農協の誕生
近代「農業政策」130年史

米俵と農協
米こそ富の源泉


 日本には様々な圧力団体がありますが、なかでも別格なのが農協です。
 どれくらいすごいかというと、たとえば2011年10月、TPP(関税の撤廃)への参加反対を首相官邸で訴えたときは、なんと1167万人分の反対署名を提出しました。しかも、全国会議員のほぼ半数にあたる356名の賛同も集めたのです。

 日本の総就業者数は6565万人、そのうち農業・林業は241万人(2012年)。わずか3.7%の労働者がいかに力を持ってるかわかりますな。

 それにしても、都会育ちだと「農協」と言われてもよくわかりません。
 そこで、まずは簡単な組織図を公開しときます。

農協本部
農協の本部(隣は日経と経団連)


<農協JAの全国組織>

・全中…………指導、監査、広報
・全農…………農作物の販売、資材の共同購入
・農林中金……金融
・全共連………保険、共済
・全厚連………医療、介護


 ほかに日本農業新聞(情報)、家の光協会(出版、文化)、農協観光(旅行)など膨大なグループ企業がありますね。

 その経済パワーをざっくり見てみると、

・【販売】米や野菜など農家が作った農産物を集めて販売する 約4兆円(2009年度)
・【購買】肥料や農薬、生活物資などをまとめて購入し、頒布 約3兆円(2009年度)
・【信用】農林中金の総資産 約72兆円(2012年度)
・【共済】JA共済の総資産 約48兆円(2012年度)


 農協はこうした巨額マネーを原資に、住宅ローンや自動車ローン、有価証券投資などで莫大な利益を上げてきたわけです。

農協
1953年の農協


 では、農協がここまで巨大化したのはどうしてか?
 特に大きな理由が食管制度です。
 戦時中の1942年に創設され、実に1995年まで続いた食糧管理制度の下で、農協は農家を守るという名目で米の値段(生産者米価)の引き上げを主導してきました。また、農協が肥料やら農薬、農業機械などの資材をいくら高く販売しても、そのコストはそのまま米価に算入されました。
 東京電力がコストをそのまま電気代に上乗せできるように、米の値段もコストをかけ放題だったわけです。

 その後、米あまりによって減反政策が始まると、減反分は補助金に変わり、一説には累計7兆円が農家にバラまかれたといわれます。これが自民党がおこなってきた農業政策の基本です。

農協
1953年の農協


 では、この農協はどうやって誕生したのか。以下、歴史を振り返ります。

 江戸時代、農民は農地に縛られていました。逆に言えば、領主の法度や圧政によって家計は守られ、倒産する農家はありませんでした。
 ところが、明治維新によって自由な時代になると、家業をおろそかにし、贅沢に流れ、破綻する家が激増します。維新から10年ほど経った時点で、農村の荒廃は大問題になっていました。

農商務省
農商務省


 1881年(明治14年)、殖産興業政策の一翼を担う国家機関として農商務省が設立されます。
 農商務省では、前田正名という書記官が中心となって、3年にわたって新しい農業政策が研究されました。その成果が「興業意見」として公表されます。

「興業意見」で取り上げられた農政は以下の通り。ネットに一切資料がないので、すべて公開しときます。

<農政の整理>
 ●小作条例を発布
 ●害虫予防規則を発布
 ●家畜伝染病予防規則を発布
 ●獣医開業試験規則を発布
 ●牛馬籍規則を発布
 ●種獣規則を発布
 ●家畜保護規則規則を発布
 ●鳥獣猟規則を発布
 ●漁業条例を発布

<農芸の改新>
 ●駒場農学校を農業大学校に昇格
 ●直轄獣医学校の設立
 ●農業試験場の設置
 ●蚕桑実験所の設置
 ●農用分析所の設置
 ●農業巡回教師の設置
 ●種畜場の分設
 ●農産陳列場の設置
 ●育種場の設置
 ●水産調査所の設置
 ●水産試験所の設置
 ●魚蝋油製造所の設置


 たとえば害虫予防にしても、害虫の指定・命名、害虫区画の判断、土地所有者の義務、駆除の監督、費用支払い、罰則規定など、すべきことは山積みでした。

 中心となった前田正名は、農業の発展や農村振興を目的として設立された「大日本農会」の幹事長をしていましたが、1895年(明治28年)、「全国農事会」を分離させます。

 1907年、全国農事会は「帝国農会」と改名。これは農業と地主の利益を守る中央農政機関で、1910年に公認され、1943年(昭和18年)まで続きました。
 農業技術の指導、調査研究、農産物価格の統制、小作争議の抑制、農民の福利厚生などに取り組んでおり、これがJA全中の源流と言えますね。

 一方、JA全農の源流は、1900年に創設された「産業組合」です。これが現在の協同組合の始まり。すでに【販売】【購買】【信用】、そして、個人では持てない生産・生活施設の共同設置=【利用】の4業務が確立しています。


 1942年、食糧管理制度がスタートします。主食の米や麦などの食糧価格を政府が管理する制度で、1995年まで続きました。
 戦時下、農産物の一元管理のため帝国農会を統合し、1943年には「農業会」が誕生。

