茶の湯が作った「ニッポン株式会社」
あるいは護国寺「茶道」王国の完成

護国寺石灯籠
護国寺の石灯籠サンプル集
(中央の三角屋根は蓮華寺型、手前は太秦型)


 茶道で最も有名な人物は、言うまでもなく千利休でしょう。
 千利休は、織田信長の茶頭を務め、その後、豊臣秀吉に仕えました。

 ある日、利休の屋敷の庭に、朝顔が見事に咲いたという噂を耳にした秀吉は、朝の茶の湯を命じて利休の家を訪れます。しかし、庭には一輪の朝顔もありませんでした。不機嫌になった秀吉が茶室に入ると、色鮮やかな一輪が床に活けてありました。秀吉は目が覚めるような気持ちで、たいそう褒めたのです。

 またある春の日、秀吉は黄金の鉢に水を張って床に置き、かたわらに紅梅一枝を置いて、利休に活けよと命じます。これは難題だと側近たちがささやいていると、利休は梅の枝を逆手に持ち、もう片方の手で鉢の中に梅をしごき入れます。花や蕾が水面に浮かんで、金色の鉢に映え、何とも言えぬ風情となりました。「どんなに困らせようとしても困らぬ奴じゃ」と秀吉はやはりご機嫌でした。(ともに『茶話指月集』による)

 秀吉にかわいがられた利休は、1591年、突然秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命じられます。その原因には諸説ありますが、堺の大商人である利休と利害の対立があったと考えるのが一番わかりやすいですね。

 現在の茶道は単なる趣味と化していますが、かつて、茶の湯の席はビジネスの現場でした。政治やカネの話が普通におこなわれており、いわば、現在、ゴルフで仕事が回っていくのと同じようなものです。特に明治時代初期は、茶の湯の席でいろいろなビジネスが始まり、多くの会社が作られていきました。

八窓庵
八窓庵
(国会図書館HP『茶室庭園画帖』より)


 六本木ヒルズの裏手、現在、六本木高校があるあたりは、かつて内田山という高台でした。この場所に、明治の元勲・井上馨の邸宅がありました。
 1909年(明治42年)、茶会好きの井上は、奈良の東大寺から「八窓庵」という茶室を移設し、翌年の春に連続で茶会を開いていきます。

 4月7日の第1回には、三井物産を作った益田孝など、大物が集まりました。参加者は以下の5人。

 益田孝 (三井物産、三井鉱山、「中外物価新報」を設立)
 加藤正義(農商務の官僚として日本郵船を設立、後副社長)
 原富太郎(生糸王、横浜に三渓園をつくる)
 野崎廣太(「中外物価新報」社長、三越社長)
 梅沢安蔵(茶道具屋)

 中外物価新報というのは、後の日本経済新聞のことです。日本郵船は三菱系なので、この茶会では三井、三菱の大物が並んでお茶を楽しんだことがわかります。以下、有力者を列記すると、

 第2回(8日)  :三井三郎助(三井鉱山)、朝吹英二(王子製紙)
 第3回(9日)  :三井高保(三井銀行)、根津嘉一郎(東武鉄道、日清製粉)
 第4回(10日):三井八郎次郎(三井物産)、室田義文(百十銀行)
 第5回(11日):安田善次郎(安田銀行、安田生命)、岩原謙三(芝浦製作所、NHK)
 第6回(12日):高橋是清(首相)、大倉喜八郎(帝国ホテル、帝国劇場)
 第7回(13日):鹿嶋岩蔵(鹿島建設)、添田壽一(日本興業銀行、鉄道院、報知新聞)
 第8回(15日):山本条太郎(南満洲鉄道)、高橋義雄(三越)
 第9回(19日):馬越恭平(アサヒビール、サッポロビールなどビール王

 といった具合。三井系が多いですが、業界の大物がこぞって参加していることがわかります。当時の政界、財界では、まさにビジネスは茶会を通じて動いたのです(『世外井上公伝』5巻による)。

八窓庵
八窓庵の内部写真(国会図書館のHPより)


 第1回の茶会は、いったいどのようなものだったのか。詳しく書いても訳がわからないので、ざっくり書いておくと、

 <控え室>
   寄付(よりつき=待ち合わせ場所、控え室)の床(とこ)には、千宗旦の歌が書かれた手取釜の文+本阿弥光悦の硯箱
 <庵内>
  ・庵に入ると、床には藤原定家の和歌。釜は千利休が西村道仁に作らせ、千宗旦が愛用した田口釜
  ・道具は、香合(交址紫鹿)、炭斗(=すみとり、唐物竹組)、灰器(ノンコウ焙烙)
  ・懐石は秩父の鮴(ごり)を汁に、箱根のヤマメを八寸に……
 
