網走刑務所の誕生
「強制労働」と「脱獄」の歴史

網走監獄
網走刑務所からの脱獄


 日本でもっとも有名な刑務所と聞いて、多くの人は北海道の網走刑務所を思い浮かべると思います。
 昭和10年、網走の囚人たちが中心になって、国鉄の湧網東線が作られました。昭和13年には美幌空港が建設されています。昭和15年になると、365人の「囚人部隊」が南洋に送られ、東洋一といわれたテニアン島(北マリアナ諸島)の空港を建造しました。網走の囚人は、土木工事の経験を積んでいたため、手際のよさは群を抜いており、「熊部隊」と賞賛されました。

 空港が完成すると、一行は内地に送還されました。その後、テニアン空港は米軍に奪われます。そして、ここから発進したB29爆撃機が、広島と長崎に原爆を投下するのです。

 知られざる網走刑務所の歴史。では、その網走刑務所はいったいどのように誕生したのか。それを知るため、まずは江戸時代までさかのぼります。

小伝馬町旧牢
小伝馬町旧牢の門前(『刑罪詳説』)


 幕末の江戸には、大きく分けて2つの刑務所がありました。1つは収容施設である「小伝馬町牢屋敷」、もう1つは更正施設である「石川島人足寄場」です。
 さらに、浅草と品川には、病気の囚人を収容する「溜(ため)」がありました。

 明治になるといずれも「東京府」の管轄となりますが、その後、刑部省、司法省、内務省、警視庁などに担当がころころ変わります。

司法省
司法省


 明治5年、日本初の「監獄則」が制定され(布達378号)、監獄は十字の建物にし、その交叉地点に監視所を置くことが決まりました。このとき、「監獄」の名称も法的に決まりますが、実際はまだあまり使われない言葉でした。

 監獄則によれば、監獄は次の6種類がありました。

●集治監(徒刑、流刑、旧法の懲役・終身刑の者を拘禁するところ)
●仮留監(徒刑、流刑に処せられた者を集治監に送るまで拘禁するところ)
●地方監獄(拘留・禁錮・禁獄・懲役に処せられた者、および徒刑に処せらた女性を拘禁するところ)
●拘置監(刑事被告人を拘禁するところ)
●留置場(刑事被告人を一時留置するところ)
●懲治場(不論罪の<罪にならない>年少者、聾唖者を懲治するところ)

 明治12年(1879年)4月、内務省直轄の「集治監」が東京の小菅と宮城県の仙台におかれます。

 当時は、佐賀の乱や西南戦争などで国事犯が激増しており、その収容が大きな問題となっていました。
 また、ロシアの南下政策に対抗するため、北方の開拓が急務となっていたこともあり、北海道に大がかりな刑務所が次々に造られていきます。

佐賀の乱でさらし首になった江藤新平
佐賀の乱でさらし首になった江藤新平


 当初、北海道では石狩川沿岸、胆振・後志方面(羊蹄山)、十勝川沿岸の3候補地がありました。
 明治13年、伊藤博文は月形潔を代表とする調査団を派遣。月形は札幌に近いこと、石狩川の水上交通を利用できることから、「樺戸集治監」を須部都太(スベツブト、現在の月形町)に設置しました。明治14年のことです。

 その後、明治15年に「空知集治監」が、明治19年に「釧路集治監」が設置され、いずれも1000人以上が収監されました。収容者は付近の開拓とともに、空知では幌内炭鉱、釧路では硫黄山で採掘にあたりました。硫黄山では、採掘が始まって半年で、300人のうち45人が病気になり、42人が死亡しています。
(なお、明治16年には、九州の大牟田に「三池集治監」も設置されています)

 明治19年(1886年)、北海道庁が設置されると、道内の集治監は道庁に移管され、同時に収容者をより労役させる方針が決定します。

北海道庁旧庁舎
北海道庁旧庁舎


 当時、北海道が抱える最大の問題が、内陸部に幹線道路がないことでした。そこで、太政官大書記官の金子堅太郎は、道路敷設に囚人を使うことを提案します。
 工事は「10数里の密林の伐採」「険岨の山嶺を平坦に」「谷地の排水」など重労働が予想されましたが、

