米国が沖縄におこなった貢献の全貌
プロパガンダ雑誌『守礼の光』(4)社会・医療

守礼の光
第3章「成長と進歩(住民)」扉


制圧されたマラリア 医学の勝利

 1946年琉球列島のマラリア発病件数は16万以上を数えた。
 今日では皆無である。とはいえ、マラリアが琉球列島からただなくなったというわけではない。アメリカの公衆衛生担当者とそこに働く沖縄従業員とのたゆみない努力がマラリアを追放したのである。

 沖縄の年配者にはマラリアを覚えている人がある。ハマダラ蚊の雌が人間を刺すと、マラリアを起こす原虫が体内に移される。2週間ほどすると患者は、激しいふるえ、寒け、高熱などの症状を示す。普通の場合、患者は生涯この病状を繰り返すのである。ある種のマラリアは死を招く。全世界では毎年約200万人がマラリアで死んでいるが、琉球列島にはいない。

 終戦後、米軍当局は琉球各地にクロロキニーネその他のマラリア症状をおさえる医薬品を支給した。しかし患者を治療するだけでは十分ではなかったので、たいへんな努力を払って蚊の発生区域に薬剤を散布したり、民衆に予防処置に関する教育を行なったりした。

 マラリアせん滅作戦は完全に成功したが、ほかの病気が減少したのも印象的であった。日本脳炎は1953年には200件以上あったものが、1970年にはわずか21件に減少した。またこれも蚊の媒介によって起こるフィラリア病が激減した。

 医療面における日米琉政府間の協力により、ハンセン氏病や結核の治療と制圧にすばらしい成果を収めた。
 ハンセン氏病は1966年の新発生数120件から1970年の新患63件へと減少した。また結核は1950年の人口1万に対し発病件数57であったが、1969年には19.2に減った。ジフテリア、破傷風、小児まひ、はしかなどは、集団予防接種計画によってはとんどなくなってしまった。また琉球政府当局から無償配布されたハブ血清によって多くの生命が救われた。

 有史以来、沖縄の人たちが今日ほど病気から解放された時代はなかった、といっても決して言い過ぎではない。

住民のための医師

 現在琉球には2000人につき1人の医師がいる。1945年の終戦当時には約5000人につき1人の医師しかいなかった。現状のままで進めば、今後、新しい沖縄県には、医師の数はずっとふえているであろう。この動きは、軍政府とその後は米民政府によって始められたもので、双方とも医師、看護婦その他医療技術者の増加が必要であることをずっと以前から見越していたものなのである。

 時がたつにつれ、琉球政府は日本政府と協力して医療技術者の増強計画に力を入れており、この努力は琉球が本土に復帰後も続けられるものと思われる。2000人につき1人の医師という割合になったことは注目に価する進歩ではあるが、これにはまだまだ改善の余地がある。ちなみに米国では700人に1人、日本では900人に1人の割合。

 1945年当時琉球には約100人の医師しかいなかった。そこで軍政府はこれらの医師を住民の治療にあたらせるため給料制の医師として即座に採用した。
 1952年には232人の医師が確保され、この年はじめて私営治療が許され、在琉米陸軍病院で医師、看護婦に対する再教育計画が実施された。1960年、無医地区に対して15人の日本人医師が本土から派遣された。

 アメリカの財政援助と奨励でささえられた数次にわたる訓練計画で、琉球の住民を対象とする有能な医師の数が増加した。この間アメリカは1967年50余万ドルを投じて沖縄中部病院におけるインターン研修計画を実施し、ハワイ大学教授や医学者たちが医療訓練に力を注いだ。

 この訓練計画に大きく刺激され、新設の那覇病院に保健科学研究所が設けられ、いずれはこの施設を琉球最初の医学校にまで引きあげようとする計画が現在進められている。

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上段右:沖縄中部病院で整形外科手術を行なう沖縄の医師。現在沖縄には2000人につき1人の医師がいる
下段左:米軍病院で心電計を操作する沖縄の医療技術者。これまで数多くの医療従事者が米軍施設で訓練を受けている
下段中:アメリカの企画、援助が大きな力となって、琉球に写真に見られる中部病院のX線照射機などの近代的な機械が備えられた
下段右:アメリカが始めた医療計画で琉球の医者や看護婦ばかりでなく研究所の技術者までも訓練を受けた


