「催眠術」大流行

催眠術
バイオリンを知らない少年が、催眠術で演奏中!


 明治時代中期以降、日本では「催眠術」が大流行します。
 実は、明治18年(1885)頃、日本では「こっくりさん」が爆発的なブームを呼んでおり、催眠術もそのころから日本に広がり始め、明治29年、明治36年と間断的に大流行がやってきては、誰もが夢中になってハマっていたのです。

 当初はいかがわしい催眠術師によるエセ治療などが起きたりもするんですが、後期になると、学者が研究対象にするなど、キチンとした“裏付け”までついてきました。

 実際、僕の手元にある『催眠術雑誌』(明治42年秋号)では、とある文学博士が「執着心離脱の方法」を書いたりして、権威づけが行われています。

 そんなわけで、まずは催眠術研究所が明治42年に書いた『催眠術秘伝書』から、催眠術のノウハウを公開しておきます。

 まず、人間はどうやったら眠くなるのか? それは次の3方法があります。

●ある部分を刺激して局部疲労を起こさせる
●強い刺激を弱める
●脳に貧血を起こさせる


 具体的には、

○人間は一点を見続けると、目は動かなくなり、まぶたが膨れ眠くなる。
○人間は皮膚をこすれば身体が軽く感じ、眠くなる。
○変化のない単調な音楽を聞いていると、眠くなる。


 これが刺激による局部疲労の一例です。一方、強い刺激を弱めるとは、

○非常に騒々しい場所から静かな場所に移ると、眠くなる。
○夜、明かりを消せば、眠くなる。

 
 で、脳貧血とは、

○腹一杯食べたり、入浴すれば、眠くなる。
○下手な演説や講談を聞いていると、精神が飽きてきて、眠くなる


 といったことです。
 こうした催眠誘導術を補助にした上で、ではどうやって催眠術をかけるのか? ここでは「凝視」を使った例をあげてみます。


(1)
 最初に「私がこれまでうまく催眠させたのは、だいたい君のようなタイプの人だ」
 と言うと、被術者には「それでは私はすぐ催眠される」との予期作用が起きる。

(2)
 次に目を閉じさせ、いろは48文字を繰り返し繰り返し暗唱させる。時間は5分か10分で充分。これは雑多な念慮を追い払って心を平静にさせるためである。

(3)
 被術者の目よりも少し高く、ちょっと仰ぎ見るくらいの場所に、彩色したものか輝いている球体をつるし、凝視させる。このとき「なるべく目を大きく開け」と命令する。
 10分もすれば、眼球は涙が出て湿り、まぶたは重くなる。
 すると、凝視している物体を動かせば、眼球もそれに合わせて回転するようになる。

(4)
 続いて「目を閉じて眠れ」「疲れた」「眠くてたまらない」と言いながら、両手で頭上から腰のあたりまでなで下ろす。
 これで催眠状態になる。
 
(5)
 さらに「もう眠った」「もっと深く眠る」と後頭部を数回強く押しながら、何度も念を押す。
 ここで「もう目を開けることはできない」「手も足も自分では動かせない」と繰り返せば、催眠完了。

(6)
 被術者が歯痛で悩んでいれば、「もう君の歯痛は直ったから、今後、再び痛くなることはない」と言えばその通りになる。
 被術者が寝小便で困っていれば、「寝小便は直ったよ。これから寝小便することは決してない」と言えばその通りになる……。

 このように、催眠術は「治療」がウリでした。これなんか↓どんな病気でも催眠術で治るけれど、頭痛がいちばん簡単と書いてますね。

催眠術


 で、このように大ブームとなった催眠術ですが、いつのまにか治療より「催眠術で他人を思い通りに操る」方向に転じていくのは当然のことでした。

 明治41年8月28日の「万朝報」には、こんな記事が出ています。

《第三師団騎兵第三連隊の将校間には、近来、「催眠術」大流行にて、目下同隊が岐阜県稲葉郡前富村の木曽川南岸へ水馬演習に赴き居れる内、将校連は蓄音機にて村の子供を呼寄せ、盛んに未熟なる「催眠術」を掛け散らしたる。

 其為(そのため)、同村三輪換(15)の如きは某少尉の為に掛けられし侭(まま)、酒席に連れられて様々の動作をさせられたるが、覚醒法の不十分な為、甚しく脳を狂わせて殆(ほとん)ど白痴となれりとは人道問題也》


 勝手に催眠術をかけられて白痴にさせられてはたまったものではないですが、このように、軍隊と教育関係者が催眠術ブームを担ったと『催眠術の日本近代』という本は指摘しています。

 そして、もっと象徴的だったのは、明治42年(1909)年に発表された、森鴎外の『魔睡』です。

 この作品では、「法科大学教授・大川渉」の妻が「磯貝医師」によってかけられた「魔睡」で性的暴行を与えられてしまいます。もちろん、大川の妻にはその自覚がないし、目撃者もいない以上、犯罪は立件できません。

 さて、この小説がスキャンダルとなったのは、話が実話だったから。実は、大川は「森鴎外」本人で、被害者は当時7カ月で身重だった妻本人なのです。これは鴎外の娘が、後に「事実だとして母から直接聞いた」と書いています。

 では「磯貝」は誰だったのか? 東大内科の三浦謹之助だったとの噂がまことしやかに流れたのですが、三浦は政界などに影響力が強く、これが大問題を引き起こします。

 結果、森鴎外は首相から直接呼び出されたりもするんですが、鴎外本人は、最後まで「実話」と認めなかったのでした。

 さて、その後の催眠術ですが、すでに催眠術の弊害も多く説かれ、明治41年9月には「警察犯処罰令」が公布され、催眠術は取り締まりの対象になってしまいます。
 実際、新富座で催眠術を披露していた宮岡天外は、罰金15円に処せられています。

 しかし、その後も催眠術関連の本はたくさん出版され、ブームはなかなか消えることはありませんでした。
 そして、こうした流れの延長上に、超能力の「千里眼」事件が起きるのです。


制作:2006年6月5日

<おまけ>
催眠術数え歌(くだらないので一部公開)
1つとや、人の性質見定めて、真心込めて施術せよ
4つとや、世に数多き学問で、不思議の学は催眠ぞ
7つとや、何にもならぬ楽しみにみだりに施術をせぬがよい
8つとや、病や煩悶・悪癖も神秘の術で矯め療せ
  
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