警視庁の歴史
GHQの「警察」弱体化計画

警視庁の児童保護係
警視庁の児童保護係(1930年頃、朝日新聞前)


 1945年8月14日、日本はポツダム宣言の受諾を決定し、「終戦の詔書」を公表する準備に入ります。翌15日に玉音放送を流すことが、政界、軍、警察などの上層部に極秘事項として伝わります。もちろん、日本の警察を所管する内務省警保局もこの事態を把握していました。

 玉音放送は、昭和天皇が朗読した詔書をレコードに録音し、それを放送する予定です。陸軍の一部将校は、この録音盤を奪取して、終戦を阻止しようと考えます。14日の夜、畑中健二少佐らは近衛師団司令部に行き、師団長との面会を強要。しかし、師団長が決起を拒否したため殺害し、偽の師団命令を示達します(宮城事件)。

警視庁
警視庁


 15日午前4時過ぎには、近衛師団が録音盤奪取に動いているという情報が、内務省警保局にも入ってきました。しかし、警察は軍の行動を取り締まれないので、警保局は東京憲兵隊本部に「適切な措置をとってほしい」と依頼することしかできません。憲兵隊は軍の警察なので、これが正しい行政の流れなのです。

・陸軍省—憲兵(軍の警察)
・内務省—警察

 反乱部隊はレコードの入手ができず、結果、玉音放送は予定通り流され、終戦となりました。終戦により、陸軍に属する憲兵隊も消滅し、今度はアメリカの憲兵が日本にやってきます。アメリカの憲兵はMilitary policeの略称として、ヘルメットにMPのマークが書いてありました。

 しかし、戦後、GHQは日本警察も解体し、日本にMPという新たな警察制度を導入します。憲兵とはまったく別の警察官MPとはいったいなんだったのか。今回は日本の警察史をまとめます。

昭和天皇を警護するMP
昭和天皇を警護するMP(右)


 日本に警察ができたのは、明治維新からすぐのことです。江戸幕府崩壊後、各藩の兵(藩兵)を「市中鎮撫取締」として、治安維持にあたらせました。しかし、藩兵は軍隊であり、警察ではありません。そこで、1871年(明治4年)、東京府に「邏卒(らそつ)」3000人を置きました。

 ちなみに、日本では文明開化の象徴として、1871年に「裸体禁止令」が出されますが、当初、警察の仕事の大半は裸の取締りだったと言われています。

邏卒
邏卒(小倉織の白ズボンに樫の棒)


 1872年、司法省警保寮の下に警察が置かれ、東京府邏卒も同省へ移管。
 1874年、警察は内務省に移管され、警視庁が設置されました。このとき、3000人増員で6000人規模となっています。この年2月、邏卒を巡査に改称しますが、時間をおかずに「おまわりさん」の名称が誕生しています。この理由は、「じゅんささん」は文字がかぶって言いにくいからではないかとの説があります(『明治東京逸聞史』)。

警視庁
1874年(明治7年)に完成した警視庁(鍛冶橋)


 1875年に施行された行政警察規則では、警察官の職務を次の4つだとしています。
(1)人民の妨害を防護すること
(2)健康を看護すること
(3)放蕩淫逸を制止すること
(4)国法を犯さんとする者を隠密中に探索警防すること

邏卒
5代目菊五郎が演じた邏卒


 フランスの警察制度をまねて警視庁を作ったのは薩摩藩士の川路利良(かわじとしよし)ですが、1877年、西南戦争が起きると、川路は陸軍少将を兼任し、戦地に出向きます。このとき、警視庁から選抜された「抜刀隊」が田原坂を制圧し、政府軍を勝利に導きます。

 兵隊の多くは田舎農民で、軍隊に入ったことで気が大きくなっています。一方、警官の多くは元士族で、腕に覚えがあり、田舎兵士をバカにしていました。こうして、市中では、警官と兵士の衝突が頻発しました。そのため、1884年、「巡査帯剣心得方」が発布され、職務規程が確立していきます。

 前述のとおり、東京府には警視庁がありましたが、それ以外の地方は、内務省警保局所管の下、知事が「警察部」を指揮しました。警部以上の人件費は国費、巡査の人件費は地方負担となっており、1900年頃、警視庁の国費負担は4割、地方の国費負担は総予算の6分の1となっています。

警視庁
明治15年に完成した警視庁(鍛冶橋)


