日本軍の「伝単」工作
あるいは江戸川乱歩の戦争協力

日本軍の伝単
日本軍が作った伝単
忠勇なる米兵諸君、私(ルーズベルト大統領)の地位と名誉を維持するため、
こんなことをしなければならないのだが、お前たちより、私のほうが苦しいんだよ。
しかし、私の地位ではこれをしないとね。さて、次は誰かな?



 昭和15年(1940年)8月、神田・淡路町の荒井ビル3階に、ある事務所が開かれました。看板には「田中商会」とありましたが、これはカモフラージュで、実際は参謀本部が使っていました。この場所こそ、日本軍の秘密組織「伝単部」の事務所でした。

 伝単とは、敵に対して投降をすすめたり、厭戦気分を植え付けたりする宣伝ビラのことです。
 インドではインド人とイギリス人を離反させるもの、オーストラリアではオーストラリア人とアメリカ人を離反させる目的でもばらまかれました。
 文章だけのものもありましたが、日本軍が作った伝単は、たいていは目立つよう、イラスト入りでカラー刷りでした。

 この事務所で、伝単主任を務めたのは、当時人気の挿絵画家だった太田天橋です。
 太田は、昭和12年、上海戦線で支那(中国)軍向けの伝単を作っていました。すでに写真と活字を使った伝単が50種類以上ばらまかれていましたが、これだけでは効果がなく、漫画が採用されたのです。

 当初ガリ版刷りだった漫画伝単は、その後、オフセット印刷によってフルカラーとなり、太田は支那事変だけで70〜80種類、枚数にして数百万枚の伝単を作りました。

日本軍の伝単
(南方の米兵に向けて)私のように健康で一人前になった女が、
味気ない手紙ばかりで、
満足できるわけないじゃない。あくびが出ちゃうわ…



『日本週報』(昭和34年6月4日号)に掲載された太田の「私がマンガ伝単の元祖だ」という証言録によれば、マジメな伝単ばかりではつまらないと、折り曲げると支那兵が婦女暴行しているようなエロ伝単も作られました。しかし、これは40万枚刷って6万枚ばらまいたところで、軍司令部から「皇軍の威信を傷つける」として、焼却処分が命じられてしまいました。

 また、「投降すれば5元渡す」と書かれた伝単の効果は抜群で、上海付近で6000人、南京付近では3万人の兵士が投降してきました。
 しかし、日本軍の一部には、投降兵を銃殺したり、金を渡さない部隊もあって、日本の伝単の信頼性は徐々に低下していきます。
 
 中国の伝単製造を仕切っていた末藤知夫大佐は「もし全員に5元を渡していたら、支那事変は1年で終わっただろう」と言ったとされます。それほど、伝単の効力は大きかったのです。

日本軍の伝単
男:私には秘密があるんですが、いつもそればかり考えてるんですよ。
(あぁ、抱きたいな)
女:あら、何かしら、想像もつかないわ。だって私はあることで頭がいっぱいなの。
あなたはご存じだと思うけど(あぁ、抱かれたいわ)



 太田は、昭和14年4月、中国から日本に帰国します。
 参謀本部は第2部第8課の下に「伝単部」を作ることを決め、太田に漫画家やイラストレーターなどの人材集めを命じます。
 こうして、那須良輔、松下井知夫、長谷川中央、林勝世らが集められ、淡路町に事務所が開かれたのです。

 淡路町のスタッフは、部外者には化粧品会社の図案部に勤務していると言って誤魔化していました。外部から写真などの資料を借りるにしても、非常に警戒する必要がありました。淡路町の仕事を見れば、今度はどこに軍を動かすのか一目瞭然だったからです。

日本軍の伝単
(一般マレー人に向けて)
マレーの女に手を出す野獣(オーストラリア兵)を皆殺しにしろ



 伝単部の所長は、参謀本部から来た多田督智中佐ですが、現場監督は小岩井光夫参謀が務めました。そして、もっとも暗躍したのが、藤原岩市参謀です。
 藤原は、日本に亡命していたインドのチャンドラ・ボースやビルマ独立軍のタキン・オン・サンらを事務所に連れてきて、伝単用の宣伝文を書かせました。
 1枚の伝単を作るのがいかに大変か、太田の証言を引用しておきます。

《まず宣伝対象になる土地の風俗、習慣を研究しなければならない。絵にかいて現地にばらまくのだから、帽子から、着物、はきものにいたるまで、正確に、現地で使っているものの感じが出なければ、現地人に信用されない。

 東南アジアへ行ったことのない私などは、その方面の権威者の話と写真を参考にしてかいたのだが、こまかい部分に
なると、先生たちもよくわからず、私たちと一緒になって、苦労して考えてくれた。現地ではやっている流行歌をもじって、宣伝文を書いたりしたのだが、その文字がまた、複雑きわまるやっかいなものだった。

 チャンドラ・ボース、オン・サンなどというアジア各地の独立運動の大立者が協力して書いてくれた達筆(私たちには実際のところ上手も下手もわからなかった)だといわれる原稿を手本にして、書きなれぬ文字も四苦八苦して書かねばならなかった。