農地改革&農地解放
農地改革のポスター

 
 1945年、敗戦を迎え、1947年に農地改革(農地解放)がおこなわれます。これは大地主を廃止し、小作人に土地を分配する大改革。
 しかし、従来の農政システムはそのまま温存されました。農家は、戦前からの食糧管理制度のおかげで、政府が米を全量固定価格で買い上げてくれたため、生活はこれ以上ないほどの安定が保証されました。

 この流れの中で、1948年、農業会を改組して「農協」が発足するのです。

農地改革&農地解放
農地解放の風刺画(『写真図説 近代日本史』より)


 余談ですが、いまの農協は海外から麦、大豆、とうもろこしなどの農産物を輸入販売して巨額の利益を上げています。アメリカから穀物や飼料を買って農家に販売する、いわば「穀物メジャー」です。飼料用とうもろこしや肥料、燃料などは無税なので、農協自身はおいしい思いをしてきたといえますね。


 さて、1952年、稲作用の農薬「パラチオン」が販売開始となります。これは有機リン殺虫剤で抜群の効果がありました。しかし、「パラチオン」は毒性がきわめて強く、1972年に使用禁止となっています。強い農薬で農業は楽になりましたが、「農家は健康のため、子供を田んぼに出さない」時代が長く続きます。

 以下、この半世紀の農業政策について年表にまとめときます。

●1960年 米価の所得補償方式開始
 都市と農村の所得格差をなくすため、米の買い取り価格を所得補償方式に移行。米生産の経済的リスクが消滅し、農業は“おいしい商売”になった

●1961年 農業基本法制定
 農家の所得増大を支援。農業の近代化が進んだが、結果として農家の兼業化、農業の担い手不足、食糧自給率の低下をもたらした。1999年まで継続

●1969年 自主流通米スタート
 生産者が政府を通さず米を販売できるようになった。ただし、自主流通米価格形成センターが相場を決定。この年は大豊作で米価引き上げゼロ回答となり、「要求米価貫徹農協大会」が開催された

●1970年 減反開始
 米の生産過剰で、政府が米を買えば買うほど赤字に(逆ザヤ)。政府は作付け面積の制限などを強化

農機具
農機具の購入も農協におまかせ


●1985年 ヤミ米問題
 減反を拒否した農家が公然とヤミ米を販売

●1987年 生産者米価大幅引き下げ
 管理米による政府の逆ザヤは解消されるも、膨大な管理費が

●1991年 牛肉とオレンジ輸入自由化
 GATT(関税および貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウンド以降、関税の引き下げが進む。自由化により安価な牛肉や果物が食べられるようになりました。しかし、販売価格が下落するも、自給率が減少し、狂牛病など想定外のリスクも増加

●1993年 米騒動
 記録的冷夏で外国から米輸入。ウルグアイ・ラウンド農業合意によって、定期的に米を輸入へ(ミニマムアクセス米)

●1995年 食糧管理制度廃止
 輸入した米の多くが破棄されたことで、ついに食管法が廃止。農家が米などの作物を自由に販売可能になる

●2004年 食糧法改正
 減反の政府管理廃止、米の価格設定の自由化。誰でも自由に米を販売することができるようになった

●2007年 水田経営所得安定対策
 農業の体質強化と経営安定のため、交付金による大規模農地化を推進

●2010年 戸別所得保障スタート
 生産コストと販売価格の差額を交付。コメ農家に10アールあたり1.5万円を払う民主党の目玉政策

制作:2012年9月11日


<おまけ>
 今でも多くの小学校に二宮金次郎の銅像が立っています。これは「勤勉」の象徴だと思われていますが、猪瀬直樹によれば、すごさはそこではないようですよ。
 どうして二宮金次郎が薪を背負ってるかというと、優秀な換金商品だったから。金次郎は25歳のとき、雑木林を二束三文で手に入れます。

《薪の値段は、山代を1とすると切り賃が1、運び賃が1で、3倍になる。自分で切り、自分で運べ ば、儲けが増える。休日にそうしただけで3年で3両余を稼いだ。元手の5倍になった。
 ……すぐに金次郎は稼いだカネを融資することで利息が得られる、その利益は薪の販売以上だと気づいた。金次郎は薪を売って得たカネを、同僚や友人知己に利息をとって貸し付けはじめ、やがて、金次郎ファンドとでもいうべきシステムとしてつくり上げる》(『二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?』)


 二宮金次郎は、その後、小田原藩の財政再建に参画するなど、その才能を高く評価されました。

二宮金次郎

 一方、明治時代、破綻寸前の農村(山田村)の財政再建をしたのが石川理紀之助。福田康夫首相の施政方針演説でも引用された有名人ですな。
 石川が借金返済のためにおこなったことは、

・村の平均収穫450石を、肥料2倍与えることで1割増産→45石
・1割より増えた分は各戸の小遣いに
・衣食住を節約して45石うかす(合計90石=540円)
・物資のまとめ買い、まとめ売りによるコスト削減、藁工芸・養蚕などの副収入→160円

 これで、毎年700円の返済が可能になるという計画でした。さらに、山林の養成、衛生の向上、庭園の廃止、賞罰の導入、早起き休日労働……などで、7年の予定が5年で借金完済に成功するのでした。
 収入を増やし、支出を減らし、やる気を起こさせる。これが、昔も今も財政再建の基本だとわかりますね。
田んぼ

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