株と「成金」の時代
あるいは野村證券の誕生

成金
日露戦争の成金のモデルは鈴木久五郎


 日本史の教科書には、日露戦争で多くの成金が登場したとありますが、具体的にはどのような人物たちなのか。よく言われるのが、札束に火をつけて明かりを採った、豆まきの代わりに銀貨をまいた、汁粉に金貨を入れて芸者に飲ませた、などです。
 当時、有名だった成金に村上太三郎と鈴木久五郎がいます。その2人が、白米10俵を用意してこんな会話をしました。

《桂(太郎)総理の寵妓に尻をまくらせるという久五郎の話をきくと、村上太三郎はおどろいて、
「一体どんな仕掛なんですか」
「いや、広間で潮干狩をやるんですよ」
 久五郎の作戦は斯(こ)うである。
 大広間を浜辺に見立てて、厚さ五寸位に白米を敷く。砂の代りである。
 その白米の中へ、五円金貨や紙幣を埋めて置くのだ。芸妓達は尻を端折ってその中へ入り、貝を掘る要領で金貨や紙幣を掘る——というわけである》(沙羅双樹『近世成金伝 恋の鈴久』)

成金
黄金の下駄


 では、鈴木久五郎(鈴久)はどうやって成金になったのか。利用したのは株式市場でした。
 久五郎は、親族が経営する鈴木銀行の草加支店長。日露戦争が勃発しそうなのを見て、急遽、株を買います。最初の銘柄は北海道炭礦鉄道です。当時、この銘柄は株価操作されている仕手株でしたが、石炭は船を動かすのに必要なため、戦争が起きれば間違いなく高騰します。
 そして、見事、開戦。同じく買いに走っていた松村辰次郎とともに大儲けします。

 続いて、日露戦争の勝利を決定づけた日本海海戦。鈴久は鐘紡株を買い増していました。鐘紡株は異常なほど売買されていましたが、値段は安値を漂っていました。なぜなら、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に勝てるとは思えず、負けたら暴落必至だからです。

 1905年(明治38年)5月26日(金)、日本郵船が上海航路を停止。バルチック艦隊が対馬沖を通過中との一報が入ります。
 27日(土)夜、「連合艦隊が敵4隻を撃沈、敵を夜襲中」との報が入りますが、まだ勝敗はわかりません。
 土日が開け、直前に勝利が判明していた月曜日の立会は、異常な盛り上がりを見せました。鐘紡株を大量に買っていた鈴久は大儲け。
 一方、松村辰次郎は、株では儲けましたが、その儲けの大半を米の先物で失いました。海戦に勝ったことで、政府が米の買い占めを中止すると判断され、蛎殻町の米穀取引所は大暴落したのです。

米穀取引所
米穀取引所

 
 日露講和では賠償金を放棄したため、民衆が激昂、日比谷焼き討ち事件が起こります。この事件を受け、株は暴落しますが、鈴久はここでも多くの株を買い占め、結果的に資産を増やします。このときは、紡績株を買えばそれが上がり、砂糖株を買えばそれが上がり、電車株を買えばそれが上がりと、どこかの火が消えるとすぐにほかの株が上がる状況でした。鈴久は株を増資し、ビール業界や製糖業界の再編をおこないました。

日比谷焼き討ち事件
日比谷焼き討ち事件


 そして、日銀の紙幣発行高が3億円を突破し、景気が絶好調のなかで、鈴久は大勝負に出ます。狙いは安値を行ったり来たりの鐘紡です。
 当時、鐘紡の総株数は11万株。三井系で浮動株が少ないなか、神戸の華僑・呉錦堂が2万株、麦少彭が5000株を持っているとされました。自己資金で3万株買えば38%握れます。50%握れば、議決権も手に入ります。しかし、華僑の2人は、高値がつけば間違いなく売ります。そこで、鈴久は鈴木銀行の金に加え、安田銀行(安田善次郎)からの融資も取り付け、一気に攻め入ります。

東京株式取引所
東京株式取引所


 当時は3カ月先の株を売買する仕組みなので、株の現物を持っていても、株価が変われば追敷(追加の保証金)が必要でした。呉錦堂らは、鈴久の一気呵成の買い占めでついに追敷が払えなくなり、結果的に鈴久は50%超の買い占めに成功します。

 当時を振り返る鈴久の証言です。

《鐘紡買収の目的は、まずこの会社を自分の支配下に置き、三重紡績はじめそのほかの小紡績を買収合併し、大規模組織により対支輸出を拡大し、無数の支那人民に衣服を着せるということにあった。それには現在鐘紡の資本金550万円を1000万円に増資しておいて、やがて来たるべき不況時代に現金をたたきつけて、ごく安価に諸紡績の買収をおこなわんとする》(武藤山治『私の身の上話』より)


 こうして、1906年(明治39年)の大納会が終了。「明治40年の正月は鈴久のためにやってきた」と言われますが、ここで当時のバブルぶりを説明しておきます。

立会場の様子
立会場の様子


 日露戦争は戦費を外債に頼っています。巨額の外資が参入するなかで、日本が勝利。東京株式取引所の株価は、1906年7月の195円が、1907年1月には715円に高騰。大阪も127円(1906年5月)から774円(1907年1月)まで上がっています。インフレが進む中で預金額が膨張、日銀は2回金利切り下げをしますが、それでは追いつかず、各企業は生産への投資を加速させます。