空を飛んで健康管理

 最近辺地住民に対する新しい型の医療サービスが、那覇保健所の「空飛ぶ診療団」によって試験的に実施された。この試験的計画は、医師その他の医療従事者を各辺地に派遣し、著しい成果をあげたので、琉球政府は、この「空飛ぶ診療団」を恒久的施策として将来継続させるためヘリコプター2機を発注することに決めた。

「空飛ぶ診療団」は、日米琉各政府間の相互協力によって実現できたものであり、この意味で、琉球の病院・保健所計画をそっくり表徴したものともいえる。輪送には米海兵隊のヘリコプターが使用され、空からの訪問を行なった医師および技術者は、現在沖縄本島と他の大きな島にある病院や保健所に集まった、発展途上の医療界の人たちであり、またこれらの病院は、そもそも約25年前に始まった米軍当局の努力によって発足し、発展してきたものである。

 アメリカ政府は、1945年から51年までに約1億5000万ドルを沖縄の公共福祉に費やしたが、このうち多額が医療施設に回されている。
 1960年代から70年代にかけて、日米琉各政府が病院の拡充に努めたのに加え、民間の医師も多くが首尾よく自営の医療施設を開設するに至った。1970年には琉球列島の病床数は約7000を数え、人口130人に対して1となった。

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上段左:粟国島へ歯科技術者を運ぶ米陸軍のヘリコブター。同様な任務を帯びて米海兵隊のヘリコプターが「空飛ぶ診療団」のために飛行した
上段中:南大東から那覇病院へと沖縄の患者の緊急救助に当たる米空軍機。このような活動が「空飛ぶ診療団」のさきがけとなった
上段右:粟国島で住民とあいさつをかわす米陸軍々医。琉球列島に対するアメリカの公衆衛生計画は25年以上もまえに始まった
下段:渡名喜島で老婦人の血圧を測定する米陸軍の医療技術者。婦人の手に施された伝統的な入れ墨が見られる


万人に学校

 アメリカ軍がはじめて琉球列島に着いた1945年の春、この島々の学校はおそらく史上最悪の状態だっただろう。戦火が近づくにつれ、多数の教師(3000人中約450人)が疎開したばかりでなく、大半の学童も各地に移されていたのである。

 こうしたことがすべて一変することになった。しかもこの変化は第2次世界大戦終結とほとんど同時に始まったのである。最初に設けられた米軍政府諸機関の中には教育部も含まれ、1945年6月の末に戦闘が終わるとまもなく、教育部は授業を再開するよう教べんをとれる教師たちを力づけた。

 1946年には、米軍政府は教育活動を琉球経済を再建する総合計画中の特殊部門として正式に指定していた。沖縄出身の職員が構成する琉球文教部が設けられ、沖縄諮詢会の投票によって文教部長が選ばれた。

 1950年、琉球に米民政府が設けられ、その最初の活動として台風で打撃を受けた学校の再建案に取り組んだ。琉球の教育は、規模、質、量ともに堅実な成長期を迎えるにいたった。

 1951年4月、昔の首里城の跡に建てられた琉球大学が学生にその門戸を開いた。同大学は教員不足を補うため、特に2年制の教員養成課程を設けた。開校当時は琉球政府とアメリカの援助で育てられ、今日では本土からの特別援助を受けている琉球大学は、概して本土の様式にならっており、発展しながら年1年と琉球の求める線に近づきつつある。

 1955年から1970年までにアメリカが琉球の教育のため、支出した金額は次のとおりである。

  公立学校建設 13,771,249ドル
  職業訓練設備 3,189,646ドル
  公立学校設備 3,547,094ドル
  英語教育   809,427ドル
  琉球大学   1,891,231ドル 
  琉球職員援助 17,153,000ドル

   合計    40,361,647ドル  

 1971年には、特殊学校、職業訓練学校を含めて、幼稚園から大学までの学生数は、600校以上の学校で約30万人である。およそ25年間で、琉球の教育は史上最底の線から最高のレベルにまで成長したのである。

