朝鮮通信使がやってきた
200年間の国際交流の光と影

朝鮮通信使の行列
通信使の行列


 1607年(慶長12年)5月、朝鮮から来た467人の一行は、静岡県の興津に宿をとっていました。
 そのとき、徳川家康から「ぜひ自分の船で遊覧してほしい」との申し出があり、一行は船5隻に分乗して、名勝として名高い清見潟を観光しました。


清見潟(『東海道名所図会』)
右下が清見潟(『東海道名所図会』)


 沖合には、長さ300尺(90m)以上の巨大な南蛮船が1隻停泊しています。船は2層構造で、左右に36の櫓が突き出しており、船首には黄金の獅子の座像と龍の頭の彫刻。両側にはまるで柱のような鉄の錨が2つありました。船体は雲、龍、花、草、人、鬼神などの鮮やかな彫刻で彩られています。

 6〜7人の南蛮人が日本人を帯同して船を警護していました。南蛮人の一人がマストの上を歩く姿は、まるで蜘蛛が糸を伝って歩くように見事でした。

 遊覧したのは朝鮮通信使の一行で、このエピソードは『海槎録』という文書に漢文で書かれています。
 また、このときの南蛮船と思われる船が、九州国立博物館の南蛮屏風に描かれています。


南蛮船
南蛮船(ColBaseより)


 朝鮮通信使は、もともと倭寇への対策を日本に要請するため、室町時代に始まりました。

 信長は貿易を実現するため、日本から朝鮮に使節団を派遣しますが、朝鮮側はこれに応じません。
 次いで秀吉の時代、天下統一の祝賀を理由に、朝鮮は日本に使節団を送ります。朝鮮側の本心は侵略の意図を知るためでしたが、秀吉はこれを服属使節と思いこんでいたため、双方の疑念を呼ぶこむことになり、結果、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の遠因になります。

 秀吉亡き後、家康は朝鮮との国交回復を目指し、和睦の道を探ります。慶長4年、家康は対馬領主の宗義智を呼び出し、朝鮮に使者を派遣するよう命じます。

《日本朝鮮通交年久し、秀吉公征伐の後隣好の道絶ぬ、好を通じ交を結ぶは両国の為なり、対州(対馬)より使者を遣し書を贈て、朝鮮和交を致されべき哉否を試むべし、彼国和交を調うべしと意あらば、公命と申し和睦を相談あるべしとなり》(『対韓雑記別録』)

朝鮮通信使を運んだ船
通信使を運んだ船


 朝鮮側は、終始、疑心暗鬼でしたが、1607年に第1回が実施されました。最終的に1811年まで、全部で12回行われています。
 最初の3回は国書への回答と捕虜の返還が目的だったため「回答兼刷還使(さっかんし)」と呼ばれましたが、4回目以降、「信(よしみ)を通じ合う」として「朝鮮通信使」と呼ばれるようになりました。

 一行のルートは、釜山→対馬→下関→鞆浦→牛窓→神戸→大阪を船で行き、そこから陸路で京都→大津→彦根→大垣→名古屋に出て、東海道を江戸まで向かいます。
 なぜ琵琶湖から直接東海道に出ないのかというと、草津から守山までの浜街道は、家康が関ヶ原の合戦勝利で駆け抜けた祝賀道路なので、ここを通ることは必須だったからです。

 通信使は、朝鮮国王の親書を携えた正使、副使、従事官(三使)を筆頭に、総勢300人から500人の大規模な使節団です。そのなかには、漢詩や書、絵画、楽器に秀でた文化人だけでなく、踊り手や「馬上才」という大道芸を披露する人々もいました。日本側は、家康が船で歓待したように、精一杯の接待を行いました。

東本願寺
江戸の宿泊地・東本願寺


 準備は大変で、通信使の来朝の1〜2年前から徐々に始まります。
 大きな宿泊施設を新設・改築し、ルート上の橋や道などの修復が命じられます。幕府からのお達しは《一里塚、宿の入口、土手、矢来の欠損箇所は修復せよ、並木を植栽せよ》(1747年)などと厳しいものでした。
 これらのチェックをする役人が150人ほどいて、来朝の半年前になると、役人用の印鑑が各宿泊地に回されます。

 そして、使節一行を運ぶ馬を用意しなくてはいけません。たとえば神奈川では、1682年に、馬1803匹・人足1755人を準備しろとの命令が下っています。
 1682年(第7回)までは、食事は本膳料理で、上級官には以下のような食事が出されました。

