幻の松代大本営を行く!

松代大本営の天皇御座所
天皇御座所(非公開)



 昭和19年(1944年)11月11日午前11時、長野県松代で大きな発破の音が響き渡りました。東京にあった皇居および大本営を、極秘裏に松代に移転する計画があり、そのための工事が始まった瞬間です。

 大本営とは、明治26年(1893年)5月に法制化された天皇直属の軍事司令機関です。日清戦争の頃は広島に置かれましたが、日露戦争のときは、すでに宮中に移っていました。昭和12年、「大本営令」発布で、戦時以外でも設置が可能になっています。

広島大本営の玉座
広島大本営の玉座 (原爆で焼失)



 松代に作られたのは、大本営といっても立派なものではなく、実体は巨大な地下壕です。主な工事現場は以下の3つ。

●イ地区(象山) 〜政府、NHK、中央電話局
●ロ地区(舞鶴山)〜大本営、皇居、宮内省
●ハ地区(皆神山)〜食料庫

松代大本営イ号倉庫
イ号倉庫

松代大本営ロ号倉庫
ロ号倉庫



 なかでもイ地区は巨大で、全長約6キロ、東西に20本・南北に4〜5本の壕が掘られています。内部は縦3m、横4mほどの大きさで掘られており、大人が普通に立って歩けます。現在は500mほどが見学できるようになっています。

松代大本営・象山壕の入口
象山壕の入口(2001年)

松代大本営内部
内部はこんな感じ

松代大本営・電気配線に使われた木片
電気配線に使われた木片(現在は確認できず)


 ロ地区の地下壕の延長は2.6kmで、地上部には半地下式のコンクリート建築が作られました。
 ハ地区は総延長1.9kmで、食料庫として作られましたが、会議室なども併設されています。

 作家・坂口安吾は、戦後、この地下壕を見て「太平洋戦争の巨大な負のモニュメント」と言ったそうですが、いま見ると、たしかに戦争の愚かさを感じざるを得ません。

削岩機
削岩機



 それにしても、なぜ松代に大本営が作られたのか。
 そもそも海岸から近い東京は防衛機能が弱いと考えられており、戦禍が広がるなかで、海から離れた場所へ中枢を移転させる計画が立案されます。中心になったのは陸軍の井田正孝少佐で、1944年5月には八王子の浅川近辺に大本営を移す意見書を提出しています。

 1944年7月にサイパンが陥落すると、本土爆撃が現実の問題になり、東條内閣で松代への移転工事が了承されました。

 松代が選ばれた理由はいくつかありますが、

●信州は海岸線から遠く、「神州」に通じる
●三方を山に囲まれ、岩盤が固い。10トン爆弾にも耐えられる
●地下施設の近くに飛行場があり、鉄道輸送も容易
●平地が多く工事しやすい
●真田の城下町で、土地に風格がある。それでいて民家が少なく機密保持がしやすい

 などとされています。
 すでに日本人の若者の多くは戦場に行っていたため、工事のほとんどは朝鮮人を集めて働かせました。その数は4000人とも6000人とも7000人とも言われます。労働はずいぶんキツかったようで、坑内にはこんな落書きも。

韓国の都市名「大邱」と書かれた落書き・松代大本営
韓国の都市名「大邱」と書かれた落書き



 さて、もっとも頑丈な地盤に作られたロ地区(舞鶴山)にある天皇御座所は、現在、気象庁の地震観測所として活用されています。

松代大本営/御座所
地上の皇居跡。このなかに御座所がある(冒頭の写真)



 現地には、陸軍大臣の阿南惟幾などが視察に来ていますが、昭和天皇は終始、移転に消極的だったとされます。
『昭和天皇実録』によると、最初に移転の話があったのは1944年7月25日。翌日には内大臣の木戸幸一に「帝都を離れると臣民、ことに都民に不安の念を起こし、敗戦感をいだかせる恐れがあるため、できる限り最後まで帝都にとどまりたい」と語っています。

 当初、東京の防空壕から出るのを嫌がった昭和天皇は、敗戦直前の7月31日、こう言いました。

《伊勢と熱田の神器(注:三種の神器)は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。(中略)自分の考へでは度々御移するのも如何かと思ふ故、信州の方へ御移することの心組で考へてはどうかと思ふ》(『木戸幸一日記』より)
 
 昭和天皇は、きっと心のどこかで敗戦を意識していたんでしょう。

皆神山
皆神山(地下壕は崩壊状態)



 1945年6月には、海軍も長野への移転を決めました。地下壕掘削の場所は安茂里(現長野市)で、松代大本営から16kmほど離れていました。およそ約100メートル掘ったところで敗戦となりました。

 敗戦により、地下壕は無用の長物となりました。正確には不明ですが、総工費は1〜2億円(現在の200〜400億円)。全体の75%が完成し、総延長は11キロ弱に達していました。敗戦後は、子供の遊び場やキノコ栽培に使われました。

 1947年10月、昭和天皇は巡幸で長野市を訪問しています。善光寺の展望台から、林虎雄・長野県知事(当時)に「このあたりに戦時中、無駄な穴を掘ったところがあるというが、どのへんか」と尋ねました。林は「正面に見える松代町の山かげに、大本営を掘った跡があります」と答えました。しかし、この証言は『昭和天皇実録』には記録されていません。昭和天皇の真意は、いまとなっては不明のままです。


更新:2021年10月31日


<おまけ>

 御座所にある掛け軸は、松代出身の佐久間象山が作った漢詩です。門弟の吉田松陰が密航を企てたことで蟄居を命ぜられたときの思いが「龍」の無念さをもって記されています。

殷殷闐闐在遠空
密雲不雨日沈紅
雷公有意天下蘇
只向山中起蟄龍

松代大本営の御座所
天皇御座所と掛け軸(2021年)
 
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