超エリート教育機関
「第一高等学校」の世界
あるいは近代日本文学の誕生

一高端艇部
一高の端艇(ボート)部


 芥川龍之介が、睡眠薬で自殺したのは、昭和2年(1927)7月24日のことでした。
 自殺の理由は定かではありませんが、第一高等学校(一高)の同級生・久米正雄にあてられた「或旧友へ送る手記」には、「ぼんやりした不安」と書かれていました。
「或旧友へ送る手記」には、こんな文章も書かれています。

《僕はこの2年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる》

 芥川の葬儀には、やはり一高で同級生だった菊池寛や恒藤恭、ひとつ先輩の山本有三、豊島與志雄ら有名な作家や学者が集まっていました。
 火葬場からの帰り道、恒藤が菊池寛に聞きました。
「君、マインレンデルというのを知っているか」
「知らない。君は?」
「僕も知らないんだ、あれは人の名かしらん」

 その場にいた全員が芥川が心酔したマインレンデルを知らなかったのです。こうしたエピソードから、菊池寛は芥川のことを「彼のごとき高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作家は、今後絶無であろう」と書いています。

 その菊池寛が、芥川と並んで「超然とした秀才」と呼んだのが、この恒藤恭です。芥川と恒藤恭は、一高時代、同じ部屋に寄宿していた親友でした。恒藤は、芥川も驚くほど優秀で几帳面で真面目な人物でした。

一高生
一高生


 一高は、現在の東大教養学部にあたりますが、もともとは帝国大学の予科という位置づけでした。明治19年(1886)、近代国家を建設するための人材育成を目的として創設されました。一学年わずか300人で、まさに超エリート集団です。

 ちなみに一高は東京、二高は仙台、三高は京都、四高は金沢、五高は熊本、六高は岡山、七高は鹿児島、八高は名古屋に置かれました。

 学科課程は、もともと一部(法律・政治、文学)、 二部(工学)、三部(医学)と分けられていましたが、明治35年(1902)以降は、

 一部甲(英法、英政治、英文) 一部乙(独法、独文) 一部丙(仏法、仏文)
 二部甲(工学) 二部乙(理学、農学、薬学)
 三部 (医学) 
 

 となりました。

第一高等学校
第一高等学校の正門(駒場)


 一高の特徴は全寮制で、そこには自治制度が敷かれていました。寮生活では、

 第1  自重の念を起して廉恥の心を養成する事
 第2  親愛の情を起して公共の心を養成する事
 第3  辞譲の心を起して静粛の習慣を養成する事
 第4  摂生に注意して清潔の習慣を養成する事

 という生真面目な「4つの綱領」が決められていました。
 しかし、寮内では「制服か和服の着用義務」「草履の義務」など、バンカラというか自由闊達というか、不思議な文化が育まれていました。

第一高等学校 第一高等学校
第一高等学校の「新入生諸君に告ぐ」と「入寮心得」(クリックで拡大)


 一高の名物はいろいろありますが、たとえば「寮雨」があります。これは、夜、寄宿舎の窓から外に向かって小便をすることです。もちろん芥川はたまに寮雨をするんですが、恒藤は決してやりません。芥川がその理由を聞きます。

《僕問う。「君はなぜ寮雨をしない?」
 恒藤答う。「人にされたら僕が迷惑する。だからしない。君はなぜ寮雨をする?」
 僕答う。「人にされても僕は迷惑しない、だからする。」》(『恒藤恭氏』より)


 また、「賄征伐」(まかないせいばつ)も有名でした。これは食堂で皿を割ったり、お櫃を投げたりする乱暴行為です。芥川が「賄征伐」をしない理由を恒藤に聞きます。

《僕問う。「君はなぜ賄征伐をしない?」
 恒藤答う。「無用に器物を毀すのは悪いと思うから。ーー君はなぜしない?」
 僕答う。「しないのじゃない、出来ないのだ。」》