 交趾焼(こうちやき)は、中国南部で生産された陶磁器の一種で、ノンコウとは楽道入の作品のこと。なんだか暗号みたいですね。その後、懐石が終わって中立(なかだち、休憩)以降も、利休愛用の掛け花入れ、信長殺害直後に本能寺から持ち出された大燈国師の墨蹟など、さまざまな名品が登場します。

 ちなみに茶の湯のお茶には薄茶(うすちゃ)と濃茶(こいちゃ)があり、ドロドロの濃茶はみんなで回し飲みをします。あまりに濃いお茶なので、薄茶は点てるといいますが、濃茶は練るといいます。

 濃茶を練るのはけっこう難しいんですが、これをうまくやったことで評価を上げたのが、三井財閥の総帥・団琢磨。団琢磨は1913年(大正2年) に初めて自宅で茶会を開くんですが、このとき練った濃茶には団子がなく、非常に美しい仕上がりでした。
 それまで、団琢磨の濃茶は珍妙な形ばかりだったので、一同が驚き、理由を聞きました。すると団は、得意満面でこう言いました。
「僕は科学の試験で粉を溶く秘伝を学んだんだ。最初、少しの湯を入れて練り、さらに湯を足していけば決して団子はできないんだよ。この手法を研究したので、練ることに関してはどんな大宗匠にも負けない」(『男爵団琢磨伝』下巻)

 濃茶の回し飲みは利休が始めたもので、儀式によって茶会の精神性を高めるために発案されたと言われています。
 これは日本古来の「一味神水(いちみしんすい)」の影響を色濃く受けているんだそうです。一味神水とは、室町以降、人々が一揆を起こす前に、神社で誓詞に名前を連署し、焼いて灰にしたものを神前に捧げた水と混ぜて回し飲みした儀式のこと。いわば「固めの杯」です(千宗屋『茶味空間。』による)。

 茶会での会話はほとんど記録に残っていませんが、どうやら、さまざまな逸品を見ながら、歌を詠んだり、風流な会話をするようです。無粋な話は嫌われましたが、「固めの杯」の意識が残っていたとしたら、茶会から企業合併など新たなビジネスの話が広がったのも頷けます。
  
 もちろん、こうした空間を嫌う財界人もいました。
 安田財閥を築き、大富豪となった安田善次郎は、ある日、渋沢栄一を招いてお茶会を開きます。しかし、渋沢には退屈で、家に帰ると「あぁ、茶の湯ほど窮屈なものはない。俺はこりごりしたから、子々孫々こんなものはやらせぬ」と愚痴りました。

 ただし、それから20年後、次第に茶の湯の趣味を理解していった渋沢は、自宅の茶室に安田を招きました。安田が「君は茶など子々孫々やらせないと言ったんだろ」と突っ込むと、渋沢は「あれから20年経ってるから。10年一昔だから、もうふた昔以上前のことさ。ふた昔たてば、百事は自然消滅する」と答えています(『実業家奇聞録』)。

 一方、茶の湯の世界になじめなかったのが、山県有朋。
 山県は、明治40年頃、京都で茶会を開いたものの、伊集院兼常らゲストは、山県の茶道具には見向きもせず、「あそこで見た茶器は素晴らしかった」などという噂話で盛り上がりました。それで、山県は「これじゃ単なる席貸しで、貧乏人には面白い茶の湯はできないんだね」と笑って語っています(『茶道月報』昭和7年1月号)。

 ちなみに、伊集院兼常は渋沢栄一と日本土木会社(のちの大成建設)を作っていて、ここでも茶会とビジネス界のつながりがうかがえます。
 茶の湯に懲りた山県は、その後、庭園趣味に走り、東京の椿山荘など有名な庭園を作り上げました。
 
椿山荘
山県有朋時代の椿山荘
(国会図書館HP『日本之名勝』より)


 さて、実は、今回の話はここからがスタートです。
 これまで書いてきた茶会好きの政界・財界人で、山県有朋、大倉喜八郎、安田善次郎、団琢磨、益田孝(益田鈍翁)らの墓は文京区の護国寺にあります。

 護国寺は、江戸幕府3代将軍・家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母である桂昌院の発願によって創建されました。名刹とはいえ、これほどまで茶の湯に関係する人の墓があるのは偶然ではありません。
 実は、この護国寺を、東京一の「茶の湯の王国」にしようとした人物がいました。それが高橋義雄です。

