消防の歴史

明治時代の火事の様子
イギリスの新聞が報じた東京の火事の様子
(絵入りロンドンニュース、1878年11月16日)


 火事と喧嘩は江戸の華といいますが、明治時代になっても、東京は何度も火災の被害に遭っています。
 1872年(明治5年)には、丸の内、銀座、築地一帯が焼失する大火事があり、これがきっかけで銀座がレンガ造りの町になりました。
 明治6年には皇居として使われていた旧江戸城の西の丸御殿が姿を消しました(明治21年に明治宮殿として再建)。
 以下、有名な場所だけでも、明治10年、外務省焼失。明治24年、国会焼失。大正12年、帝国ホテル焼失。大正14年、国会焼失……といった感じです。

 では、日本の防火はどのようにおこなわれてきたのか。

 江戸の消防組織は、武士によって組織された「武家火消」と、町人によって組織された「町火消」がありました。
 江戸城も炎上した明暦の大火(1657年)以降、組織改編が進み、整備が始まります。

 武家火消は、おもに以下の4つに分かれます。当然ですが、基本は江戸城を守る配置となっています。

 ●定火消(じょうひけし)  =幕府直轄で旗本が担当。1704年以降は江戸城の周辺に10組で編成
 ●大名火消         =大名16家の課役。1万石につき30人で、10日交代で大名屋敷と江戸城の防備
 ●方角火消         =江戸城の防備。延焼を防ぐのが目的で、消火の主力ではない
 ●所々火消(しょしょびけし)=霊廟や橋、米蔵など重要地点の防火

 これに加え、前田家お抱えの火消し「加賀鳶(とび)」や有馬藩の「有馬火消」などがありました。鳶衆は羊などの革を使った羽織(革羽織)を着て、水で濡らしながら消火活動をしました。

馬喰町の火の見櫓
馬喰町の火の見櫓(『江戸名所図会』)


 定火消を命じられた旗本は、広大な火消屋敷に住んでいました。敷地内には火の見櫓が設けられ、火事を告げる太鼓と半鐘もありました。屋敷内には臥煙(がえん=火消人足)が詰めており、火事になると一斉に出動するのです。
 ちなみに、定火消が作られた1658年の翌年の正月には、すでに上野東照宮で出初式がおこなわれるようになりました。


出初め式
出初式

 
 民間では、自衛消防団を設けるも長続きせず、大岡忠相(大岡越前)が1718年、町火消組合の設置を命じ、組織化されました。具体的には、隅田川より西を「い組」「ろ組」など「いろは」48のグループで、隅田川より東(本所・深川)を1〜16の16グループで分けました。
 以下、1856年の配置です(『江戸時代制度の研究』上巻による)。

 ●一番組  い組 よ組 は組 に組 万組
 ●二番組  ろ組 せ組 も組 め組 す組 百組 千組
 ●三番組  て組 あ組 さ組 き組 ゆ組 み組 本組
 ●五番組  く組 や組 ま組 け組 ふ組 こ組 え組 し組 ゑ組
 ●六番組  な組 お組 む組 う組 ゐ組
 ●八番組  ほ組 か組 わ組 た組 
 ●九番組  れ組 そ組 つ組 ね組
 ●十番組  と組 ち組 り組 ぬ組 る組 を組

<本所・深川組>
 ●南組   1組 2組 3組 4組 5組
 ●中組   6組 7組 8組 9組 10組 11組
 ●北組   12組 13組 14組 15組 16組

 四番組と七番組がないのは、江戸っ子が「し」と「ひ」の発音を区別できなかったから(人によって「七番」の発音が「しちばん」か「ひちばん」になる)。
 また、「へ」「ひ」「ら」「ん」の文字は「屁」「火」「マラ」「糞(ふん)」に通じることから忌み、「百」「千」「万」「本」に変えられました。

明治初年の消防士
明治初年の消防士(六番組「う組」?)


 江戸時代の消火は、燃え広がらないよう、周りの家を壊す「破壊消火」が主でした。
 
①「纏(まとい)持ち」がはしごを使って屋根の上に上がり、火を消す範囲を明示。纏を守るため、大団扇で火の粉を防ぐ
②鳶口(とびくち)、刺又(さすまた)、ノコギリなどで家屋を引き倒す
③水桶、玄蕃桶(げんばおけ)で水を補充しながら、「龍吐水(りゅうどすい)」「雲龍水」と呼ばれる木製の手押しポンプで放水

 龍吐水は、高さ120センチ、重さ15キロくらいの木箱ポンプです。横についた木の棒を上下させることで、水を吸い上げます。ホースの先に近づくほど細くなり、勢いよく水を噴射する仕組みになっていますが、それでもせいぜい10数メートルしか放水できませんでした。そのため、消火にはあまり効果がなく、延焼防止や半纏(はんてん)を着た纏持ちを水で濡らすために使われたようです。

明治8年頃の第4消防分署
第4消防分署の「龍吐水」(明治8年頃)


 明治になると、武家火消は消滅し、町火消が東京府の消防局に移管されます。一時、家屋税が導入され、税収が消防費に充当されました。
 1872年(明治5年)、「消防組」39組を編成。その後、消防の所管はころころ変わりますが、1880年(明治13年)、内務省警視局に消防本部が設立。これが東京消防庁の始まりとされます。
 そして、翌年、消防本署の下に6つの消防分署が設置されます。

 消防第1分署(現在の日本橋消防署)/消防第2分署(現在の芝消防署)/消防第3分署(現在の麹町消防署) 
 消防第4分署(現在の本郷消防署)/消防第5分署(現在の上野消防署)/消防第6分署(現在の深川消防署) 

