日本中に建造された凱旋門


右手前から時計回りに新橋、京橋、日本橋、神田、上野公園の凱旋門
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 大阪四天王寺の伽藍や浅草寺五重塔の再建計画を組んだ建築史家・藤島亥治郎は、かつてインタビューでこう語っています。



《世は日露戦争の戦勝気分でね、上野公園や雷門、万世橋の辺りにまで、凱旋将士を迎える凱旋門が造られていた。ナポレオンはローマ皇帝を気取り、パリにあの壮大な建築物を造った。日本も、ロシアに勝って一等国の仲間入りということで、早速それをまねたんだね。



 今日は乃木大将、明日は大山元帥といったふうにね、将士らは次々とこの門をくぐった。私も見にいったが、子供のこととて、人垣の向こうの旗しか見えない。群衆が散った後、凱旋門を見て回った。古代ローマ的な、えらい豪華なものだった。初めて見る古典様式でね、強烈に心に焼き付いたよ》(河北新報1993年1月17日)



 日清、日露戦争の時代、戦勝を祝して、日本中に凱旋門が建てられました。「凱」は戦いに勝って奏でる音楽、「旋」は帰るという意味で、凱旋門とは勝利して帰還した兵を迎える門のことです。



 明治時代、triumphal arch(勝利門)にあてた訳語として考案されました。凱旋門は、東京だけでも新橋、京橋、日本橋、神田、上野、浅草、品川など10カ所以上作られました。本サイトでは、そうした凱旋門を当時の写真と資料をもとに一挙紹介していきます。



※当時の資料は読みにくいものが多いので、引用は一部省略のうえ、読みやすく改変してあります