国立公園の誕生
一発逆転「鞆の浦」が決めた日本初の国立公園

鞆の浦
宮崎駿「崖の上のポニョ」の舞台とされる鞆の浦(とものうら)
(左が常夜灯、下方の階段が雁木)



 1867年、坂本龍馬の乗った「いろは丸」が、紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突、「いろは丸」は沈没してしまいます。龍馬は近くの鞆の浦(広島県福山市)で談判を行い、巨額の賠償金を取ることに成功します。

 交渉が長引くなかで、龍馬は鞆の浦から妻のお龍に手紙を書いています。たとえば5月28日には、「土佐の士(さむらい)お鞆の港にすておきて…」などと書き、京都に出向くことを伝えています。
 この手紙の宛名は「鞆殿」。龍馬はお龍のことを「鞆」と呼んでいたのです。

鞆の浦
龍馬が談判に使った町家


 鞆の浦は、かつて「潮待ち」の港といわれ、交通の要衝として栄えました。300年前の町並みが今もそのまま残っている、きわめて珍しい場所です。
 実は、この歴史的な風景が、日本初の国立公園の選定に結びつきました。

 いったい、国立公園はどのように決められたのか。今回は、「瀬戸内海」が一発逆転して国立公園になるまでを紹介します。 

 国立公園を制定しようという機運は「日光」から始まりました。
 1912年(明治45年)、日光町長だった西山真平が『日光を帝国公園となすの請願』を、第28回帝国議会に対して提出したのが日本初の請願です。
 続いて、1921年(大正10年)、社会教育家の野本恭八郎が『明治紀念日本大公園国立の請願』として、富士山を中心とする公園計画を第44回帝国議会に提出しました。

日光国立公園
日光(国会図書館『国立公園候補地調査概要』より)


 いずれの請願も採択されますが、財政難もあり、実際の公園化は難しいと思われました。
 とはいえ、アメリカにあるような国立公園は、国民の「保健教化」にも役立つし、また経済的なメリットもあることから、1921年から国立公園プロジェクトが開始されます。

 発案者は、内務省の官僚だった湯沢三千男。湯沢は「今度、国で公園を作ってみよう」と思い立ち、造園学で日本初の学位を取った田村剛に、候補地を選ぶよう依頼します。
 そして、1921年、まず長野県の上高地で実地調査が行われました。

 田村剛は、後に国立公園の意義について次のように書いています。

《国立公園の使命は、世界に冠たる我が天与の大風景を保護開発して、一般世人の利用に供し、国民の保健、休養、教化に資すると共に、延(ひ)いて全世界の人々の享用に充て、観光や霊感の享受を恣(ほし)いままにせしめ、国際親善、外客誘致の料になすものであって、早晩着手せられねばならぬ重要な国務である》(内務省衛生局『国立公園』、1931年)

 こうした目的の下に、1928年まで8年間かけて、16カ所が候補地に選ばれました。

 ●上高地を中心とする一帯
 ●白馬山を中心とする一帯
 ●日光を中心とする一帯
 ●温泉岳(雲仙岳)を中心とする一帯
 ●阿蘇山を中心とする一帯
 (1921年度調査)

 ●富士山を中心とする一帯
 ●大台ヶ原を中心とする一帯
 ●磐梯山を中心とする一帯
 (1922年度調査)

 ●阿寒湖を中心とする一帯
 ●霧島山を中心とする一帯
 (1923年度調査)

 ●小豆島・屋島を中心とする一帯
 ●伯耆大山を中心とする一帯
 (1924年度調査)

 ●十和田湖を中心とする一帯
 ●立山を中心とする一帯
 (1925年度調査)

 ●大沼公園を中心とする一帯
 ●登別温泉を中心とする一帯
 (1928年度調査)

十和田湖
十和田湖(『国立公園候補地調査概要』より)


 1930年(昭和5年)、内務省は「国立公園調査会」を設置、翌年10月1日には「国立公園法」が施行されました。
 調査会では16の候補からどれを選択するか審議が始まります。
 同時に別働隊として「国立公園協会」が作られ、『国立公園』という機関誌による宣伝活動が開始されました。

 内務省は、

 ●日本を代表する風景→富士山、箱根/日光の2カ所
 ●山岳風景→北アルプス(上高地、白馬、立山を含む)
 ●湖水風景→十和田湖
 ●火山、温泉風景→阿蘇、雲仙

 という全5カ所を腹案としていましたが、全国各地から猛烈な誘致運動が起き、なかなか決定に至りません。

 ここで注目すべきは、内務省の腹案に海が入っていないことです。そもそも、16候補のうち、海は1カ所も入っていません(小豆島は寒霞渓、屋島は五剣山など山が主)。
 内務省の公式資料『国立公園候補地調査概要』を見ても、掲載写真は山ばかりです。

鞆の浦鳥瞰図
鞆の浦鳥瞰図(吉田初三郎)。手前が仙酔島


 1931年3月6日、国会で、この16カ所にどうして天橋立、厳島、松島の「日本三景」が入っていないのかが議論されました。
 答弁に当たった内務参与官は、「風景に対する近時の『国民的好尚』の条件と日本三景はまったく異なり、さらに想定する国立公園に比べて規模が小さすぎる」と答えています。

 言うまでもなく、日本三景はいずれも海の景色です。それが「国民の好尚」と合わないと断言しているのです。これはいったいどういうことか。

 当時、海の人気が低かったわけではありません。たとえば、1927年に行われた「日本八景」の投票では、海岸(3140万票)が渓谷(1913万票)、山岳(1503万票)に比べ、圧倒的な投票数を獲得しています。