 井上馨の茶会は、井上が大病を患った直後でもあり、代理の主人として高橋が任命されていました。また、山県有朋が「貧乏人に茶の湯はできない」と愚痴った相手も高橋です。
 茶人として有名な財界人は多数いますが、明治〜戦前の茶会では、高橋義雄が主役のひとりでした。

 高橋は、茶人としては高橋箒庵(そうあん)と名乗っています。
 水戸藩士の子として生まれ、慶應義塾卒業後、福澤諭吉が創設した時事新報の記者になりました。その後、三井銀行に入社し、三井呉服店(三越)の経営改革を行いました。
 有名な話で言えば、日本で初めて陳列販売を始めたり、会計制度を導入したりしたのです。

 高橋は、50歳のときに実業界を引退し、以後は茶道三昧の生活を送ります。護国寺の檀徒総代を務めていたこともあり、護国寺を茶道の総本山にしようと考えたのです。
 高橋は、1922年(大正11年)、まず石灯籠の見本を20基ほど護国寺に寄進します。

護国寺の石灯籠
護国寺の石灯籠見本


 いったいなぜいきなり石灯籠なのか。
 もともと寺社の灯りに使われた石灯籠は、千利休によって、茶室の庭(露地)で使われるようになりました。利休は、秀吉の聚楽第や伏見城など、威圧感のある豪華な庭とは対照的な、自然と一体化したような庭を造っていくのです。古寺の山道や深山の庵をイメージさせるのに、茶庭の石灯籠は効果的だったのです。

 高橋は、1925年、三笠亭、仲麿堂、そして自分の号にちなんだ箒庵という茶室を寄進します。こうして、徐々に護国寺の茶の設備は整っていきます。

 ちょうどその頃、東京は関東大震災の復興で忙しい時期でした。愛宕山で道路拡張工事が行われると、そばの天徳寺で墓地の整備の必要に迫られます。この寺は松江の松平家の廟所です。

《仕方がない。それでは墓地を整備して、ここにある松平不昧公の江戸における墓も国元に移そうか、というような話がでてきた。
 この話を高橋箒庵がききつけた。
 松平不昧は大茶人である。箒庵は松江の松平家の当主だった松平直亮を訪れてたのんだ。
「是非とも不昧公の墓所を護国寺にお移しねがいたい」
 そして、ついに不昧公の墓と松平直亮墓所とが、護国寺に構えられることになった》(『東京の地霊』)

天徳寺、松平不昧の墓
天徳寺にあった松平不昧の墓
(国会図書館HP『大東京名家墳墓考』より)


 続いて、高橋は原六郎の元を訪れ、三井寺から移築した「慶長館」を護国寺に移転するよう頼みます。
 ちなみに原六郎は、横浜正金銀行(後の東京銀行)中興の祖と呼ばれた人物で、日本興業銀行、日本銀行、富士製紙、東武鉄道、東京電燈(東京電力)、帝国ホテルなど多くの企業の設立や事業拡大に貢献しています。
 そして、首尾よく建物は護国寺に移され「月光殿」と名付けられました。

護国寺月光殿多宝塔
護国寺の月光殿(右)と多宝塔

 各界からの寄進はさらに続き、中門の「不老門」、多宝塔が建立されました。
 茶室は「箒庵」「三笠亭」「月窓軒」「化生庵」「草蕾庵」「不昧軒」「円成庵」「宗澄庵」「羅装庵」の9室も揃い、護国寺の「茶の湯」帝国が完成したのです。

護国寺茶室
護国寺の茶室(右が「円成庵」、奥が「不昧軒」)

 

制作:2013年12月2日


<おまけ1>
 
 原富太郎が集めた膨大な茶道具は、現在、三溪記念館に保存されています。三井家の茶道具は三井記念美術館に。ほかにも、五島慶太(東急)のコレクションは五島美術館、小林一三(阪急)は逸翁美術館、野村徳七(野村證券)は野村美術館、藤田伝三郎(東洋紡、南海電鉄)は藤田美術館といった具合で、多くの美術館が茶の湯から誕生してるんですね。

<おまけ2>

 護国寺には、徳川家の石燈籠も残っています。「大猷院殿」「東叡山」と書かれており、大猷院とは3代将軍・家光のことなので、上野の寛永寺にあった家光の霊廟に奉納された石灯籠だと推測されます。おそらく、幕末の上野戦争で散逸したものでしょう。
 上野公園には家光が整備した東照宮もあり、ここには、高さ6メートルの巨大お化け灯籠もあります。
 それにしても、石灯籠には、想像以上にいろんな種類があるんですね。
護国寺石灯籠上野東照宮石灯籠
護国寺の石灯籠(左)と上野東照宮の石灯籠

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