昭和天皇の戦勝祈願
初公開の祝詞を解読してみる

観兵式の昭和天皇
観兵式の昭和天皇(1941年4月29日)


 2014年8月、昭和天皇の日々の活動を詳細に記した「昭和天皇実録」が完成しました。
 実録によると、昭和天皇が戦勝祈願したのは、

 ・1942年12月12日(伊勢神宮)
 ・1945年7月30日(大分県の宇佐神宮)
 ・1945年8月1日(埼玉県の氷川神社)
 ・1945年8月2日(福岡県の香椎宮)

 の4回。1945年の3回はいずれも勅使を派遣しています。
 戦勝祈願の祝詞は今回、初めて公開されたので、せっかくだから読解に挑戦してみたよ。

 まず、天皇が宮中や伊勢神宮などで自ら奏する祝詞を「御告文」、天皇の勅使が代理で奏するものを「御祭文(ごさいもん)」と呼びます。

 太平洋戦争がらみで、「昭和天皇実録」に祝詞の記載があるのは、開戦直後(1941年12月9日)の宮中三殿での「宣戦の親告」、1942年12月12日の「御告文」と1945年7月30日の「御祭文(ごさいもん)」の3つだけです。「宣戦の親告」は戦勝祈願とは言いにくいので、ここでは割愛。

 1942年12月12日(土)は、日米開戦1周年に際し、大麻、塩で修祓を受けたあと、伊勢神宮の豊受大神宮(外宮)正殿前で次のように奏上しています。

《去年乃此月八日已牟倍久母無久米国及英国爾対比氐戦乎開伎志与利朕賀軍人波海爾陸爾空爾身母棚知良受猛毘進美氐敵乃拠礼留島々国々乎次々爾戡定気志乃美加波日爾月爾和志恵麻比或波大海原爾寇布艦船乎撃破利追攘比氐偉自伎戦果乎挙気志波…(中略)
 愈広古留皇軍乃行手乎弥益々爾守幸波倍給比氐……》


 なんだか漢字ばかりでわかりにくいです。

 1945年7月30日(月)の記録は、せっかくなのでほぼ全文公開しておきます。

《本来、官幣大社宇佐神宮・同香椎宮は10年に1度の勅使参向年次につき、掌典清水谷公揖を7月28日宇佐神宮に、31日香椎宮に、それぞれ奉幣のため差し遣わされる予定のところ中部地区への空襲により米原駅に被害発生につき、25日の東京駅出発が遅延する。その後、清水谷は27日に改めて出発、本日宇佐神宮に、8月2日香椎宮に参向する。

 なお、今回は両宮への御祭文中に左の辞別を加えられ、由々しき戦局を御奉告になり、敵国の撃破と神州の禍患(かかん)の祓除(ばつじょ)を祈念される。

 辞別気氐白左久今志例母有良奴大戦乃最中勁敵倍々荒毘熾烈志久猖獗比氐帝都乎始米国内乃所々乎日毎夜毎爾襲倍留乃美加波我賀島嶼乎次々爾侵志遂爾波本土乎母寇波牟止須留勢阿利当爾皇国乃興廃爾繋留甚由々志伎戦局爾志有礼婆国内尽一心爾奮起知有良牟限利乎傾竭志氐敵国乎撃破利事向気志米牟止奈母思保志食須厳志伎神霊弥高爾降鑑志氐神奈我良明験乎発顕志給比速気久神州乃禍患乎禳除伎聖業乎成遂気志米給倍止祈請奉良世給布大御旨乎聞食世止恐美恐美母白須》

 空襲で、勅使の出発が遅れたことがわかります。

伊勢神宮に参内した昭和天皇
豊受大神宮に参内した昭和天皇(1940年6月10日)


 では、この祝詞はどう読むのか。
 原文の写真撮影は禁止なので表記しづらいんですが、実は「乃」「牟」「倍」「久」「母」などは小さな文字で書かれています。
 
 これは送り仮名などを漢字に直したものです。たとえば「乃」なら「の」、「牟」なら「む」とひらがなに直していきます。

 以下は本サイトの推測による変換表です。

 阿=あ
 加=か  伎気=き 久=く 気=け
 左=さ  志知=し 須=す 世気=せ
               氐=て
 奈=な  爾=に  奴=ぬ      乃=の
 波=は  比=ひ  布=ふ 倍=へ  保=ほ
 麻=ま  美=み  牟=む 米=め  母=も
                    与=よ
 良=ら  利=り  留=る 礼=れ
 賀古=が          気=げ
      自=じ  受=ず
 婆=ば  毘=び
 乎=を


「古」は通常「こ」と読みますが、ここでは「が」と読んでいます。また、「気」は、「き」「け」「せ」など複数の読みにしています。このあたり、ちょっと自信がないところなので、間違いがあったら教えてください。

 ともあれ、上記の祝詞を書き直すと、

「朕が軍人は海に陸に空に身も棚知らず猛(たけ)び進みて、敵の拠(よ)れる島々国々を次々に戡定(かんてい)せしのみかは、日に月に和し恵まひ、或(あるい)は大海原に寇(あた)ふ艦船を撃破(やぶ)り追(おい)攘(はら)ひて、偉(いみ)じき戦果を挙(あげ)しは……(中略)
 愈(いよいよ)広がる皇軍の行手を弥(いや)益々に守(まもり)幸(さき)はへ給ひて……」


 開戦1年で、まさに破竹の進撃をしている頃です。
 それが1945年7月30日になると、

「辞(こと)別(わ)きて白(もう)さく、今(いま)し例(ためし)も有らぬ大戦の最中(さなか)、勁敵(けいてき)倍々(ばいばい)荒(すさ)び熾烈(はげ)しく猖獗(ふる)ひて、帝都を始め国内の所々を日毎(ひごと)夜毎(よごと)に襲へるのみかは、我が島嶼(とうしょ)を次々に侵し、遂には本土をも寇(あた)はむとする勢あり、当(まさ)に皇国の興廃に繋(つなが)る甚(いたく)由々しき戦局にし有れば、国内尽一心に奮起し、有らむ限りを傾竭(けいけつ)して敵国を撃破(やぶ)り、事向(ことむ)けしめむとなも思ほし食(め)す、厳しき神霊、弥(いや)高に降鑑して、神ながら明験(めいけん)を発顕し給ひ、速(はや)けく神州の禍患(かかん)を禳(はらい)除き、聖業を成遂(なしと)げしめ給へと祈請奉らせ給ふ大御旨(ぎょし)を聞(きこし)食(め)せと、恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(もう)す」

 と、ずいぶん弱気なものに変わっています。「日ごと夜ごとに襲われる」というのが痛切です。

 1945年7月は、すでに終戦工作が行われている時期です。
 この祭文を読むと、敗戦が見えているなかで「戦勝祈願」した昭和天皇の悲哀が浮かび上がるのでした。


制作:2014年9月19日

●天皇の「敵国降伏」祈願はこちら

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