 朝夕 一の膳7品・二の膳5品・三の膳3品(七五三)
 昼  一の膳5品・二の膳5品・三の膳5品(五五五)

 記録に残るメニューは、サザエ、鯛、マツタケ、ウリのかす漬け、鴨肉の塩漬け、ようかんなどです。

李朝時代の民族衣装
李朝時代の民族衣装(ソウル)


 こうした出費は、ルート上の各藩に大きな負担となりました。
 そのため、1711年の第8回から大幅にレベルが下げられました。それでも、牛窓では次のような饗宴が行われたと記録されています。

《午後4時、一行は下船を始め、三使は輿に乗って接待所である「御茶屋」に向かう。御茶屋の門は左右に弓、鉄砲、長柄などの武器で飾られ、門から式台まで毛氈が敷き詰められている。三使が到着すると岡山藩の家老が正装で出迎える。饗応は18時から始まり21時半に終了した》(岡山大学所蔵「朝鮮通信使帰国之節於備前国牛窓饗応次第」)

 宿泊地は、風光明媚なところが選ばれました。
 福山の鞆の浦では、市中の30ほどある寺に分散して宿泊しました。中心となったのは福禅寺で、瀬戸内の島が箱庭のように見える風景に、1711年の通信使が「日東第一形勝』と称賛しました。また、1748年、福禅寺の客殿を「対潮楼」と命名し、書を残しています。

鞆の浦の福禅寺
鞆の浦の福禅寺「対潮楼」

鞆の浦の福禅寺
福禅寺の看板(わざわざ出向いたのに工事中でやんの…)


 通信使一行が期待したのが、やはり富士山です。1764年の通信使の記録『日本壮遊歌』では《富士山は海東の名山中、第一だと納得する。峠の北側には箱根沢(芦ノ湖)が豊かな水をたたえ、紺碧の色は(福岡の)相島の海のようだ。見事な眺めはまさに天下の奇観である》などと記録しています。

 朝鮮通信使の関連資料は、2017年10月、ユネスコの「世界の記憶(世界記憶遺産)」に登録されました。全333点のうち、48点が静岡県興津の清見寺に残されています。

清見寺
朝鮮通信使が通った大玄関


 清見寺は、679年に創建されたとされる、東海道屈指の名刹です。足利尊氏が保護し、今川義元の人質だった家康が子供の頃にここで勉強しました。

清見寺
家康の「手習いの間」


 石段を上って最初の山門に掛かる扁額は、1711年の通信使が書いた「東海名区」。あまりに美しい景色に感動して書いたものです。また、境内正面の額「興国」は1655年の正使が書きました。
 鐘楼には1643年の通信使が書いた「瓊瑶(けいよう)世界」という扁額がかかっています。「瓊」と「瑶」という2つの玉が、互いに照らして輝きあう、という意味です。

清見寺
「瓊瑶世界」の額が掛けられた鐘楼


 寺には非常の多くの寺宝がありますが、なかでも価値があるのは「山水花鳥図押絵貼屏風」です。清見寺の景観が朝鮮の洛山寺に似ていることから、1764年、山水画家として有名な金有声が描いたものです。
 
 清見寺冒頭で触れた『海槎録』には、《清見寺の後ろに大きな滝があり、門は大海に臨む》とあります。高台にある境内からは広い海と三保の松原が見晴らせ、その眺めは絶品だったと記録されています。

清見寺
「山水花鳥図押絵貼屏風」

 さて、朝鮮通信使と日本側は、どのようにコミュニケーションを取っていたのか。その記録も清見寺に残されており、通訳がいなければ、筆談でした。

清見寺
筆談の様子


 1655年、通信使の南壷谷が、《滝の水がはねて夕日に輝く》といった清見寺の美しさを詩文にして残します。
 1764年、この詩を見た通信使の一人が、住職にこう聞きます。

「壷谷の文章・筆法は、我が国では有名なのに、どうして懸板にしないのか」(1)
「100年前のことだし……後でやりますよ」(2)
「いや、いますぐ懸板にして掛けなさいよ」(3)
「わかりました(諾)」(4)

 清見寺は、すぐに懸板にして、約束を守りました。
 このように、清見寺に残された資料から、両国の深い交流の跡が伺えるのです。

清見寺
壷谷の詩のオリジナル

清見寺
壷谷の詩を懸板に


 とはいえ、現実問題として、友好関係はなかなか構築できるものではありません。
 残された資料からは、お互いの不信感がしばしば頻出するのです。
 朝鮮通信使は、あくまで日本側の依頼で始まったもので、基本は土下座外交です。

