ホテルオークラの誕生
大倉財閥と東京のホテル史

ホテルオークラ
日本の伝統的な「なまこ壁」と「麻の葉紋様」を採用した外壁


 1928年4月28日、東京・虎ノ門で前代未聞の大葬儀が行われました。

 枢が安置された祭壇の前には、天皇から下賜された祭祀料が置かれ、隣には「勲一等旭日章」や「瑞宝章」などの勲章が並んでいます。
 祭壇の前には会葬者が歩く左右100mずつの長い廊下が設置され、そこには華族、首相、大臣、財閥から贈られた花輪や花束が1000個以上並んでいました。
 告別式に参加したのは1万1000人。それを2時間でさばくため、2000台の自動車と100台の人力車が使われました。

 弔辞は、渋沢栄一や後藤新平など当代一の有名人が捧げました。弔辞の最後は、帝国ホテルと帝国劇場関係者のものでした。
 いったい、この大葬儀で追悼された人物は誰か。
 答えは、帝国ホテルと帝国劇場を創設し、さらに大成建設/サッポロビール/東京電力東京ガスなどの創業に関わった大倉喜八郎。

 そして、この葬儀が行われた大倉邸跡地に、1962年、ホテルオークラが建つことになります。
 そんなわけで今回は、東京の三大ホテルといわれる「ホテルオークラ」の誕生です。

ホテルオークラ
ホテルオークラ本館(最終日)


 1837年、現在の新潟県新発田市で生まれた喜八郎は、江戸の鰹節店で丁稚奉公したあと、乾物店「大倉屋」を開業して独立します。
 ある日、ふらりと横浜に行ったところ、「ここにはよく黒船が来る」という話を耳にし、そのうち戦争が起きると直感。すぐに江戸に鉄砲店を開きます。1867年のことでした。
 
 戊辰戦争が始まると、鉄砲店は官軍御用達となり、明治になると、新政府軍の兵器・糧食の調達をすべて任されます。
 その後、喜八郎は「大倉組」を創業、西南戦争、台湾出兵、日清戦争、日露戦争で政商として活躍し、一代で大財閥を築きあげます。

大倉組
大倉組


 大倉喜八郎は、1872年(明治5年)、海外視察に出かけます。最初に上陸したのがサンフランシスコ。宿泊先はグランドホテルです。
 そのときの驚きぶりが、以下のように記録されています。

《(食堂の)天井からは玻璃(=ガラス)のランプの綺麗(きれい)なものに、西洋蝋燭(ロウソク)を幾百挺となく点じて吊してある。目の回るような立派な卓子(テーブル)や椅子がその下に秩序よく並べてある。横浜あたりでこれまで一度も見たこともないような、西洋人の娘さんや奥さん達が美しく着飾ってそこに来ている。
 そして、そのときがちょうど給仕人の交代したところと見えて、燕尾服に白襟・白手袋の米国人が20人ばかり出てきて丁寧にお辞儀をしたが、私達はそれを給仕人とは知らないから、どこの紳士だろう、何でもお客に違いない、今晩は多分宴会でもあるのだろう、どうもけっこうな立派なところだ、極楽というのはこんなものであろうか、アメリカでさえこんなだから、ヨーロッパへ行ったらどんなであろうなどこそこそと話し合った》(自伝『努力』より)


 ちょうど、当時は日本にも西洋ホテルができつつある時代です。
 一般に、日本初の本格的な西洋ホテルは、東京・築地の軍艦操練所の跡地に建てられた築地ホテル館といわれます。1868年(慶応4年)に完成しますが、明治5年に焼失しています。

築地ホテル館
築地ホテル館


 喜八郎は、1881年(明治14年)に鹿鳴館を建設開始。
 そして、1890年(明治23年)、渋沢栄一とともに発起人となって帝国ホテルを開業します。

 大倉喜八郎は、前述のアメリカ訪問後、ヨーロッパを周り、再びサンフランシスコのグランドホテルに宿泊します。そのときは目が肥えており、ホテルの粗い内装にがっかりします。

《柱など叩いてみると、以前蠟石だと見たのは木造にペンキを塗ったもので、蝋燭とみたのは白洋蝋型のランプの心(しん)のところからガス灯が出るのであって、何も驚くことはひとつもなくなってしまった》
 
 こうした見かけ倒しにならないよう、鹿鳴館や帝国ホテルの建造には細心の注意が払われたはずです。

 帝国ホテルの経営権は、渋沢栄一の後を受けて、大倉喜八郎が握りました。
 大正時代に入ると、帝国ホテルはフランク・ロイド・ライトの設計の下、新館の建築が始まります。
 しかし、あまりの完璧主義で予算は大幅にオーバー。大倉はその高騰ぶりに文句も言わず耐えますが、1922年、隣接する本館が全焼すると、ライトと経営陣の衝突は強まります。

 1923年9月1日、関東大震災の日に帝国ホテルは開業、そのまま避難民を収容する事態になりました。この開業式のとき、ライトはすでに日本を離れており、完成した姿は見ていません。
 当初、帝国ホテルの設計に命を燃やしたライトは、その後、初代支配人だった林愛作に向けて、こんな手紙を送り、日本人を批判しています。

《いかなる民族にもその歴史を語る建造物があり、それは不滅の作品と呼ばれても、実際には永久に建っていることはできません。しかし、その建物を造り上げた精神、あるいは理想というものは滅びることなく受け継がれ、発展していくものです。
 ところが日本は今、それがありません。日本は自らの文明を放り投げ、他国の文明を借用しています。自分たちの素晴らしい文化を犠牲にして》(『フランク・ロイド・ライト―建築家への手紙』より)