 彼ら亡命者には側近がいて、側近の手を通して、仕事を手伝ってもらったのだが、支那戦線の伝単とちがって、アジア各地向けのものには、アジア各国の独立という大理想があったので、亡命者たちも積極的に協力してくれたようである》


日本軍の伝単
(ガダルカナルの米兵に向けて)
自由よ、しっかりキスして! もっと人生を楽しみましょ



 各地の民族性を研究するために集められた専門家は、学者や有識者など多種多彩でした。具体的には、鶴見祐輔、松岡洋子、坂西志保などの評論家、そして大下宇陀児、木々高太郎、江戸川乱歩などの探偵小説家です。

 なぜ探偵小説家がたくさんいたのか。松下井知夫がこう証言しています。

《「お前の将校を殺せ」という伝単を作るときなんか、有名な探偵作家に駿河台に来てもらって、殺しの方法を研究してもらったのですよ。どうしたら 痕跡の残らない完全犯罪ができるか。

 こういう伝単を、現地人よりもむしろ外人将校に読ませる。そうすると、将校は朝ミルクが飲めなくなってしまう。そういういろいろな方法を書いて、それを図解した伝単を向こうにまくわけです。そういう神経戦をやったけれども、これはきいたと思う。

 そのときなんか、灯火管制の暗い部屋で探偵作家がボソボソ話をしているんで、何か異様な雰囲気でした》


日本軍の伝単
君は必要とされている!
 どうしてあなたは私を置き去りにしたの?
 寂しくて耐えられない。この沈黙、この溢れ出る、満たされぬ情熱……
 どうして私ひとりが苦しまなければいけないの?
 なぜ帰って来てくれないの? なぜ?



 昭和18年(1943年)7月、参謀本部は駿河台の文化学院を接収して、宣伝・謀略の仕事を組織的に行うようになりました。「駿河台研究所」という看板を出し、イギリス人捕虜を数十人連れてきて、謀略放送なども始めました。戦後、アメリカに逮捕され有名になった「東京ローズ」も、ここで放送していたのです。
 
 伝単部は、一時、文化学院に移動しますが、まもなく九段の野々宮アパートに移動します。ここには、やはり参謀本部写真部のデザイン事務所があったからです。敵に直接、宣撫工作するのではなく、質の高い画報や宣伝パンフレットを頒布していた「東方社」です。

 評論家の中島健蔵が社長で、木村伊兵衛、濱谷浩ら有名カメラマンが、原弘のアートディレクションの下、主にソ連向けのプロパガンダ雑誌『FRONT』を発行していました。
 そして、漫画「フクチャン」で有名な横山隆一や、風刺漫画家・近藤日出造らも漫画で対ソ工作を行っていました。

日本軍の伝単
投降心得
1 白旗を掲げて我が軍に来たれ
2 銃は左肩後ろに掛け、銃口は下にせよ
3 この通行証を歩哨に示せ
4 この通行証は何人でも有効である


 昭和20年3月10日の東京大空襲で、野々宮アパートは上層階が焼失。東方社はそのまま九段に残り、図案部は再度、文化学院に移動し、ここで終戦を迎えます。

 終戦直前になると、今度は日本中でアメリカの伝単がばらまかれました。日本の伝単と違って黒一色で、毛筆で長い文章が書かれていました。
 アメリカは主に戦時情報局ニューヨーク事務所で対日伝単を作っていましたが、実際の作業は絵本画家だった岩松淳が行っていました。
 
 日米「伝単」戦争は、日本人同士の戦いでもあったのです。

日本軍の伝単
(ガダルカナルの米兵に向けて)
「愛しいジョニー、私を夢中にさせたジョニー、
あなたがいないから気が狂いそうだわ。早く戻ってきてよ」
(とバナナを手に持つ女性)
白地の部分を切り抜いて、指を動かすと思わず興奮してしまう


制作:2014年9月8日


<おまけ>
 伝単部の淡路事務所を開設するのに尽力した藤原岩市は、昭和16年(1941年)9月、山下浩一の偽名で、タイに着任しました。彼の任務は4つあり、

 ①インド兵をイギリスに反逆させ、マレー在住90万人のインド人を日本に協力させる
 ②シンガポールの華僑を日本に協力させる
 ③マレー人を反英闘争に立ち上がらせる
 ④匪賊の「マレーの虎」ハリマオを使って、各地に混乱を起こさせる(ハリマオの正体は日本人の谷豊)

 
 要は、インドを中心に各国の独立運動を支援したのです。この秘密組織の名前は、藤原の名前を採って「F機関」と呼ばれました。
 F機関の支援の下、チャンドラ・ボースは1943年10月21日、シンガポールで自由インド仮政府首班となり、独立への道を突き進むのでした。

日本軍の伝単
(一般インド人に向けて)復讐! 復讐! イギリス兵に復讐せよ!
 
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