秋山真之
幻の「アメリカ極東探検隊」

ビッドルの来航
ビッドルの来航(『弘化三年五月浦賀江渡来亜墨利加軍艦と乗組員之圖』。画像はウィキペディアより)



 日本を開国させたのはペリー提督、というのは小学生でも知っていますが、ペリー来航(1853年)の7年前、アメリカ軍の軍艦2隻が日本にやってきた事実はほとんど知られていません。
 どうして誰も知らないかというと、この軍艦は江戸湾に入港できなかったため、日米双方にほとんど記録が残っていないからです。しかし、歯車が1つでも違えば、この軍艦こそ、歴史に名前を残したのかもしれないのです。今回はその軍艦の乗組員が当時の様子を初告白します!


秋山真之
右から3番目が秋山


 で、まずは『坂の上の雲』の主人公・秋山真之に登場いただきます。上の図は東城鉦太郎が描いた「三笠艦橋の図」で、日露戦争でもっとも有名な絵。中央が東郷平八郎司令長官ですな。長官の向かって右後方、髭をたくわえノートを持った人物が名参謀と名高い秋山真之です。

 日露戦争が開戦する明治37年(1904)、当時、海軍少佐だった秋山が、皇族の前で講話会を開催しました。皇族講話会というのは勉強会のことで、内容をまとめたものが『講話会談話筆記』として残されています。ただし関係者のみに配布されたため、国会図書館にもありません。また、時代が下るにつれ秘密扱いとなるので、さらに記録が残らなくなっています。

秋山真之
『講話会談話筆記』第11回


 講話会の第11回目、秋山は「弘化三年、米艦江戸湾口に渡来の図に就(つい)て」という講義を行いました。内容は「日本初のアメリカ艦隊との直接交渉」をまとめたもので、ほぼ歴史から消え去った話です。そこで、その内容を現代語訳し、まとめておきます。
(以下、「私」というのは秋山を指します)

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 私が米国ニューポートの海軍大学校に通学しているとき、今は退役して老後を楽しんでいるルース少将と知り合いました。おりおり少将の自宅に出入りしておりましたが、そのとき書斎に不思議な古画を見かけました。富士山のようなものが見え、また葵の紋所のようなものも見えます。
 よく見ると、「The Colombus  and Vincennes in Japan」と書いてありました。そこで少将にこの絵の由来を尋ねると、1846年、すなわち弘化3年に少将が極東探検隊の一員として日本に来たときの絵であることがわかりました。

 少将はこう言いました。

《思い起こせば今から50数年前、アメリカではヨーロッパにならって極東探検隊を派遣しようという世論がわき起こった。そこで、ビッドル(ビドル)提督のもと、「コロンブス」(コロンバス)と「ヴィンセネス」(ビンセンス)という2隻の軍艦を東洋探検のため派遣したのである。
 当時はスエズ運河がなかったので、大西洋から喜望峰を回って、マダガスカル、インド、ベトナム、中国沿岸を経由して1年ほどで日本に到着した。1846年7月20日のことだ。

 日本の水路情報がなかったので、測鉛を投じて水深を測っていると、しばらくして4〜5隻の「ジャンク船」が異様な旗を掲げながら近づいてきた。その船には両刀を腰にした武士が数名乗っていて、何か叫んでいる。何を言っているのかさっぱりわからなかったが、様子からこれ以上中に入るなと言っていると判断し、陸から約3海里離れた場所に投錨した。すると、またたく間に小舟が200〜300も集まった。そのときの様子がこの絵である。
 
秋山真之
乗組員のジョン・イースレートが描いた絵


 多少不穏な空気があったが、日本側は特に抵抗したり邪魔したりするわけではなかった。まもなく高貴な武士が乗船してきて挨拶がすんだあと、オランダ語で会話が始まった。先方が言うには、「まず両艦の大砲、小銃、弾薬、その他いっさいの武器を陸に揚げてくれ」と。もちろん応じられないので丁寧に断ると、続いて武士はこう聞いてきた。「どうしてアメリカの軍艦がここに来たのか」。

 我々は「日本と通商互市を開くためにはるばる来た。国書もあるので幕府に渡したい」と言ったのだが、日本側はオランダ語しかわからず、こちらはほんの少しオランダ語がわかる人間がいただけだ。結局、意思疎通がほとんどできなかった。

 やむをえず、水と薪と食料を購入したいと言うと、陸上から水、薪、その他ニワトリ、野菜などを送ってくれた。代金を払おうとしたが、いっこうに受け取らない。
 そのまま我々は数日停泊したが、日本探検という目的は果たせないし、日本側も来航した理由がわからないようだった。外国船は長崎以外には入港できないとわかったので、そのまま出帆したのである。》

 軍艦がどこに投錨したのかその場所を尋ねると、少将は次のように答えました。

《その後、日本には一度も行っていないので、場所を思い出すのは難しい。我々が2隻の軍艦を移動するときにさえ、日本側は4〜5隻の船をつけて警戒していたので、陸上の様子を探ることはできなかった。ただ、今でも、海岸一帯に鬱蒼とした樹木で覆われた丘陵が続き、その上に富士山が高くそびえている美しい景色は忘れられない。
 北の方には高い岬(観音崎?)が突き出ており、その奥は14〜15里もありそうだったが、岬に遮られて見えなかった。》