大阪株式取引所
大阪株式取引所


 日露戦争後、鉄道の国有化法案が通り、大量の国債が発行されることになり、これも株式投資を加速させました。さらに決め手となったのが、講和条約(ポーツマス条約)でロシアから割譲された南満州鉄道の上場です。満鉄の総株式数400万のうち、第1回公募で9万9000株を一般から募集。これに対する申込みは1億株を超え、実に1060倍となりました。このとき、さまざまな泡沫会社が設立され、片っ端から上場されていきます。この上場益で儲けたのが、福沢諭吉の婿養子である福澤桃介です。
 バブルはいつまでも続くかに見えました。

日清戦争と日露戦争の株式暴落
日清戦争と日露戦争の株式暴落


 ところが、1907年1月中旬、株式市場は大暴落します。特に鐘紡は暴落が止まりませんでした。安田銀行(後の富士銀行、現みずほ銀行)の裏切りもあり、鈴久は現在の価値で500億円とも言われた全財産を失います。資金を投入した鈴木銀行も取り付け騒ぎが起き、その後、休業してしまいました。鐘紡は、その後、1920年まで高騰を続けるのですが、鈴久に買い支える余裕はありませんでした。

鐘紡の株価推移
鐘紡の株価推移

 
 1907年の相場は「乱酔漢(酔っ払い)の千鳥足」と呼ばれるほどの乱高下を繰り返しましたが、鈴久に対抗して売り浴びせたのが、野村徳七と岩本栄之助です。

 野村は両替商として堅実な商売をしていましたが、日露戦争で紡績株を買って大儲け、さらに鈴久に辛くも競り勝ったことで、地位を安泰なものにします。これが現在の野村證券ですね。

 野村は調査部を擁し、鉄道国有化では一般投資家に声をかけるなど、徐々に証券売買事業に参入。2006年まで国債を大量に引き受ける「シンジケート団」という連合組織がありましたが、野村は、1910年に初めて大阪でシンジケートを組んで巨額の国債を引き受けました。

 当時の証券会社は、客から頼まれた分だけを売買し、その手数料を抜いて利益を上げました。しかし、野村は豊富な資金をもとに自分たちで大量の株を買い、それを転売するビジネスを始めました。大阪商船の4万5000株を一手に買って売却したのが、その最初です。

 一方、野村とともに鈴久に競り勝った岩本栄之助は、「北浜の風雲児」と呼ばれた大相場師です。横浜の高利貸しが台湾で儲けた金で株の買い占めに走ったときも、売り浴びせ、大勝利。岩本はこのとき儲けた金100万円を大阪市に寄付し、中央公会堂を建設しました。

大阪市中央公会堂
大阪市中央公会堂


 この岩本と野村の一世一代の大勝負が、第1次世界大戦(1914年〜)の相場で始まりました。売り手は岩本、買い手は野村で、勝負は岩本の破産と自殺で幕を閉じました。

 野村は1918年に大阪野村銀行(後の大和銀行、現りそな銀行)を創設し、1925年、野村證券を設立します。1930年の金解禁、鐘紡の労働争議で2回の大暴落を経験しますが、15大財閥の1つとして巨大化していきます。

旧野村證券本社
旧野村證券本社


 野村財閥は、以下のような構成になっています。

 金融……証券、保険、銀行、信託
 産業……ガス、紡績、シャツ、靴
 海外……ボルネオのゴム、スマトラのコーヒー・椰子、ブラジルのコーヒー、朝鮮の林業

野村生命本社
野村生命本社(現在の野村證券本社)


 戦前、証券会社と言えば、大阪の野村證券、東京の山一証券と言われていました。

 山一証券は、小池国三が創設した小池証券がもとになっています。小池国三は、鈴久同様、最初に北海道炭礦鉄道の株を買いました。この株は雨宮敬次郎らの株価操作で有名ですが、結局、最後は大損。その後、1900年の豊川鉄道買い占め事件で大損、鈴久を潰した日露戦争後の大暴落でも大損します。
 ずっと大損を繰り返したようですが、野村が「シンジケート団」を作ったとき、東京で同じようなシンジケートを組んだのが小池でした。東京では第一と言われた証券会社ですが、創業20年で廃業、その一部が山一証券となりました。


制作:2017年4月10日


<おまけ1>
 江戸時代、大阪にあった堂島米会所は、年貢米を基にした世界初の先物取引市場でした。しかし、明治新政府はこれをギャンブルだとして、明治2年に閉鎖。しかし、取引所は必要だったことから、明治4年に再興を認め、明治6年には東京にも米の取引所ができました。
 明治6年以降、政府は公債の発行を開始しますが、これにともない、明治7年(1874年)、東京・大阪に株式取引所を設置します。
 鈴久を飛ばした日露戦争後の大暴落では、東京株式取引所のスタッフが仲買人に株を提供し、回収不能になるという不祥事も起きました。日露戦争は、カネがすべてという新自由主義を日本全体に持ち込んだのです。

<おまけ2>
 かつて米会所では、相場の高低を「白い布を振り回し、それを望遠鏡で見る」という手段で連絡していました。明治32年頃までの情報のやりとりは以下の通り。

【大阪堂島→米相場の高低を東京の江戸橋電信局に打電→日本初の相場専門通信社「東京急報社」のスタッフがその電信を受け取り、川向こうの東京米穀取引所に白い布で伝達】

 日露戦争が近づくと米相場の乱高下が激しくなり、また全国に取引所ができたことで、専門の「商業通信社」が設立されました。紆余曲折を経て、この通信社が現在の時事通信社となるのです。
堂島の米市場
堂島の米市場

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