消防第三分署(麹町消防署)
消防第3分署(麹町消防署)


 消防は基本的に警察の管理下に置かれました。もちろん、これは火事場泥棒を防ぐための措置です。消防の経費は国庫負担とされました。
 そして、1894年(明治27年)、勅令第15号をもって「消防組規則」が公布され、消防は地方知事の警察権の下で管理されることになりました。ただし、経費は市町村の負担です。

 明治以降、ようやく水をかけて火を消す「注水消火」がおこなわれるようになります。
 1875年(明治8年)、フランス消防隊が使用していた腕用ポンプを導入。

腕用ポンプ
腕用ポンプ(昭和町風土伝承館)


腕用ポンプ
腕用(わんよう)喞筒(しょくとう)図解


 その10年後には、イギリス製の蒸気ポンプを導入します。しかし、このポンプには大きな問題がありました。石炭で火をおこすので、放水のための蒸気を得るまで20分もかかったからです。現場に早く出向いても何もできないため、放水できるまでわざわざ待ってから、出動することになりました。

蒸気ポンプ
明治18年に導入された蒸気ポンプ


蒸気ポンプ
蒸気ポンプ図解


 1890年(明治23年)、東京に消火栓を450尺(137m)おきに設置することが決まり、こうして、注水消火が主流を占めるようになりました。

消火栓
消火栓(東京都水道歴史館)


 大正に入ると、ガソリンポンプやポンプ自動車が導入されます。
 そして、1935年(昭和10年)、はしご車や照明車が導入され、1936年(昭和11年)には救急車や消防艇が導入されました。
 戦後になって、水槽つきポンプ車が導入され、1954年(昭和29年)、高圧ポンプ車が登場するのです。
 なお、119番が導入されたのは1926年(大正15年)のことでした。

バイク式ポンプ車
バイク式ポンプ車(1927年)

ポンプ車
森田製作所(現モリタ)のポンプ車(1927年)


 江戸時代の火消しには何人か有名人がいますが、最も知られているのが、「を組」の頭、新門辰五郎です。

 新門辰五郎は、諸説あるものの、1792年(寛政4年)、下谷の飾り職人の息子として生まれました。
 浅草寺の本坊「伝法院」の「新門」の警護役だった町田仁右衛門の養子になったため、子供の頃から浅草寺で育ちました。長じて、浅草寺を火から守ることに命をかけたのです。

 辰五郎は、浅草奥山(歓楽街)の利権を押さえたことで、江戸最後の任俠と呼ばれるほどの人望を集めました。
 徳川慶喜から信頼され、慶喜が禁裏御守衛総督に就任すると、警護役として京都に随行します。
 
 鳥羽伏見の戦いが起こり、慶喜が江戸に逃げ帰るとき、炎上した大阪城に置き忘れた「大金扇(きんせん)の馬印」(徳川家康が戦場で自分の位置を示した装飾物)を取りに戻ったことで、慶喜からの信頼はさらに篤くなりました。

炎上する大阪城
炎上する大阪城


 1868年(慶応4年)、勝海舟と西郷隆盛が会談し、江戸城が無血開城します。
 このとき、勝海舟は会談がうまくいかなかった場合、江戸を焼き尽くす算段をとっていました。その火付け役の中心は、火消しを束ねていた辰五郎だったと言い伝えられています。
(勝と辰五郎は知り合いでしたが、辰五郎が放火に同調するとは思えず、おそらくは後世の作り話)

 無血開城後、徳川家の菩提寺である上野・寛永寺に彰義隊がこもり、政府軍との戦争が始まります。新門辰五郎は寛永寺を兵火から守ろうと奮闘しますが、官軍の砲撃の前に、根本中堂など主要な伽藍はすべて焼失してしまいます。これを最後に、辰五郎は火消役から引退、1875年(明治8年)に死去します。

上野戦争
上野戦争で寛永寺焼失


 辰五郎が慶喜に尽くしたのは、娘の芳が慶喜の妾(めかけ)だったからとも言われますが、おそらくこれも後世の作り話です(辰五郎が70歳のとき、慶喜は25歳)。
 江戸っ子の男気が慶喜を支えた理由だと思いますが、京都、静岡、水戸と、慶喜が住んだ場所には、同行した辰五郎によって火消し制度が整えられていくのです。

 辰五郎が死んで40年ほどたった1913年(大正2年)11月22日、徳川慶喜が薨去(こうきょ)します。葬儀には旧大名の当主すべてが参列し、勅使も参向しました。市中では歌舞音曲が禁止され、沿道には葬列を見送ろうと、多くの市民が立ち並びました。
 葬列のなかに、ひときわ目立つ一団がいました。新調した半纏を着込み、纏(まとい)を並べた消防団のメンバーたちです。徳川慶喜の葬儀に消防団が参列できたのは、もちろん新門辰五郎のおかげでした。


制作:2015年1月25日


<おまけ>
 火消しで有名な人物に、新門辰五郎とは別人の辰五郎がいます。
 1805年、町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件が起こります。いわゆる「め組の喧嘩」で、歌舞伎の『神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)』として有名になりました。作中では、め組の辰五郎と力士の四ツ車大八が主人公になっていますが、実はこの乱闘には、史上最強の力士である雷電為右衛門も参加していたそうですよ(白柳秀湖『親分子分(侠客篇)』による)。

 また、「に組」のまとい持ちには、背中に狐の彫り物をした野狐三次もいました。
 講談や歌舞伎では、火消しが主人公になっている話がけっこう多いのですな。
モリタ消防車
日本最大のメーカー「モリタ」の消防車
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