第一高等学校
寮内の食堂では「裸足」厳守


 また、「ストオム」(ストーム)と呼ばれる習慣もありました。これは深夜、大人数で大騒ぎしながら誰かの部屋に押しかけ、議論をふっかけたり、部屋を荒らしたり、いつまでも居座ったりすることです。もちろん恒藤はしませんでしたが、久米正雄や菊池寛はしばしば行っていたようです。
 ちなみに学生の部屋は、どこも布団を丸めた万年床が敷いてあり、異様に臭かったと言われています。

ストーム 万年床
騒がしいストームと、すぐ寝られる万年床(国会図書館『校風漫画』1917年による)

 
 一高名物のイベントは2つありました。
 ひとつは3月1日の文化祭(紀年祭)で、この日ばかりは女人禁制が解かれ、校内に多くの女性がやってきました。ただし、入れるのは親族がほとんど。大正5年(1916)には当時の人気女優・森律子が一高生の弟の姿を見に来ましたが、「けばけばしい」と入場拒否の憂き目に遭いました。

 紀年祭では「全寮茶話会」が開催され、ここでは校長のつるし上げなども行われました。明治42年(1909)、この茶話会で新渡戸稲造校長がつるし上げられました。新渡戸は一々真面目に反論し、そのあまりに真摯な態度に、その場にいた学生は全員感動し、涙を流しました。
 一高の校舎にある大時計はよく狂うことで有名で、新渡戸は「学校の時計は校長の頭のようによく狂う」とバカにされていました。しかし、豪傑を気取るものの、経験値の少ない学生たちが、老獪な新渡戸を負かすことなどできるはずもなかったのです。


 もう一つ有名なイベントが、春の隅田川で行われるボートレースです。久米正雄が、レース当日の様子をこう書いています。

《午後になると晴れたままに風が吹いて来て応援船の旗をはたはたと鳴らした。水路(コース)にはかなり荒い波が立った。
 しかしいよいよ文農の競漕が始まろうという頃になったら、珍しい夕凪(ゆうなぎ)が来た。
 選手は皆長命寺の中の桜餅屋の屋敷で、樺色(かばいろ)のユニフォームを着た。それが久野には何だか身が緊(しま)ったように感ぜられた。4時15分前にはそこを出た。4時の定刻に繋留(けいりゅう)しないと競漕から除外(オミット)されるからである。土堤(どて)では観衆が一種の尊敬と好奇の念をもって、この樺色の衣服を着た選手たちに道をあけた。
 文科の短艇(ボート)がまず拍手に送られて台船を離れた。窪田らはいつもより緩かな調子で漕ぎ出した。
 そして30本ほど試漕をした。その時3番の水原がどうした加減か大きなスプラッシュを1つした。皆の顔にちょっとした陰影があらわれた。
「競漕になってからしないように今のうちさんざやっとくさ」と久野はとっさの間に悲観している水原を元気づけた。
 皆はも一度『やり直し』の気味で20本ほど漕いで、審判艇の差し出す綱へ繋留した。続いて農科の艇もつながれた。
 艇庫と土堤と応援船とから『文科あ! 農科あー! 樺あ! 紫い!』などという声が錯綜して起った。審判艇は2つの艇を曳(ひ)いて発足点へ向った。漕手は皆艇の中へ寝ていた。(中略)
 号砲が鳴り渡った。久野は用意と号砲との間がほんの一瞬間であったのに、ひどく永(なが)いように思った。2つの艇の櫂(オール)は同時に水に入った》(『競漕』より)


第一高等学校
第一高等学校名物、ボート部のかがり火


 なんだか学生たちはいつも愉しそうな様子ですが、実際はものすごい猛勉強を強いられていました。その様子を、やはり久米正雄の文章から引用しておきます。
 
《試験が来て初めの2、3日は、どうかこうか無事に済んだ。そして彼は苦しみに苦しみを重ねて、4日目の今日に到達した。ーー
 時計台の鐘が夜陰の中で遠く2時を打った。小林は明日試験のある独逸(ドイツ)語の本を前に置いて先刻からぼんやり蝋燭(ろうそく)の焰(ほのお)を見凝(みつ)めていた。明日の独逸語は、この学校でも苛酷な評点を付けるので有名な某教師の担当に属していた。彼は一学期にも二学期にも、ほとんど零に近い注意点を取っていた。そして三学期の今度という今度に、それを償(つぐな)う優等点を取らなけれは、そのため落第の悲運に立到るのが目に見えていた》(『嫌疑』より)


