「丸の内」と「三菱」の120年史
あるいは東京駅の誕生

東京駅空撮
東京駅空撮(1931年)


 明治43年(1910)11月11日、東京丸の内で女性の死体が見つかりました。被害者は「木下つや」という19歳の娘で、両腕が縛られ、首に刺し傷がありました。犯人はわからず、この「お艶殺人」は迷宮入り事件として名前を残すことになります。

 殺人現場は東京府庁にも警視庁にも近く、どうして犯人がわからなかったのか不思議です。しかし、当時の丸の内は、夜の7時ともなればほとんど人通りが途絶える場所でした。そもそも現場は三菱本社の隣の「草原」で、まるで目撃者がいなかったのです。
 信じられないことに、わずか100年前、丸の内には広大な草原が広がっていました。では、この荒れ地はいかに開発されていったのか。今回は丸の内の歴史をまとめます。

三菱が原
100年前の「三菱が原」


 江戸城を築いた太田道灌は「わが庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端(のきば)にぞ見る」という歌を詠みましたが、この場所は今の丸の内とされています。
 つまり、丸の内から日比谷は、かつて松原が美しい海だったわけです。

 それから100年後、江戸に入った家康が江戸城と江戸湾を結ぶ「道三堀」を開削したことで、丸の内一帯は陸となりました。そして、江戸時代後期まで、ここには大きな大名屋敷が広がっていました。

幕末の鍛冶橋
幕末の鍛冶橋


 明治元年、天皇が江戸城に東幸すると、丸の内は荒涼とした雰囲気に包まれました。この年の夏頃から大名はことごとく地元へ戻り、あたりは廃屋が広がる場所になったからです。『江戸名所図会』や『武江年表』を書いた斎藤月岑(さいとうげっしん)の日記には、丸の内には草が生い茂り、辻番所は非人の寝場所となっている、と書かれています。

 その後も武家屋敷を引き受ける人間はおらず、廃墟が広がるまま。結局、皇居を守るため、多くは兵営として使われます。明治5年、日比谷に練兵場ができ、周囲に高知(土佐)と鹿児島(薩摩)の藩兵屯地、さらに兵部省(後の陸軍省)などができます。
 さらに江戸時代の北町奉行所の流れをくみ、司法省や内務省が置かれました。
 しかし、まもなく、大火で周囲はほとんど焼失してしまいます。

 明治4年にできた警保寮は明治7年(1874)に東京警視庁となりました。八重洲には監獄もありました。明治10年には、大審院の庁舎も完成し ます。しかし、日本初のレンガ造りの大蔵省分析所以外はみな木造で、野原の間に粗末な建物がちらほら建っている状況でした。
 当時は昼間でも追い剥ぎが出るといわれ、女工の出勤時間が朝5時半から6時半に繰り下げられたとの話も残っています。

鍛冶橋の警視庁
鍛冶橋にあった警視庁の火の見櫓


 明治21年、市区改正条例が施行され、丸の内は市街地へ転化されることが決まります。旧来の木造兵舎は老朽化が激しく、陸軍は麻布に、初の煉瓦造りの兵舎を建造しようと考えます。予算は150万円。当時の陸軍の総予算が1400万円だったので、かなり巨額です。
 そこで、経費捻出のため、丸の内の木造兵舎跡地を売却することにしました。

 陸軍は宮内省、東京府などに声をかけますが、どれもうまくいかず、次に当時の財閥を手当たり次第に口説きますが、いずれもそれだけの巨費は用意できません。そもそもそんな広大な土地を買っても、使い道がなかったのです。

東京府庁
旧東京府庁


 結局、造船と海運(日本郵船)が好調だった三菱が、明治23年(1890)に分割払いで購入しますが、当時は誰もがその無謀さに驚きました。有名な話ですが、当主の岩崎弥之助は「竹を植えて虎でも飼うさ」と冗談を言うほどでした。

 軍関係の施設が次々に移転していくなかで、丸の内はスカスカの原野となっていきました。こうして、一帯は「三菱が原」と呼ばれるようになります。風紀も悪く、車夫が草に隠れて賭博をしていることから、「賭博が原」とも揶揄されるようになりました。

 明治22年(1889)まで絶好調だった日本の景気は、翌年、凶作で一気に恐慌となります。しかし、明治27年の日清戦争開戦を前に徐々に景気回復していきます。

東京府庁
新しい東京府庁


 このような状況のなか、明治27年、突如として重厚な東京府庁が完成し、さらに三菱第1号館が建造されるのです。
 三菱1号館の設計は内務省お雇い外国人のジョサイア・コンドル。東京帝室博物館や鹿鳴館の設計者ですね。第1号館には三菱本社に加え、第百十一国立銀行や、当時の大商社・高田商会が入居しました。

三菱1号館
三菱1号館のオープニング


 翌年には第2号館(明治生命、東京海上が入居)が、翌々年には第3号館(日本郵船が入居)が竣工します。ちなみに、当時エレベーターがあったのは、日本銀行とこの3号館のみでした。

三菱2号館
三菱2号館


 この時点では司法省も大審院も日比谷に移転しており、また監獄も市谷に移っており、丸の内には「三菱の四軒長屋」があるばかりでした。周囲には大名屋敷跡の築山や泉がそのまま残っており、日本橋あたりの子供たちの格好の遊び場になっていたそうです。