 私は少将の話で江戸湾だとわかったので、続いて、当時の日本の情勢について何を観察したのか聞いてみたのです。
 
《先ほども言ったとおり、日本側の警戒は厳重で、日本の情態についてはわからない。しかし、我々が停泊していた9日間に数百人の日本人が乗艦してきたので、日本人とはこういうものだというのはわかる。
 日本人は艦内の砲具や機械を珍しそうに見ており、特に武士は「大砲をどうか1門くれないか」などと言うことがたびたびあった。
 日本人が「文明の民」とはもちろん見えなかったが、なかなか「有礼」な民族だとは思った。特に食料代を受け取らないところなどは、本当に廉潔だと乗船員一同が感じた。

 その後、どうにも言葉が通じないので、やむなく7月29日に出発することに決めた。その日は風がなく、日本船が両艦の前に縦に数百隻並び、沖の方へ引っ張ってくれた。しかし、いくら小舟が集まったところで、軍艦を曳航することはできないのは言うまでもないだろう。
 結局、我々は何の成果もないまま、南米のホーン岬を経由して、年内に帰国したのだ。》

秋山真之
出港時の様子


 少将はペリー来航ばかり話題になるのがちょっと残念そうな様子だったので、私は感想を聞いてみたのです。

《帰国以来、日本の話は新聞雑誌で常に注意して見てきた。日本の歴史を考えるに、我々の探検が日本を太平の眠りから目覚めさせた発端であるのは間違いないだろう。
 ペリーに関してはアメリカにも日本にも詳しく記録が残されているが、極東探検艦隊に関しては意思疎通ができなかったために両国にほとんど記録がないのが実に残念である。

 当時の日本と今の日本を比べると、この50年の変化の速さは歴史上類を見ない。ことに海軍の著しい進歩は驚くほどだ。我々が行ったとき、海軍なんてものはなく、あるとしたらあの小舟だけだったのに、今では世界の海軍国に列せられている。

 この50年の海事技術の進化も絶大なものだ。「コロンブス」と「ヴィンセネス」は帆船だった。それが蒸気船に変わり、木船は鉄船に変わった。前装砲は後装砲になり、速射砲も魚雷も現れた。今、日本にある軍艦「富士」「八島」と「コロンブス」「ヴィンセネス」の違いは計り知れない。この50年の進歩を見れば、日本海軍は今後も同じような進化を遂げるだろう。》

日本海軍初の近代的戦艦である「富士」
日本海軍初の近代的戦艦である「富士」


 弘化3年の米艦隊の渡来を経て、嘉永初年に幕府は2〜3艘の西洋商船を購入しました。これが日本の海軍のはじめだと思われます。
 その後、規模を大きくしようにも内戦が続くなどでうまくいかず、明治になってようやく海軍の基礎が固まってきました。

 300年前、日本には世界と並ぶ数多くの船舶がありました。3本マストの大帆船も、大砲つきの兵船も、そして和冦などを見れば、世界最高クラスの航海術があったこともわかります。
 もしそのまま海事技術が進歩していれば、この絵に見られるような「憐れな翩々(へんぺん)たる小舟になりはてる」ことはなかったでしょう。
 しかし、ご存じの通り、徳川3代家光公が大船の建造を禁じたことで、わが国の海事技術は大きく退歩してしまったのです。一方で欧米諸国は海事万般の進歩を促してきました。この著しい違いが、2枚の絵にはっきり出ているのでございます。

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 以上で講義は終わりです。
 ちなみにアメリカ船籍の船が日本に来港したのはこれが初めてではなく、天保8年(1837)には商船モリソン号を日本側が砲撃した事件などが起きています。もちろん軍艦は初めてなので、ルース少将の悔しさも納得がいくのです。
「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と東郷に絶賛された秋山の、珍しい講演録でした。


制作:2009年12月29日


<おまけ1>
 ビッドルが持ってきたアメリカ大統領の親書に対して、幕府は一応の返事をしています。しかし非常に素っ気ないもので、「オランダ以外、いかなる国とも交易は許されず」というものでした。幕府は天皇からの返事だと言っていたようですが、実際は幕府が書いたものだと思われます(ジョセフ・ヒコの『アメリカ彦蔵自伝』による)。

<おまけ2>

『皇族』(小田部雄次著)という本には、主な皇族講話会のリストが掲載されていますが、大正4年(1915)からしか掲載されていません。そこで、それ以前のものをわかる範囲であげておきます(日付と回はなぜか不一致)。

 第15回(明治39年06月26日)「日露開戦につき海軍戦略上の概観」(海軍大佐・財部彪)
 第16回(明治39年12月04日)「樺太冬期航海談」(海軍中佐・平賀徳太郎)
 第18回(明治40年05月08日)「冬季西伯利(シベリア)旅行談」(陸軍歩兵大尉・恵藤不二雄)
 第19回(明治39年11月27日)「日露戦争の利益を実収しない欧米各国はどこか」(伯爵・久松定謨)
 第20回(明治40年06月26日)「樺太軽便鉄道敷設について」(陸軍工兵大尉・藤田省三)
 第22回(明治40年09月25日)「海軍の進歩」(海軍大佐・川島令次郎)
 第23回(明治40年11月13日)「海戦に関する史談」(海軍大佐・佐藤鉄太郎)
 第24回(明治40年01月22日)「蒙古旅行談」(陸軍歩兵少佐・佐藤安之助)


 ちなみに財部彪はイギリス留学組で秋山の政敵。佐藤鉄太郎はイギリスとアメリカ留学組で、秋山同様、名参謀として有名。久松定謨は旧松山藩主で、秋山の兄・好古をフランスに同行させた人物ですな。まさに『坂の上の雲』の知られざる裏面史なのでした。

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