《彼等は、固(もと)より暴戻(ぼうれい)の悪徒なれば、其(その)苦役に堪えず斃死(へいし)するも、尋常の工夫が妻子を遺して骨を山野に埋むるの惨状と異なり、又今日の如く、重罪犯人多くして、徒(いたず)らに国庫支出の監獄費を増加するの際なれば、囚徒をして、是等必要の工事に服従せしめ、若(も)し之に堪えず斃れ死して、其人員を減少するは、監獄費支出の困難を告ぐる今日に於て、万(よろず)己(や)むを得ざる政略なり》(『北海道三県巡視復命書』集治監ノ囚徒ヲ道路開鑿ノ事業二使役スル事)

「どうせ悪人どもなので、重労働で死んだら死んだで、刑務所の金が浮く」という鬼畜な発言です。ちなみに、労賃も通常なら1日40銭だが、囚人なら18銭でいいから半分以下で済むと明言しています。

網走監獄
屋外作業の現場で建てた休泊所(「動く監獄」)


 明治22年、道庁は「釧路集治監」に道路敷設を命令。明治24年(1891年)、網走に「釧路集治監網走分監」が設置され、最終的に1400人が集められました。
 これが網走監獄の始まりです。集められたのは、どのような犯罪者だったのか。明治24年の記録では、収容者1200人のうち、強盗628人、強姦致傷232人、放火90人、謀殺(計画殺人)74人、故殺(思わず殺した)34人となっています。

 すでに岩見沢—旭川間の道路は、樺戸集治監の囚人たちによって完成しています(明治22年)。また、旭川—北見峠も、空知集治監の囚人たちによって完了しています(明治23年)。
 残りは北見峠—網走の163km。これを網走の囚人たち1100人で、明治24年内に完成させる計画です。期日はあと8カ月しかありません。

 典獄の大井上輝前は、工区を13(1工区12km)に分け、それを200数十人ずつで構成した4班で競争させました。工事自体は驚異的なスピードで進みましたが、問題は食糧の移送でした。石敷きの道路ではなかったので、雨が降ると路面はぬかるみ、台車はまったく動けません。

 以下、安部譲二の『囚人道路』より引用。

《籠の中には米が詰っている。
 アイヌは15人ずつ3班に分れて、道路工事の囚人達に米を運んでいた。
 せっかくつけた道は、この降り続く雨でぬかるみ、馬車の車輪が泥の中に沈んでしまって、どうにもならない。
 仕方がないので、アイヌ達は背負い籠に米を詰めて、野越え山越え囚人達に運び続けている。
 囚人ひとりが平均して1日に4合の米を喰べるとすれば、看守も入れて1班が約220人だから、1日に8斗8升になる。
 大変な量だ。
 馬車が使える間に、多少の米は各班に蓄えてあったが、それでも毎日喰べる量が莫大だから、そんなものは直ぐ底をついてしまう。
「もう何日か降り続けば、囚人の喰べる米が足りなくなってしまう。既に味噌や醤油は、どの班でも欠乏しているのだ」》


 結局、工事は期限内に終わりましたが、211名の囚人が死亡しています。

囚人による道路工事
こちらは都会だけにラクそうな囚人たちによる道路工事(明治20年)


 明治24年、組織変更により、道内の刑務所は北海道集治監となりました。その釧路分監は帯広方面の開拓に着手します。

 十勝平野に開拓民が初めて入ったのが明治16年。依田勉三の「晩成社」が中心になって農業を行っていましたが、道路がないため、販売に苦労していました。
 そこで、釧路分監の受刑者700人が十勝川ぞいに大津街道と音更山道を開きました。こうして、広大な十勝平野の開拓が進むのです。

 重労働で死んだ囚人たちは、現場に埋葬され、墓標の目印に鎖がおかれるようになりました。いつしか囚人たちの墓を「鎖塚」と呼ぶようになりました。
 まさに、北海道の開拓は囚人たちが担ったわけです。