 実は、一高では、こうした苛烈さに耐えかね、放火や自殺がたまに起きました。
 生徒の自殺では、在校生だった藤村操の自殺が有名です。明治36年(1903)5月22日、日光・華厳の滝で投身自殺。近くには「曰く『不可解』」と書かれた遺書「巌頭之感」が遺されていました。

巌頭の感
華厳の滝にある慰霊の仏像


 藤村操の死は、一高で彼に英語を教えていた夏目漱石に大きな影響を与えます。漱石が神経衰弱になったのはこの自殺が原因とも言われ、まもなく漱石は作家稼業に入ります。
 また、当時、在学していた岩波茂雄は、やはり大きな影響を受け、後に岩波書店を創業、大正3年(1914)には、漱石の『こゝろ』を刊行します。

 一方、芥川龍之介は、東京帝国大学に入学後、菊池寛、久米正雄、豊島与志雄、山本有三、松岡讓(漱石の義理の息子)らと同人誌『新思潮』で活躍。大正5年(1916)の『新思潮』創刊号で発表された『鼻』が漱石から絶賛され、芥川は文壇デビューしました。

 菊池寛は、友人の窃盗の罪を被って一高を退学になり、大正11年(1922)、私費で雑誌『文藝春秋』を創刊します。創刊号では一高卒業生の川端康成の原稿が掲載されました。『文藝春秋』には、芥川も多くの作品を寄稿し、文芸ブームの隆盛に貢献しますが、創刊から4年半後に自殺。菊池寛は昭和10年(1935)に芥川賞を創設するのでした。

 考えてみると、一高卒業生には、芥川や菊池寛を除き、ざっとあげただけで坪内逍遥、尾崎紅葉、夏目漱石、正岡子規、斎藤茂吉、谷崎潤一郎、川端康成らそうそうたる文学者がいます。
 そうか、日本の近代文学は、一高の系譜で生まれたわけですね。


制作:2013年7月1日


<おまけ>
 東大の成立過程は以下の通り。

【儒学】昌平黌(しょうへいこう、1630)→昌平坂学問所(1800)→昌平学校(1868)→大学校(1869)→閉鎖(1870)
【洋学】洋学所(1855)→蕃書調所(1856)→洋書調所(1862)→開成所(1863)→大学校(1869)→大学南校(1869)→東京開成学校(1874)→東大法・理・文学部(1877)
【医学】お玉ヶ池種痘所(1858)→西洋医学所(1861)→大学校(1869)→大学東校(1869)→東京医学校(1874)→東大医学部(1877)
【工学】工部省工学寮(1871)→工部大学校(1877)→東大工学部(1886)
【農学】農事修学場(1874)→駒場農学校(1878)→東京農林学校(1886)→東大農学部(1890)

東京開成学校
東京開成学校

 1877年に東大が成立すると、東京英語学校と東京開成学校普通科を併合して「東京大学予備門」が誕生します。
 1885年、東京法学校予科と東京外国語学校仏・独学科を合併、1886年、工科大学予科を合併し、第一高等中学校と改称。
 そして、1894年、高等学校令により「第一高等学校」が成立します。
 一高は、GHQの学制改革で1949年に東大付属となり、東大教養学部へと再編されました。一高卒業生1万8633人のうち、首相経験者は、加藤高明、若槻禮次郎、広田弘毅、近衛文麿、平沼騏一郎、芦田均、鳩山一郎、岸信介、福田赳夫の9人もいます。まさに日本が誇る超エリート教育機関だったのです。

東大と予備門
東大と東大予備門

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