と一緒になればきっと俺は骸骨になる」と云っておりました。

 待合「田川」から勘定もせずに出た訳ですから、51日夜10時過頃「満左喜」の勘定20円くらいを払い、円タクでまた2人多摩川の「田川」へ出かけ、途中、 銀座藤屋で菓子を買い土産にし、11時「田川」に着き、前晩の勘定80円だとの事でしたが内金50円と御祝儀20円とを払い、その晩から3日の夕方まで居続けておりました

 ところが「田川」は女将が元中野区新井町で芸者屋をしていた頃、石田が贔屓した事があり、吉田屋と懇意な間柄である事を知っておりましたから、吉田屋から電話がかかって来る様な気がして落付きませんから、その時の勘定は5060円になると思いましたが、53日午後7時頃、女将には勘定は6日に持って来るからと云い、貸して貰い、そこを出ました。

 当時、金は20円しか持っておりませんでしたから、どうしても別れる気になれず、5日には大宮先生に会う約束になっていますから金が出来ると思い、石田にまた「尾久へ行こうか」と云い、途中、新宿の蟹料理屋に寄り1杯飲み、円タクでその晩10時頃「満左喜」に行きました。

 石田はここは知らない家だから何とかしなければならないと考え込んでおりましたから、「12日のうちにどこかへ行って借りて来るから」と5日の夕方まで寝床を敷放しにして、入浴もせず、やはり情事の限りを尽しておりました。

 その間、私が自分の鋏で石田の爪を切ってやると、石田はお前の指を噛み切ってやりたいなど云い、私が石田の陰毛を
10本くらい鋏で切ったりオチンコを掴んで切る真似をしたりすると、石田は馬鹿なことをするなと云い、喜んで笑いました。石田は私がその様に巫山戯るといつもとても喜ぶのです。

 大宮先生と55日の昼頃、新宿の明治屋旅館で会う約束をして置きましたが、石田と巫山戯ているうち夕方になってしまい、大急ぎで午後7時頃明治屋へ行くと、先生は留守で暫(しばら)くすると帰って来ました。

 先生は「昼頃会う話だのに、どうしたか。俺は
4時間も待っていたが、来ないから夕食して来た」と云い、いつもは酒を飲まない人ですが、少し酔っていました。先生が男の事を聞きますから、尾久の高橋という方面委員に預けて来た男と一緒にいると出鱈目を云うと、「別れ様と云う男と一緒にいるのは随分不思議だが、男と関係しているとすれば今夜は関係しない方がいいだろう」と云いました。

 私は「うん色々こじれているから気分が出ない」と云うと、先生は「それでは金をやるよ」と云い120円くれました。当時、私は石田と流連していたため、頬はやつれてしまったので、先生はその疲労した様子を見て「お前もう一度草津へ行った方がよい」と云い、銀座で一緒に夕食しようと出かけましたが、道を歩きながら「今年の暮に1000円やるが何か商売をやるか」と云いましたが、私は別れるのは厭だと云いました。

 銀座のオリンピックで食事をし、先生からコーヒーを飲むかとか胃腸の薬があるから飲めとか色々親切に云ってくれ、ゆっくりしたい様子らしかったが石田の事ばかり考え、 「早く帰らなければ工合が悪いから、今日はこれでお別れします」と云い、15日までには男の方の片を付ける、その日に東京駅で会うという約束をして、その際は先生と手一つ握らず別れましたが、何だか先生に気の毒でなりませんでした。

 5日夜10時頃「満左喜」に帰ると、石田は寝て雑誌を読んでいました。私が2時間か3時間留守にしてただけで石田の元気はとても猛烈になっていたため、その晩も寝ずに関係し、先生のことなどすっかり忘れてしまいました。当時「満左喜」から稲葉の家へ電話をかけて見ると、吉田屋から稲葉方へジャンジャン電話で私達の行先を問い合せている事が判りましたが、私は勿論、石田も平気になってしまい、今になればしょうがない、どうせ厭な事を云われるならうんと面白い思いをしようと思いました。

 この様にして56日の晩まで遊び暮しておりましたが、こんな事をしていてはいつまでも互に別れられず、金も続く訳がないから仕方がないと考えたので、行く末に付き、石田と相談しました。石田も私が2度も外出して金を工面して来たので、いずれ男から貰って来たと思っているらしく、引け目を感じ気の毒に思っている様子で、家に帰れば何とか都合してお前に返すと云っておりましたが、私が相談すると、これ以上お前に金を使わせる訳には行かない、またお前に持合せを出させるにしても、一旦帰宅し、家内の御機嫌を取り工合よくして置かなければならぬから、一旦帰ろうということになりました。

 ちょうどその晩はしとしと雨が降っているところへ、辛さを忍んで一時別れ様という相談ですから、私は石田をお内儀さんのところへ帰らすのかと思うと口惜しいやら悲しいやらで、泣けて仕方なく、石田も泣き、実に恋の愁嘆場でした。私は今度石田が帰宅しても、お内儀さんにいいところを遣らせまいと思ったので、石田と関係し続けて2度も気を遣らせました。

 それから祝儀共70円くらいの勘定を「満左喜」に支払い、番傘を買って貰い、私は「満左喜」から下駄を借り、石田は長靴を穿き、2人相傘で6日夜10時頃「満左喜」を出たところ全く珍無類の恰好をした。

「満左喜」を出てからも別れの辛さにぶらぶら歩きましたが、このまま別れる気になれなかったので、途中、円タクを拾い、浅草に行き公園を歩き、「別れの盃をしよう」と云って野田屋で
1杯飲み、ちょうど12時の看板になり追い出されたので、私は「とにかくどっちにしたって別れなければならないから、私は稲葉方へ行くが貴男は家へ帰った方がよい」と云い、ぶらぶら出た事は出ましたが、やはりそれなり別れられず、浅草のお汁粉屋「梅園」でソーダ水を飲みぶらぶら歩いて柳橋の方へ行き、橋の袂にある小料理屋に寄ってまた1杯飲むうち午前2時になり、やはり看板で追い出され、橋の辺を彼方此方、情なさそうにぶらぶら歩きました。

 私は「いつまで経ってもどうせ別れ切れないから、中野まで帰ろう」と云うと、石田は「そうしてくれ」と云いましたから、円タクを拾って出かけると、3時過ぎ頃、途中巡査に咎められました。石田の家の付近まで行きましたが、私は「1人寝るとまた咎められるから厭だ」と云うと、石田は「では新検の待合でお前泊っちめえよ」と石田に送られ、中野町の「関弥」という待合に行きました。

 2人が2階で1時間くらいビールを飲んでから、さあ別れるとなるとまた石田は帰りそびれ、キッスしたり一寸弄(いじ)り合ったりし、石田は私に「玉寿司へ話をして置くから、23日してから電話をかけてくれ、都合よい日に会う」と云って、一旦降りて行きましたが、またすぐ戻って参りましたので、私はすぐ起きて石田の着物を脱がせてやり、一つ床に這入り、朝まで関係したり巫山戯たりしていました。

「いつまでそんな事をしていても切りがないから、とにもかくにも家へ帰りなさい」と、朝9時頃、10円札1枚懐中へ入れてやり、自分は自動車で白木屋に行き土産物を買い、12時頃、稲葉方へ行きました。