元気で勉強 沖縄の学校給食計画

 沖縄の子供は今から3、40年前の子供に比べて身長、体重ともにふえており、また勉強も確かによくできる。最近の政府統計によれば、たとえば12歳の男子は、1939年の12歳の男子より身長で14センチ、体重は9キロふえている。このように体格が向上した大きな原因は食事がよくなったことであるが、よくなった食事の一面には沖縄の学佼給食計画があずかって力がある。

 米国政府は、1953年からアジア救済連盟(LARA)を通じ沖縄に大量の学校給食用の食料を提供してきた。沖縄の関係機関や職員も、給食センターなどの付属設備のためさらに資金を割り当てるなどしてこれに協力した。

 1970年中ごろには暖かい栄養に富んだ昼食が、小学生約100,500名(在籍教138,760名のうち)、中学生約41,000名(在籍数76,160名のうち)に支給された。その他約234,000名の子どもにミルクが支給され、約220,000名にはミルクのほかパンも支給された。

 那覇では、那覇地区教育委員会が立案した手ぎわよい給食実施案によって学絞給食が特に能率的に行なわれている。
 この地区では1日約2万食の暖かい昼食を支給し、その材料費は月約4万ドルになる。その他の経費としては、約70名の従業員に払う給料や、給食用の器具や設備などがある。合衆国政府から提供される主要食品はおもに粉ミルク、植物油、それに小麦粉で、これらは米国際開発局の「平和のための食糧援助」に基づく寄付によるもので、食料購入費を低減するのにかなり役だった。その結果、生徒は1人当たりわずか9セントの費用で800−900カロリーの昼食をとることができた。

 教育者たちはこれまでに健康な子供ほど勉強にも身がはいるということに気づいており、その意味で現代の沖縄の若い世代は将来身長体重がふえるだけでなく、頭のほうも鋭くなるものと思われる。

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左:「いただきまーす」
右:渡嘉敷島でジープが学校給食を配達する。1970年の中ごろには10万をゆうに越える小学児童が1人あたり9セントの費用で給食を受けた


政府立博物館 琉球文化の宝庫

 17世紀の見事な琉球絵画、元和年間(1615−1623)に作られた珍しい陶器、世界に知られた紅型染め……こういったものは琉球文化の至宝といえよう。1966年、当時のポール・W・キャラウェー高等弁務官の個人的関心と援助で設立された琉球政府立博物館がなかったとしたら、これらの多くは失われるかあるいは忘れ去られてしまったであろう。

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紅型工場を訪れる観光客(1964年4月号より)


 この美しい近代建築は、那覇市の我那覇昇氏の設計、キャラウェー高等弁務官がこのためわざわざ招いた米国内務省の博物館設計の専門家による技術援助で建てられた。ここには、漆器から珍しい写本にいたるまで琉球文化を象徴する数多くの品々が収蔵されている。ここを訪れる人の数は年々万をもって数えられている。この大計画には、キャラウェー高等弁務官自ら推進にあたり、資金を供出したものである。

 政府立博物館の敷地は1万1246平方メートル、建物の床面積3294平方メートル。総工費57万5000ドルで、このうち32万1000ドルがアメリカの援助、琉球政府が5万8000ドルと土地の購入費として19万6000ドルを負担した。

 琉球政府立博物館は1966年11月3日の文化の日にはじめて公開された。そして、琉球の経済、社会機構の再建に貢献した人たちはまた琉球文化保存の重要性を認識していたという快い思い出を刻む記念の建造物として立っている。

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左:琉球政府立博物館。ここには展示室のほか、実演や映画上演のための設備を有する客席600のホールがある
右ページ上:館内の展示室は、高温や湿気で収蔵品がそこなわれぬよう保存するため空調設備が施されている
右ページ左下:館内に展示されている貴重な琉球美術品の一つ。漆塗りの重箱
右ページ右下:美術工芸品の鑑賞家が賛辞を惜しまぬ沖縄独特の紅型で作った着物


●米国が沖縄におこなった貢献の全貌
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(1)総論
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(2)統治まで
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(3)経済・インフラ
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(4)社会・医療
 プロパガンダ雑誌『守礼の光』を読む(5)琉球八景図

沖縄土建王国の誕生

制作:2012年11月4日
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