 海が選ばれていないことは当時の人も不思議に思ったようで、広島出身の政治家・荒川五郎は「市内にある箱庭的小公園を、散歩逍遙する旧来の因習に囚われておるためか」(『大広島の創造』)と批判しています。
 実際のところ、どうして海が入っていないのか、理由はよくわかりません。

鞆の浦
仙酔島から鞆の浦を見る(1930年頃)


 そして、1932年10月8日、ついに以下の12カ所が選定されました。

 ・阿寒湖(北海道)
 ・大雪山(北海道)
 ・十和田(青森、秋田)
 ・日光(栃木、群馬、福島、新潟)
 ・富士、箱根(山梨、静岡、神奈川)
 ・日本アルプス(長野、岐阜、富山、新潟)
 ・吉野・熊野(三重、和歌山、奈良)
 ・大山(鳥取、岡山)
 ・瀬戸内海(香川、岡山、広島)
 ・阿蘇(熊本)
 ・雲仙(長崎)
 ・霧島(鹿児島、宮崎)

 ここで、初めて「小豆島・屋島」が拡大され、瀬戸内海が選定されるのです。唯一の海の国立公園の誕生です。
 この選考過程は不明ですが、実は1932年の4月6日から28日まで、委員たちは九州から瀬戸内海、紀伊半島まで約3週間も視察旅行をしています。

 その日程は驚くほど過密で、旅行というより、ほとんど修行の域に達しています。ざっと行程を書くと、

 長崎→小浜→雲仙→阿蘇→鹿児島→霧島→高千穂→久住高原→別府→耶馬溪→福山→鞆の浦→高松→屋島→小豆島→岡山後楽園→大阪→奈良→大峰山→大台ヶ原→新宮→瀞八丁→本宮→那智の滝→勝浦→潮岬

 といった感じ。このときもずっと山岳地帯ばかりで、海の観光は屋島と鞆の浦、南紀くらいでした。

 こうした直前の視察が、大きな影響を与えたことは想像に難くありません。逆に言えば、鞆の浦こそが瀬戸内海を選定した最大の理由とも言えるのです。

鞆の浦
鞆の浦全景


 内務省は、選定された12カ所から、順次、正式な指定を始めていきます。1934年3月16日、官報によって3つの地域が第1次国立公園として指定されました。雲仙と霧島、そして瀬戸内海です。

 1939年(昭和14年)、瀬戸内海国立公園をデザインした3枚の切手が発行されました。使われたのは、屋島と、鞆の浦、そして鞆の浦のそばにある阿伏兎観音です。

瀬戸内海国立公園
瀬戸内海国立公園の切手(鞆の浦)


 さて、戦前の国立公園は、上記12(日本アルプスは「中部山岳」と命名)だけでした。これに、1946年、伊勢・志摩が加わり13に。

 1948年、GHQから招待され、日本にやってきたアメリカ国立公園局のチャールズ・リッチは、4カ月間にわたって国内の国立公園を視察し、1949年2月7日、日本政府に「リッチ勧告」を提出します。

(1)国立公園の維持管理のため厚生省直属の公園監守を置くこと
(2)国立公園内の森林の開墾はすべて禁止し、湖沼・河川の電力利用にも制限を加えること
(3)現行の国立公園法を改正し、国立公園内に保存地区を設定、そこに関わる私有地を20年ほどで買い上げること
(4)国立公園内にあるすべての私有地を厚生省の所管に移すこと
(5)地域内の野生動物を保護するため、禁猟地を設けること
(6)国立公園内の名勝・天然記念物は、文部省から厚生省へ移管し、国立公園に関してはすべてを厚生省の管轄にすること
(7)新たに指定を増やし、現在の13から18〜20まで増やすこと

 厚生省は、この勧告に従い、1949年に「支笏、洞爺」「上信越高原」、1950年に「磐梯朝日」「秩父多摩甲斐」を指定します。
 現在は、全国で32カ所、面積にして211万ヘクタール(日本の国土面積の約5.6%)が国立公園に指定されているのです。


制作:2015年5月1日


<おまけ>
 鞆の浦の歴史には、有名な人物が、入れ替わり立ち替わり登場します。
 ちょっとすごいので、以下、年表風にまとめてみます。

沼名前神社
沼名前神社

 古事記  スサノオノミコト、「江隅の国社(現在の沼名前神社)」建立
 日本書紀 神功皇后、武具「高鞆」を「渡守の神」に奉納
 727年  万葉歌人・大伴旅人が訪問
 806年  最澄、七堂伽藍を建立
 826年  空海、医王寺建立
 1336年 足利尊氏、小松寺で光厳上皇の院宣を手に入れ、挙兵(「足利幕府は鞆で興る」)
 1582年 足利義昭、鞆で本能寺の変を知る(「足利幕府は鞆で滅ぶ」)
 1764年 平賀源内、陶土を発見し、源内焼の製法を伝授
 1826年 シーボルト、来訪
 1863年 政変により京から逃れた尊皇攘夷派の三条実美らが寄港。太田住宅に宿泊

太田住宅
太田住宅

 これだけの歴史遺物が、いまも現存しているすごい町なのです。 
 ただし、道は狭く、車の通行も不便なため、現在、埋め立てと巨大橋建造による町の大改造が計画されています。反対も多く、なかなか進展しないようですが、外部の人間としては、このまま美しい町が保存されてほしいと思うのです。

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