ガガーリン資料集4
幼少期から家族まで・27歳の履歴書

ガガーリン
オレンブルグ飛行学校時代のガガーリン


 ユーリー・アレクセービッチ・ガガーリン……この名、歴史上最初の宇宙飛行士の名は、世界のすみずみに知れわたった。世界文明の歴史に新しい1ページを書きくわえたかれは、いったいどんな人であろうか?

かれは27才
 
 ユーリー・ガガーリン少佐は27才である。かれは1934年3月9日に、ロシア・ソビエト社会主義連邦共和国スモレンスク州グジャツク地区のコルホーズ農民の家にうまれた。

 1941年にかれは中学校にはいったが、ヒトラー軍の侵入のため学業を中断せざるをえなかった。
 第2次世界大戦の終結後、ガガーリン一家はグジャツク市にうつった。ここでユーリーは中等教育をつづけた。1951年にかれは、モスクワ近郊のリュベルツィ市の職業学校の造型・鋳物工の課程を優秀な成績で卒業し、同時に労働青年学校をも卒業した。

 その後、ユーリー・ガガーリンは、ボルガ河畔のサラトフ市の中等工業技術専門学校に学んだ。1955年にかれは、この中等技術専門学校を優秀な成績で卒業した。

 ガガーリンは、中等技術専門学校の生徒のとき、航空界への最初の歩みをはじめた。かれはサラトフ航空クラブで勉強した。航空クラブの課程をおえたのち、1955年にかれはオレンブルグ市の飛行学校にはいった。ガガーリンは1957年にこの学校を卒業して、一等飛行士の資格をえ、そのとき以来、飛行士としてソ連空軍に勤務している。

 昨年、ユーリー・ガガーリンはソビエト連邦共産党に入党した。
 かれには妻がある。かれの妻のワレンチーナ・ガガーリナは、26才で、オレンブルグの医学校を卒業した。長女のエレーナは2才、二女のガーリャは生後1カ月である。

 ガガーリンの父親は59才で、大工として働いている。母親のアンナは1903年生まれで、主婦である。
 以上が略歴である。かれの履歴書はごくみじかい。ところがこれこそ、フルシチョフ首相から「あなたは祖国に栄光をもたらした……あなたは不滅の人になった」といわれた英雄の経歴なのである。

かれはグジャック地区でうまれた

 モスクワ州に隣接するスモレンスク州には、優秀な亜麻栽培で有名な地区がある。その地区の中心地はグジャック市である。
 グジャック市は古いロシアの都会で、グジャチ川を利用して穀物その他の貨物をペテルブルグへ輸送するための波止場として18世紀はじめにひらけたものである。グジャックは大きな鉄道駅で、モスクワ=ミンスク高速道路の通過地点でもある。

 1934年3月9日、グジャック地区内のある村にすんでいたコルホーズ農民のアレクセイ・イワーノビッチ・ガガーリンの一家は、二男の誕生を祝った。男の子はユーリーと名づけられた。

ガガーリンと両親
ガガーリンと両親


 7才の少年ユーリー・ガガーリンは、ヒトラー軍の侵入を目撃し、経験することになった。忘れようにも忘れられないーーのっぽで赤毛のファシストが、無邪気ないたずらをしたというので弟のボリスを小犬のようにつかまえ、そのえり首をリンゴの木の枝にひっかけてぶらさげたことを。かれはまた、母親アンナ・チモフェーブナの悲嘆の涙を忘れない。ヒトラー兵のために自分自身が街頭にほうりだされたときの、あの恐しい、寒い夜のことも忘れない。

 学校ではユーリーは数学と物理学を熱心に勉強した。数学サークルにはいり、余暇を物理実験室ですごした。
「ユーリーがまだ中学で勉強していたころ、かれはもう飛行士になる夢をいだいていたようです」
 と、ユーリーの弟ボリスはかたっている。小さな町の子どもたちは、飛行機や飛行士のことを、図書館の本でしか知ることはできなかった。しかしユーリーは、いつも、いろいろな飛行機の絵をどっかから見つけだしてきて、それらの小さな模型をつくっていた。

 ユーリーは自分の航空熱について、とくにおしゃべりするのを好まなかったが、この航空熱のほか、かれはスポーツに熱中した。フットボールをやり、バスケットボールをやったが、結局はどちらかひとつを選ばなければならないと、いつも言っていた。サラトフの中等工業技術専門学校にはいってから、かれは飛行術を学びたいと手紙に書いたことがある……。