 明治29年、中央停車場の設置が決定され、新橋駅構内に建築事務所が開設、高架工事が開始されます。
 明治32年、東京商業会議所が完成。

東京商工会議所
東京商工会議所


 このころ、丸の内には郵便局さえなく、手紙を出すには神田や日本橋まで行く必要がありました。あまりに不便なため、三菱第1号館の一室を無料提供して郵便局を誘致したのが明治35年(1902)のことです。ところが、当時の郵便配達夫は草鞋(わらじ)を履いたままで飛び込んでくるため、靴を寄付するから、履き替えてくれと頼む有様。しかし、規則に草鞋を着用と書いてあるので、断られたそうですよ(『丸の内今と昔』による)。
 なお、この郵便局は、大正6年(1917)、東京中央郵便局に併合されました(大正11年に焼失、大正15年に再建)。

日比谷公園のオープニング
日比谷公園のオープニング


 明治36年、日比谷公園が開園しますが、まだ周囲は大草原でした。
 毎年秋になると、陸軍省向けの秣(まぐさ=馬や牛の飼料)を納入するため、そこら中の草を刈る人夫がやってきました。当時のカネで300〜400円にもなったそうで、いかに草ボウボウだったかわかります。

 明治37年、日露戦争が起きたとき、丸の内の交通機関は日比谷と大手町を結ぶ路面電車だけでした。車はまだ東京市内に38台しかなく、交通の便の悪さはなかなか解消されません。
 当然、三菱以外、丸の内を開発するような奇特な企業は現れません。それでも三菱は淡々と開発を進め、戦後の明治38年頃までに馬場先門通りには煉瓦造りの建物が並びました。これを俗に「一丁倫敦」と呼んでいます。

一丁倫敦
一丁倫敦

帝国劇場
帝国劇場


 明治44年(1901)に帝国劇場がオープンしたとき、その隣には警視庁がありました。ちょうどこの頃、中央停車場(東京駅)の骨組みが完成しています。

 東京駅は、明治23年、内務大臣・西郷従道が鉄道庁長・井上勝に「東京の中心に一大停車場を作れ」と訓示したときから始まります。日清戦争での停滞を経て、明治33年に土地の買収が完了。工事は日露戦争で再度停滞し、明治41年から基礎工事が始まりました。

東京駅の工事
建築中の東京駅


 工事を請け負ったのは大林組。当時、大林組は、大阪で第5回内国勧業博覧会や大阪築港の工事を一手に担った新興勢力で、ほぼ東京初進出の事業となりました。この工事で初めて大がかりに鉄筋コンクリートを使うんですが、現場はかなり苦労したようです。

《コンクリート施行にミキサーやタワーを利用したことも、恐らく我国では此時が嚆矢(こうし)であろう。この工事中、ホール天井のコンクリート施行に際し、板枠の低下せるに気付かず、後に低下部分のコンクリートを斫(はつ)り取るの余儀なきに至った》(『日本鉄道請負業史 明治篇 下』)

 こうして、大正3年(1914)12月20日、東京停車場が開業するのです。

東京駅開業式
東京駅開業式


 18日の開業式は、青島攻略部隊の神尾光臣将軍の凱旋とあわせ行われました。プラットホームには青と赤のモールが飾られ、駅前には大きな緑門が立てられました。駅前の三菱の空き地では、剣舞や活動写真、素人相撲などの余興が開催されています。
(その後、東京駅には大正8年に中央本線が、大正14年に東北本線が乗り入れ、徐々に発展していきます)

東京駅の切符販売
女性に開放された東京駅の切符販売(出札所)

東京駅の風呂
東京駅には公衆浴場もありました


 大正3年、三菱21号館が開館します。鉄筋コンクリートで、エレベーター付き。日本最初の近代的賃貸オフィスビルとされています。
 大正7年に海上ビルが、大正9年に日本工業倶楽部が完成。

三菱21号館
三菱21号館


 東京駅前の丸ビル、郵船ビル、日本興行銀行ができたのは大正12年。竣工から半年後に関東大震災が起きますが、幸いにも倒壊は免れまし た。

工事中の丸ビル
工事中の「丸ノ内ビルヂング」(左から中央郵便局、三菱本社、右が海上ビル)


 昭和4年(1929)、道三町・永楽町・八重洲町の町名が廃止され、丸の内1、2、3丁目が誕生します。この年、日本初の駐車場ビル「丸ノ内ガラージ」が竣工し、東京駅には八重洲口も開設されています。

東京駅
東京市役所から見た東京駅(上。右手の縦に通る線が線路)

東京駅
東京駅

  昭和12年、三菱合資会社の不動産部門が分社化して三菱地所が誕生。
 そして昭和20年、東京大空襲で丸の内一帯が罹災し、東京駅も焼失。周囲は壊滅的な打撃を受けたのでした。 


制作:2012年9月24日


<おまけ>
 冒頭のお艶殺しの犯人は、お艶の元情夫(愛人)でした。犯人は殺害の翌日、新橋駅で窃盗をして市ヶ谷監獄に収監されていたのです。犯人が身を隠すのにこれ以上安全な場所はないですな(笑)。
 大正8年(1919)、犯人は涼しい顔で出所したものの、再び窃盗をして捕まり、このとき、すべての悪事が露見したのでした。
改修前の東京駅
改修前の東京駅

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