 当時の警察は、いわゆる警察業務だけでなく、消防も監獄も工場管理も水上保全も衛生も担当しました。

水上警察署
水上警察署


 衛生とはどういうことか。
 たとえば、1896年(明治29年)、日本最初のペスト患者が発生し、以後、大流行します。そこで、1900年、ペスト予防のため、ネズミ買い取りが始まります。ネズミを交番に持っていくと、1匹5銭で買ってもらえるのです。後に、ネズミを養殖して儲ける不届き者が出たことで中止になりますが、まさに公衆衛生は警察が担ったのです。

ペスト予防
ネズミの購入


 そして、思想チェックも始まっていきます。国立公文書館には大量の内務省文書が残されていますが、

《近代ニ於(お)ケル文明ノ利器ヲ使用シ極メテ巧妙ナル手段ヲ以(もっ)テ種々ノ犯行ヲ映出スルモノ》(大正元年)

 と書かれた文書があります。これは映画を指しており、「犯行」とは当時大人気だったフランスの小説の主人公「ジゴマ」のことを指しています。青少年への影響を考え、警視庁は映画の興行を禁止。以後、内務省は徐々に検閲業務を強めていきます。

ジゴマ
「ジゴマ」ブーム


 思想警察である「特別高等警察課」は1911年に警視庁に設置され、1928年には全警察部に置かれました。所管は警保局保安課で、検閲もここが担当です。

警視庁
1911年に完成した警視庁(日比谷赤煉瓦庁舎)


 1936年、後に参議院議長となる原文兵衛が内務省に入省します。原は警視総監まで上り詰めているので、原の半生をたどると、それはそのまま戦前戦後の警察史になります。以下、日本経済新聞の『私の履歴書』から人生をたどってみます。


●1936年(昭和11年)4月
 警部補として警視庁保安部交通課に配属。同期で地方(道府県警察部)勤務になった者は警部だった。初任給は、同期75円のところ、原だけが60円。それだけ警視庁は特別だった。
《当時の警察官の制服、制帽、帯剣は警部補以下は官給、警部以上は自弁であった。初めて官給の制服を着て出勤するとき、帯剣のつけ方がわからず、学生時代から懇意にしていた近くの交番のお巡りさんが手伝いに来てくれた。(中略)交通課は私服でもよかったので以後、私はほとんど私服で通した。警察官には定期券大の身分証明書が渡された。当時はこの証明書を見せると市電や私鉄はただで乗れた。表紙が青色だったので「青パス」と呼ばれ、映画館の無料入場にも効果があった》

警察信号
交通課の警官(信号は「止レ」)


●1941年8月
 鹿児島県警察部特別高等警察課長に転任。12月8日の日米開戦で、特高課長だった原は、県内の民心の動向を連日のように内務省警保局に報告。

●1942年11月
 内務省警保局外事課事務官として、初めての本省勤務。
《外事課長にあいさつにいくと、いきなり90円の入った封筒をもらった。1カ月分の機密費だと言われてびっくりした。当時の月給は100円ちょっとくらいで月給に近い金額だった。帝国ホテルの昼食が1円50銭で食べられた時代で、一番下っ端の事務官にも90円とはすごい機密費だなと思ったものである》

●1945年5月
 特高警察の元締である保安課事務官。すでに東京の市街地は半分以上が焼け野原で、左翼や右翼の事件はほとんどなかった。8月、冒頭の「宮城事件」で近衛師団の行動を止める措置をとってほしいと憲兵隊本部に申し入れ。
 敗戦後の1945年10月、特高は治安維持法などとともに廃止されるが、その代替組織として、内務省警保局に公安課が設置。これが現在の公安警察の源流。

●1946年7月
 治安と団体規制を担当する調査局三課の事務官。GHQ行政局のカーネル・ルースト中佐が「大日本武徳会が勅令101号で解散させられていないのはおかしい」と言い始めた。
《彼は武徳会を右翼団体と見ていたが、武徳会は柔道、剣道、弓道などを奨励する団体で、右翼団体とは全く性格が違うのである。道府県支部の会長は知事であり、その下で警察部長が支部長になり、各警察署長が分会長だった。101号の解散団体に指定されると、その役員はみなパージになる。(中略)勅令101号が適用され、多数の知事、警察部長、警察署長の経験者がパージになった。これがいわゆる「武徳会パージ」である》

 この調査三課が後に公安調査庁となりました。
 内務省は、現在の総務省、警察庁、国交省、厚労省、文化庁、神社本庁……に相当する強大な官庁で、GHQに目の敵にされました。結果、1947年末で解体となります。

婦人警官
婦人警官の誕生(1947年)