職業学校で

 ユーリーのいとこのアントニーナ・イワノフスカヤは、もう長いあいだモスクワに住んでいる。
 彼女はこうかたっている。

「いまいたるところでユーリーの経歴のごく細かい点も興味がもたれていることは、わたしにもわかります。それと同時に、かれの生括のうちで、普通とちがった点とか、興味のある点とか、ジャーナリストがよくいうセンセーショナルな点とか、なにかそう言えるような特色は、とても思いだせません。かれの生括と学習は、かれと同じような数千の若いソビエト人の生活と学習です。かれの経歴は、かれと同じ年頃の人たちの経歴とまったくおなじ です。

 ユーリーがグジャツクからわたしたちのところにきたとき、わたしと夫はモスクワに住んでいました。かれは中学6年を卒業したばかりでした。ユーリーがこれからどこで勉強するか、わたしたちは親族会議をひらきました。この会議で、かれを冶金技師にすることがきまりました。かれの職業についての夫の話は、ユーリーの関心をひきました。そこでかれは冶金労働者養成学校のひとつにはいる決心をしました。

 その翌日、わたしたちはモスクワ近郊のリュベルツィ工場へいきました。あすこにはいまでも工場に付属して職業学校があります。わたしたちはあやうく遅れるところでした。といいますのは、わたしたちのいった日に、最初の入学試験がはじまったからです。

 ユーリーが遠くからきたのを知って、学校の教務主任の方はーー若い、たいへん親切な方でしたが、残念なことにお名前を忘れてしまいましたーーユーリーに試験をうけさせてくださいました。ロシア語と算術の最初の試験に、ユーリーはみごとにパスしました。こうして、かれがこの学校にまなぶ問題は解決されました。モスクワとの長距離の往復で学業がさまたげられないようにするため、ユーリーは寄宿舎にいれてもらいました。
 職業学校で勉強していたあいだに、ユーリーは夜間の労働青年学校を卒業することもでき、卒業証書を授与されました」。

ガガーリン
リュベルツィの職業学校で実習中

ボルガ河畔の都市で

 ユーリー・ガガーリンの道は、モスクワ近郊のリュベルツィ市から、ロシアの大河ボルガの岸につうじていた。1951年にかれはサラトフ市にうつり、中等土業技術専門学校にはいった。4年のあいだ鋳物工の専門技術を学び、すべての試験に優秀な成績でパスした。ユーリーにはいつも余裕があった。社会活動でも、学習でも、自分の航空熱でも、なんでもやる時間があった。職業学校と同じように中等技術専門学校も、かれは優秀な成績で卒業した。

 しかし、飛行士になりたい、大空の征服者になりたいという夢は、かれの頭をはなれなかった。かれがはじめて自分の手で金属から鋳造したものが、飛行機の模型であったのも偶然ではない。ひまなときガガーリンは、1954年に入会した航空クラブで勉強した。

 ユーリーは選考委員会をわけなく通過した。質問にたいするかれの回答、きたえられた筋肉、冷静な態度ーーこれらはすべて、このがっしりした青年がりっぱな飛行士になることを、選考委員たちにしめした。

 航空クラブの課業は、1週に3度、夜間におこなわれた。中等技術専門学校の学習と航空クラブの課業とをむすびつけることは、なまやさしいことではなかったが、しかしガガーリンは自分の時間をくりあわせて、うまく割りふることができた。すべての科目の理論課程を、ガガーリンはみごとにパスした。

 並はずれてまじめなユーリー・ガガーリンは、たちまちのうちに飛行技術を身につけた。かれの教官は、経験ゆたかなパイロットのドミトリー・マルチャノフであった。ユーリーは「ヤク=18」型機で訓練をうけた。かれは教官といっしょにわずか22時間しか飛ばないのに、最初の単独飛行をゆるされた。それは1955年7月のことであった。

ガガーリン
サラトフ市の中等技術専門学校時代(1953)


飛行技術がみがかれるとともに、人間として成熟した

 古いロシアの都会オレンブルグには、飛行学校がある。この飛行学校からは、有名な飛行士がたくさん生まれた。そのうち134人はソ連邦英雄で、さらにそのうち13人はこの名誉ある称号を2度もさずけられている。ワレリー・チカロフ、アナトリー・セロフその他、ソ連の有名なパイロットたちが、この学校でまなんだ。
 そしてこのオレンブルグの大草原で、未来の宇宙飛行士はその飛行技術をみがいた……。

 ユーリーに飛行術をおしえたアナトリー・ルキヤビッチ・アガフォノフは、こうかたっている。

「在学中のガガーリンはりっぱな学生でした。かれの成績は優ばかりでした。理論の学習にとりわけ多くの注意をはらい、ツィオルコフスキー、ジュコフスキー、チャプルィギンその他、航空科学の大家たちの労作を夢中になって読んでいました。最初のスプートニクが打ち上げられたとき、かれはソビエト科学技術のこの成果にかんする資料を熱心に研究していました。