《家康の政敵の豊臣秀頼は大阪城に在る。換言すれば国内に敵があるが、この敵はどうしても滅亡させなければならないという点から、朝鮮との国交復活をあまりにもあせったという感があり、朝鮮王の尊大な態度を黙認したふうに見える》(『日本の風俗』第2巻6号所収/田村栄太郎「朝鮮通信使来朝と伝馬」)

 前述のやり取りからもわかるように、朝鮮側は横柄な態度を取りがちでした。

 たとえば、莫大な経費に音を上げ、1682年に大規模な経費節減がありました。すると、朝鮮側は低い待遇に怒り、詐病によって日程を変更させ、大きな損害を与えたと近江八幡の記録に残されています。

《京都で夕食がなかったことに怒り、近江八幡で病気になったふりをし、先に守山まで到着していた荷物を引き戻させた》(『近江蒲生郡志』8巻「享保4年の通行と八幡町」)

 1764年には、大阪で、対馬の通訳だった鈴木伝蔵が、朝鮮の随行員を殺害する事件(唐人殺し)も起きました。原因は、朝鮮人と口論になってさんざん殴られたから、とされています。

朝鮮通信使
葛飾北斎『富嶽百景』(国会図書館)


 さらに、儒学者・中井竹山が松平定信に上奏した『草茅危言』(1791)には、朝鮮はあまりに無礼だと、以下のような内容が書かれています。

《朝鮮は、日本の無知に乗じて、道中に「巡視の旗」「清道の旗」「令の旗」などを立てるが、「巡視の旗」は日本を属国だとみなしている証だ。「清道の旗」は道を清めよと命令しており、「令の旗」は号令を聞けと言っているわけで、はなはだしく無礼だ》(『草茅危言』2巻「外舶互市」)

 結局のところ、200年で12回行われた通信使は、本質的な相互理解には結びつかなかったことがわかります。

朝鮮通信使
朝鮮人の来朝行列

 
 1719年、徳川吉宗の将軍就任を祝って来朝した朝鮮通信使の申維翰は、『海游録』という記録を残しました。そこには、多くの誤解と偏見が記録されています。例えばこんな具合。

《平賊の秀吉は、信長に変わって天下を取ったが、噂では中国人で、木こりの奴隷だったという》
《日本には科挙がないので、官僚はみな世襲である。そのため、奇才が世に出ることはなく、民間人のなかには恨みを抱いて死んでいくものもいる》
《男女は家では混浴し、昼間から馴れ合い、夜は必ずみだらな行為をする。人々は春画と数種類の媚薬で歓情を尽くす》


朝鮮通信使
一行が昼食をとった八幡山と八幡堀(近江八幡)


 このときの通信使に同行していたのは、何度も朝鮮に渡って交流を深めていた対馬藩の通訳・雨森芳洲です。

 最後に、雨森芳洲と申維翰の会話を『海游録』から翻訳しておきます。

——いまだにあなた達は、我らのことを「倭人」というが、それは望まない。
「貴国の名は長らく『倭』であったではないか。何が不満なのだ」
——(中国の本)『唐書』に「倭」を改めて国号を「日本」にしたとある。願わくば、今後は我らを「日本人」と言っていただきたい。
「しかし、あなた達は我らを『唐人』と呼び、我が国の筆帖を『唐人筆蹟』と名付けているではないか。これはどういうことだ?」
——国令では「客人」とか「朝鮮人」というのだが、日本では古くから朝鮮文化を中国と同等に扱っている。それで、「唐人」という言葉で敬意を表しているのだ。


 このように、お互いの国の呼び方からして混乱していたのです。
 朝鮮通信使の歴史は、国同士の交流の難しさを物語る歴史だったのです。


制作:2018年7月5日


<おまけ>

 1990年5月24日、来日した韓国の盧泰愚大統領は、宮中晩餐会でこう述べています。

《270年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は、<誠意と信義の交際>を信条としたと伝えられます。かれの相手役であった朝鮮の玄徳潤は、東莱(釜山)に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました。今後のわれわれ両国関係もこのような相互尊重と理解の上に、共同の理想と価値を目指して発展するでありましょう》

 この倭館は「草梁倭館」と呼ばれた日本人居留地です。対馬の島民約500人が常駐し、鎖国中は外交、貿易の窓口となりました。

朝鮮通信使
倭館(国会図書館『海東諸国紀』より)
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