 そして、GHQは、非常に厳しい警察分割案を提示してきました。一言で言うと、都市警察と農村警察の併設です。
 まず、すべての市と人口5000人以上の町村に「自治体警察」を設置します。これはmunicipal policeの略でMPと言われました。それ以外の地域には「国家地方警察」を設置します。これはnational rural policeの略でNRPと略されます。ruralは田舎・農村という意味なので、都市警察と農村警察という意味になります。

 東京は23区にMPである警視庁を置き、多摩はMPとNRPを併用することになりました。農村ではそれなりに警察機能が働きましたが、困ったのは地方都市のMPです。MPは全国に1605もできましたが、予算の関係で数十名しかいない地域も多かったからです。

警察法公布の記念式典
警察法公布の記念式典


 本サイトが入手した当時の警察の内部文書には、少人数MPの困惑が記されています。

○埼玉のあるMPは13名しかおらず、ヤミ米列車の取締りではいつも大物を逃し、小物ばかり捕まえていた。結果的に市民から怨嗟の声が強くなってしまった。装備が貧弱で、いつもNRPに依存したため、MPはみな気概と誇りを失ってしまった
○MPの財源は入場税と配付税が充てられるが、静岡県青島町では興行が少なく、警察予算の12.5%しか充当できない
○茨城の炭坑で起きた事件では、NRPに応援を頼んだところ、遠方だったため、現場到着まで4時間50分もかかってしまった。近隣MPには110名もいたのだが、応援要請できる法律がなく、こうした事態になった
○新潟の労働争議では複数のMPで143名を逮捕した。逮捕者は同じように警官を殴ったりしたが、立件は公務執行妨害と単純暴行とで分ける必要があった。しかも制限時間の関係で、未出勤のNRPに取り調べを依頼した

警察
「MP定員・装備増強要望調査」報告


 新警察制度によって各警察は独立した組織になりました。そこで、大阪市警察は「大阪警視庁」と自称し、交番の全廃を決めました。アメリカ式に、地域の警邏活動を主力に変えたのです。交番の代わりにO.P.P.(OSAKA POLICE POST)を設置し、市民の声を取り入れたりもしました。大阪警視庁のトップは「警視総監」と自称し、またあるMPの署長は警視総監と同じ襟章をつけるようになりました。
 
大阪警視庁
大阪府警の警邏箱(『警察学論集』1950年6月号)


 さて、再び原文兵衛の『私の履歴書』に戻ります。

●1948年3月
 警視庁の警備交通部長。
《警備交通部長の初仕事は警視庁予備隊の創設であった。新警察制度発足から間もなくGHQは警視庁の警察官を5000人増やし、2万3000人にせよと通知してきた。私は田中栄一警視総監に「これからは集団警備力が必要になるので、5000人のうちの相当数をこれに充てましょう」と提案し、採用されたのである。(中略)資材不足や隊舎の手当てに苦しみながらも、5月25日に2500人の警視庁予備隊が発足した。これが後の警視庁機動隊になるのである》

 警察の二重態勢はあまりに非効率だったため、警察法はサンフランシスコ講和条約発効後の1954年に全面改正され、MPとNRPは統合されました。現在の警察庁が誕生し、大阪警視庁もあえなく大阪府警に吸収されました。

警察に拳銃
1946年以降、拳銃武装化


●1954年
 長野県警本部長。
《6年余りも国家地方警察と自治体警察に分かれていたから、これを一緒にするのが大変だった。まず月給が違う。国家地方警察は全国同一だが、自治体警察は各自治体の財政状況によって異なり、概して国家地方警察よりも高かった。月給は国家地方警察の基準にあわせることにした。
 例えば長野市の自治体警察で2万5000円をもらっていたとすれば、月給は国家地方警察と同じ2万円にして、5000円は手当にした》


 こうして、現在の警察庁と警視庁の2大システムが誕生したのです。

警察
花を植えて明るい警察を目指す(1956年)


制作:2017年8月15日


<おまけ>

 警視庁を創設した川路利良が語った警察官の心得は『警察手眼』(けいさつしゅげん)としてまとめられ、現在も読み継がれているそうです。いくつか興味深いところを意訳しておきます。

その1 行政警察は予防を本質とする。人民が過ちを犯さないよう、罪に陥らないよう、損害を受けないようにし、「公同の福利」を増やすことが重要だ。
その2 海陸軍は外部を護る甲兵である。警察は内部を補う薬餌である。
その7 警察官は眠ることなく、安座することなく、昼夜立って、注意を怠ってはならない。
その13 国家は形のない人間であり、不逞の輩はその病気である。警察は健全を養う治療である。
その30 警察官は長袖を着て、宴会や快楽にふけることができないのだから、そうした賎しい心はすっぱり捨てるべきだ

警視庁

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