 ユーリーは学校を優等で卒業し、中尉になって出ていきました。学習中、スポーツに熱中し、すぐれた体操家の評判をとり、からだを全面的に発達させました。在学中のかれは積極的な社会活動家で、りっぱな同志で、芸術清動にも参加しました。

 ユーリーの飛行は、いつもおかあさんをたいへん心配させましたが、かれはおかあさんを安心させるために、すてきな手紙を書いたものです。
『おかあさん! わたしはあなたを愛しています。あなたの大きくて優しい手を愛しています。あなたの目のまわりのしわと、あなたの白い髪の毛を愛しています。……わたしのことはけっしてご心配なく……』

 かれがおかあさんに会うと、おかあさんは『ね、ユーリー、どんなぐあいかい』とよくききました。かれは真剣な顔をし、きっぱりといったものです。『おかあさん、わたしのことはけっしてご心配なく。わたしはソビエトの飛行士です。わたしたちの技術はたしかなものです……』と。

 かれは機械に精通していました。かれはこの機械をつくりだした人びとを信じきっていました。だからこそ、あの出発の前日にも、かれの心臓は平静でおだやかな鼓動をつづけていたのです。かれは地球にもどることを信じて疑いませんでした……」。

ガガーリン
オレンブルグ飛行学校時代(1956)


かれはこんなふうに知られている

 かれはみんなと同じように、毎日、勤務に出かけていき、庭で自分の小さな娘とあそんでいた。明るくすがすがしい目をした、控え目の、快活な、肩幅の広い若者、冗談がすきで、気のきいたしゃれを理解できる若者。スポーツと高等数学、音楽と文学に熱中する若者。

 ここでは、みんながかれをよく知り、かれを愛している。その物わかりのよさ、いたずら好きな目にかがやくおだやかなユーモアは、みんなから愛されている。ユーリー・アレクセービッチがバレエを見たり、「べリョースカ」アンサンブルの公演を見たりするとき、このユーモアは感嘆の念にかわる。かれは大のバレエ好きである。だが、ガガーリンはバレエにだけ熱中しているわけではない。バスケットボールの競技場でも、かれの姿がよく見うけられた。そして、ずんぐりした「ユーラおじさん」〔ユーリーの愛称〕がボールをうまくバスケットに投げいれるのを見て、子どもたちは歓声をあげたものである。

 仕事上の同僚や隣家の人たちは、ユーリー・アレクセービッチをこんなふうに知っている。そして、みんながみんなこういっている。「この人の性格には、祖国への、祖国の人々へのかぎりない愛情、温和と質朴、真のロシア人、共産主義者のすぐれた特徴が、感じられる」と。

 かれの妻ワレンチーナ・イワーノブナも、同じように質朴で、愛らしい人である。彼女は、ある病院の実験室の実験助手としてはたらきながら、家族のためにも大いに努力している。というのは、かれらには2人の女の子、長女のエレーナと二女のガーリャがいるのだから。

 たがいによりそい、2つの心がぴったりあうとき、生活はうまくすすむ。4年まえの1957年3月9日、かれの妻で友人のワーリャは、1枚の写真にこう書いた。「ユーリー、忘れないようにしましょう、わたしたちの幸福の鍛冶屋はわたしたち自身だということを。運命に負けないようにしましょう。忘れないようにしましょう、期待は大きな技術だということを。いちばん幸福な瞬間まで、この気持ちをもちつづけましょう」と。

 彼女のユーリーが、かつてだれも経験したことのない高度で、しかも信じられないほどの速度で、地球のまわりを飛びながら、人間の英知の力、ソビエト国家の才能と威力の栄光をもたらしていたあの偉大な日、1961年4月12日に、きっと、彼女はこの言葉を思いだしたにちがいない。

 ことしの春は、この家族の生活にとって、なにか特別に幸福な春のようだ。3月9日、ユーリー・アレクセービッチは満27才になった。この月はじめには、二女のガーリャがうまれた。その数日後には、長女のエレーナが満3才をむかえた。かれらは、お祝いの席上で、知人や親類から祝辞をのべられた。そしていまや、ガガーリンの一家は全世界から祝辞をのべられている。

ガガーリン
宇宙飛行時代のガガーリン

出典:「人類最初の宇宙飛行 ソ連人間宇宙船の成功」(1961年5月、ソ連大使館広報課)

制作:2013年2月17日

●4月12日、宇宙飛行の様子(総論)
●4月13日、ガガーリンのインタビュー(「地球は青かった」の出典となった「イズベスチヤ」紙の全文)
●4月14日、祝賀会の様子
●4月16日、ソ連邦科学アカデミーでの記者会見
●幼少期から家族まで27歳の履歴書
●宇宙船「ボストーク1号」の構造
●宇宙飛行士の訓練方法

●NASAの誕生・宇宙開発の歴史
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