囚人による米つき作業
囚人による米つき作業(明治25年、場所不明)


 明治36年(1903年)、「監獄官制」により、すべての監獄は司法省の所管となり、名称も「監獄」と改称されます。この時点では、小菅監獄など全国に57の監獄があり、もちろん網走も「網走監獄」と呼ばれるようになりました。
 大正11年(1922年)、監獄官制が全面改正され、監獄の名称は「刑務所」となりました。

 時代が下るにつれ、刑務所の待遇は改善していきますが、それでも網走刑務所の冬の寒さは絶望的でした。
 共産党の徳田球一は、網走刑務所での生活を『獄中十八年』にこう書いています。

《骨のずいにしみとおるあの言語に絶する寒さは、6年間の網走生活の記憶を、いまもなお冷たく凍りつかせている——。真冬には零下30度にさがることもめずらしくなかった。そんなときには暖房の入った監房のなかでも、零下8度とか9度とかをしめす。吐いた息が壁に当ると見るまに凍りついて無数の“こんぺいとう”が出来る。“こんぺいとう”は壁にだけできるとは限らない。うっかりすると眉毛のさきや鼻のあたまにもできる。しょっちゅう気をつけて鼻をもんでいないと、やけどのようにどろどろに腐ってしまう》

 これは戦前ですが、戦後でも状況は一緒。伊藤一の『網走番外地』(1956年)でも《寒いってんじゃねぇ、痛いってんだ》などと、監獄ならぬ「寒獄」ぶりが書かれています。

網走刑務所の鉄球
囚人服と脱走防止の鉄球


 こうした境遇に不満を持ち、脱獄を図る囚人も多数いました。
 有名なのが、樺戸集治監の「1期生」とされる西川寅吉。五寸釘を足に刺したまま逃げたという「五寸釘の寅吉」で知られます。

五寸釘の寅吉
人気を呼んだ「五寸釘の寅吉」本


『月形町史』は、その脱獄ぶりを、次のように書いています。

《寅吉は樺戸で3回脱獄しているが、明治18年に脱獄した際、石狩川の籠渡しケーブルを素手で魔修羅のごとく伝わって向こう岸に消え、一躍名を挙げている。脱獄後、札幌、留萌、稚内など神出鬼没、豪商の土蔵を片っぱしから破り、奪った金を貧しい開拓民にバラまいて『義賊』ともてはやされた。しかし寅吉は、ほどなく捕まり月形に連れ戻された。巷間『義賊』の彼も、監獄内では重犯として、4キログラムの鉄丸を通常は1個のところ2個両足につけられ、そのままの姿で水田開拓や森林伐採などの作業に狩り出された。寅吉はしばらくして再び脱獄、この時は3メートルもの高塀を乗り越えるために、獄衣を水に濡らして塀にたたきつけ、その吸着力を利用してみごとに乗り越えたという知能犯ぶりを発揮、再び脚光を浴びている》


 当時、この「魔修羅」という言葉はかなり話題になったようです。
 その後、網走監獄で模範囚となった西川寅吉は、刑が執行停止となり、以後、講釈師として日本中を回りました。

五寸釘の寅吉
網走監獄の最後は門前の掃除を担当した「五寸釘の寅吉」


 また、足が驚くほど速く、1日に48里(192km)も逃げのびたことで「稲妻強盗」と言われた坂本慶次郎も、樺戸集治監を3回脱獄し、明治33年(1900年)に絞首刑になりました。

 26年間の服役中に4回の脱獄を実行したのが、「昭和の脱獄王」と呼ばれた白鳥由栄です。
 まず最初が、昭和11年(1936年)の青森刑務所。針金で手製の合鍵を作り、開錠して脱獄。
 続いて昭和17年(1942年)、秋田刑務所で、ブリキ板を釘で加工した自作の金ノコで鉄格子を切断し、脱獄。

 そんな白鳥が、昭和18年、網走刑務所に送られてきました。2度も脱獄していたため、厳重な警戒が敷かれます。20kgの足錠と手錠をつけられ、独房に監禁されました。
 しかし、1年後、独房から忽然と消えたのです。