帝国ホテル
帝国ホテル


 帝国ホテル開業の翌1924年、米寿を機に、喜八郎は大倉組の経営権を息子の喜七郎に譲りました。喜七郎は、帝国劇場の女優に手を出すなど、元祖プレイボーイとして有名です。

 大倉喜八郎は美術品の収集に力を入れましたが、息子の喜七郎の芸術・文化への傾倒ぶりは、輪をかけてすさまじいものがありました。

 オークラウロという独自の楽器を発明し、日本棋院を設立し、イタリアで日本現代美術展を開催し、自動車レースに熱中し、私財で札幌に大倉山ジャンプ場を建設しました。
 ホテル業にも熱心で、川奈や赤倉に観光ホテルを設立してもいます。喜七郎は「ホテルは人々が集い、文化・芸術が交流する場である」という信念を抱いていたからです。 

 ところが、戦後、喜七郎は財閥解体・公職追放により、帝国ホテルの経営権を失います。

 1952年、藤田観光の創業者・小川栄一が、旧山県有朋邸跡に「椿山荘」を開業し、1955年、西武鉄道の堤康次郎が旧皇族邸跡地に「赤坂プリンスホテル」を開業します。

 どうしてもホテル業に再参入したい喜七郎は、こうしたホテルを横目に見ながら、財閥解体を行った実業家・野田岩次郎と組んで、日本最高のホテル建設を目指します。
 テーマは、「日本の伝統美を採り入れた世界に通用するホテル」。フランク・ロイド・ライトの日本批判も知っていたはずで、徹底的に和風のよさを採用することになりました。

 喜七郎は、建築家の谷口吉郎をトップに据え、当時の日本を代表する建築家、デザイナー、芸術家たちを集めました。そして、厳島神社に残されている「平家納経」の模写を見せ、イメージを固めていきました。

平家納経
平家納経(国会図書館『国史大図鑑』)


 こうして、1962年、ホテルオークラ完成。その贅沢な意匠は、特に広いロビーに顕著です。

ホテルオークラ
ホテルオークラのロビー

 天井には古墳時代の飾り玉をモチーフにした「切子玉形」の照明(オークラ・ランターン)がついています。
 テーブルと椅子は、上から見ると梅の花の形になるよう配置されています。

ホテルオークラ
壁にはランの四弁花紋をつづれ織りにした巨大な西陣織(右手)。左手は麻の葉紋様の杉細工


ホテルオークラ
階段のシャンデリアは藤の花の形

 
 ホテルオークラが「和の様式とモダニズムを融合した傑作」と言われるゆえんです。
 開業の2年後の1964年、IMF国際会議を「平安の間」で開催し、国際的な名声を高めました。
 また、帝国ホテルとともに、東京オリンピックの選手村に食堂関係者を派遣しています。


ホテルオークラの意匠
「平安の間」入口には金襴緞子にヒントを得た錦張りまぜ壁面

ホテルオークラの意匠
「平安の間」中に入ると正六角形の亀甲紋を利用した木の壁

ホテルオークラの意匠
「平安の間」メインは、西本願寺「三十六人家集」の料紙の紋様


 実は、いわゆる有名ホテルは、東京五輪を前に開業したものが多いのです。

・1960年、初代日本航空会長を務めた藤山愛一郎が「ホテルニュージャパン」開業
・1960年、東急電鉄の五島慶太が「銀座東急ホテル」開業。1963年には「東京ヒルトンホテル」開業
・1961年、「パレスホテル」開業(元はGHQの指令で建てられた、旧帝室林野局庁舎を改造した国有ホテル)
・1964年、鉄工で財を成した大谷米太郎が「ホテルニューオータニ」開業(建築基準法改正後、初めて建てられた高層建築)。同日、西武が「東京プリンスホテル」開業

ホテルニューオータニ
ホテルニューオータニ
(右手の塔はかつて存在したNHKのテレビ塔

 ホテルオークラは、国家元首を宿泊させたり、サミットで飲食サービスを担当するなど実績を積み、帝国ホテル、ホテルニューオータニと並ぶ「御三家」と称される一流ホテルになりました。

ホテルオークラのエレベーター
エレベーターは菱くずし紋様

ホテルオークラの茶室
天井の造形に凝った茶室「聴松庵」


 その本館は、2015年8月31日に営業を終え、取り壊されます。そして約1000億円かけて、2020年の東京五輪を前に新たな本館が誕生し ます。新本館は地上17階、高さ85mの中層棟と、地上42階、高さ195mの高層棟の2つセットになる予定です。


制作:2015年9月7日


<おまけ>
 大倉喜八郎が作った大倉財閥は、かつて200社を超えていましたが、現在はかなり少なくなりました。
 旧大倉グループ企業の集まりは「葵会(あおいかい)」といいますが、ここに加盟しているのはホテルオークラと、大成建設、東海パルプ、日本無線、ニッピ、中央建物、大倉事業の7社のみ。
 中心だった大倉商事は1998年に破綻、大倉事業は1999年にホテルオークラの株式をすべて売却しており、グループの解体が進んでいます。
 ちなみに、大成建設はもともと「大倉土木」でしたが、大倉喜八郎の戒名「大成院殿礼本超邁鶴翁大居士」から社名を変更しています。

ホテルオークラ
ホテルオークラの客室には、ベッドからガラス越しにバスルームが覗けるラブホのような部屋もありました

広告
© 探検コム メール