樺戸の懲罰房
樺戸の懲罰房


 脱獄方法を、本人が語ります。

「体は革バンドで縛られ、重さ4貫目ぐらいはある太い鎖でつながれた手錠と足錠は、看守が2人がか りでナット締めをしたもんだ。俺はそれを外すのに苦心したんだ。だけど、“人間が作ったもんは必ず壊せる”という信念が俺にはあったから、毎日、看守のすきを見ては手錠と手錠をぶっつけ合わせ、ナットを歯で何万回となくかんだんだ。同じ作業を昼も夜も、半年ぐらいやってたな。歯が2本折れたけど、そのうちにナットがゆるんできたんで、歯でナットを回して手錠を外し、足錠の方も同じようにぶっつけて壊したが、案外簡単に外れたな」(斎藤充功『脱獄王 白鳥由栄の証言』)

 手錠と足錠が外れても、まだ鉄格子があります。鉄格子は松の木にボルトで留められていました。これは、味噌汁を3カ月間吹き続け、木を腐らせることでボルトを浮かしました。

「手錠と足錠をかけられたままだったので、汁は腹ばいになって口を食器の中に突込んで吸い、口に含んだ塩汁を鉄棒にかけたんだな。最初はなんの変化もなかったが、3ケ月ぐらいたつと鉄棒に錆が出てきて、頭で鉄枠を何回も押すとボルトを留めてある木と鉄棒の間に隙間が出来たんだ。それからはその隙間に塩汁をかける作業を繰り返して、下の部分をガタガタにしたわけだ。俺の頭が枠に入る大きさなので、頭が入れば、俺は両肩の骨をはずすことが出来るので、房扉の外に出る自信があったんだ」

網走監獄
網走監獄の第1房


 白鳥は、昭和22年(1947年)には札幌刑務所の床下にトンネルを掘って脱獄。翌1948年、府中刑務所に収監され、以後は模範囚として過ごします(1961年に仮釈放)。

 網走刑務所は、高度経済成長期になると、高倉健の映画『網走番外地』シリーズの人気で有名になりました。そして、1983年、全面改築にともない、旧獄舎などはそのまま移転、野外博物館となりました。

 なお、1950年末の段階で、全国には刑務所55、刑務支所16、拘置所5、拘置支所92がありました。
 これが2010年では刑務所62、刑務支所8、拘置所8、拘置支所103となっています。

網走刑務所
現在の網走刑務所


制作:2016年1月18日


<おまけ>
 網走刑務所で敗戦を迎えたのが、共産党の宮本顕治です。その記録が書かれた『網走の覚書』には、こう書かれています。

《8月15日の午後3時ごろ、窓の外を囚人をつれて通っている若い看守が、防空壕を指さして、「これも20世紀の遺物か」と言っているのがふと耳にはいった。広島、長崎の「新型爆弾」の投下の報や、ソ同盟の参戦などで、もう大詰の近いことを感じていた私は、戦争終結かとハッとした》

<おまけ2>
 『脱獄者たち』という本には、著者・佐藤清彦の主観による「脱獄者番付」が掲載されています。

 東の横綱は白鳥由栄、西の横綱は渡辺魁。
 渡辺は、三井物産長崎支店に勤務していましたが、横領により三池集治監へ。その後、脱獄。辻村庫太という偽名で大分の裁判所に勤めはじめます。上野戦争による孤児だったなどとして、戸籍を捏造することに成功。明治20年、判事登用試験に合格し、以後、3年にわたり裁判官として判決を出し続けました。
 
 そして、東の大関は関口文七、西の大関は田中ヒモ。
 関口は脱獄後、故郷の前橋に行き、刑務所を外から破って200人以上を解放した人物。田中は、夜ごと脱獄しては恋人と逢い引きし、夜明け前には獄に戻って知らんぷりしていたという女囚です。

 人生いろいろ、囚人もいろいろです。

網走監獄
収監時に編み笠をかぶせられた囚人たち

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