【文豪たちの戦争】その1
田山花袋が見た「日清戦争」

 自然主義文学の大家・田山花袋は「出発の軍隊(日清戦争)」(『東京の三十年』所収)で青山練兵場の様子をこう書いています。

 私の家から青山の練兵場へは、距離がいくらもないので、私は夜など出発の軍隊の光景を見るために、よくひとりで出かけて行った。
 外国との最初の戦争、支那は弱いとは言え、とにかくァジァの大勢カなので、戦争が始ってからの東京の騒ぎは非常であった。号外の鈴の音が絶えず街頭にひびきわたって聞えた。
 時には軍隊が軍歌を歌って勇しく列をつくって通って行った。
 銃剣が目に光った。
 かと思うと、捷報の号外で、街が目章旗で埋められるようなこともあった。絵草紙屋−−まだそういうものが沢山に残っていたが、そこには、松崎大尉戦死の状態だの、喇叭を口に当てて斃れた喇叭卒だのの石版画がこてこてと色彩強く並べて見られた。いろいろな軍歌なども出来た。
 青山からレールを大崎の方へ連絡させて、出発の軍隊は、皆なそこから立たせることになっていたので、夜の青山の原の光景は、悽愴の中に別離の悲哀をこめて、何とも言われない張りつめた感じを人々に与えた。
 何でもその頃は別々な方面に上陸する軍隊の輸送が始まったという噂で、都会の人々の心は皆な熱心な熱情と好奇心とに駆られて、ソワソワと落付かずに絶えず何物にか奪われたような形になっていた。成熟した人ですらそうである。まして私のわかい張り詰め心をや。
 私は遠い戦場を思った。故郷にわかれ、親にわかれ、妻子にわかれて、海を越えて、遠く外国に赴く人たちのことを思わずにはいられなかつた。また、さびしいひろい野に死屍になって横たわっている同胞を思わずにはいられなかった。私は戦争を思い、平和を思い、砲煙の白く炸裂する野山を思った。自分も行って見たいと思った。牙山の戦、京城仁川の占領、つづいて平壌のあの大きな戦争が戦われた。月の明るい夜に、十五夜の美しい夜に……。
 青山の原はすべて柵で囲われて内部は少しもわからなかった。しかし喧噪と混雑とは、軍隊の出発して行くさまを私に想像させるに十分だ。人の歩く音、馬のはねる響、汽車の機関車からは、黒い白い煙が絶えずあがって、昼のように明るい瓦斯燈の青白い光を掠めては消え、掠めては消えた。
 軍歌の声が遠くできこえる……。
 それは悲壮な声だ。人の腸を断たずには置かないような、または悲しく死に面して進んで行く人のために挽歌をうたっているような声だ。
 煙は絶えず瓦斯の光を掠めた。
 やがて汽車の動く音がする。ゴオという音、ゴトンゴトンと動く音、続いて、「万歳!」という声が夜陰を破ってきこえた。
 私は淋しい悲しい思いに包まれて家に掃って来た。
 これに限らず、すぺて−−都会も田舎もすべて興奮と感激と壮烈とで満されていた。万歳の声は其処此処できこえた。
 その年の秋、私は一簑笠、一草鞋で、浜街遺を水戸から仙台の方へと行った。どんな田舎でもどんな山の中でも、戦捷の日章旗の風に靡いていないところはないのを私は見た。人々は戦捷の祝だと言っては飲み、出発の別離だと言っては集って騒いだ。
 それに砲兵工廠の活躍した煤煙の光景は、今でも私の眼にちらついて見えた。勿論、その時は日露の戦役の時ほどではなかったけれど、それでもその水道橋、小石川橋の一区劃は、青い、黒い、白い煤煙で凄じく塗りつぶされてあるのを私は見遁さなかった。
  海ゆかば、水つく屍
  山行けば……
 そういう気が全国の民に一体に漲りわたっていた。
 維新の変遷、階級の打破、士族の零落、どうにもこうにも出来ないような沈滞した空気が長くつづいて、そこから湧き出したように漲りあがった日清の役の排外的気分は見事であった。戦争罪悪論などはまだその萌芽をも示さなかった。


 実は田山花袋は日露戦争に従軍してまして、『一兵卒』という作品もあります。ここから従軍兵士の心情描写の部分をあげておきましょう。


 軍隊生活の束縛ほど残酷なものはないと突然思った。と、今日は不思議にも平生の様に反抗とか犠牲とかいう念は起こらずに、恐怖の念が盛んに燃えた。出発の時、この身は国に捧げ君に捧げて遺憾がないと誓った。再びは帰ってくる気はないと、村の学校で雄々しい演説をした。当時は元気旺盛、身体壮健であった。で、そう言ってももちろん死ぬ気はなかった。心の底にははなばなしい凱旋を夢みていた。であるのに、今忽然起こったのは死に対する不安である。自分はとても生きて還ることはおぼつかないという気がはげしく胸を衝いた。この病、この脚気、たといこの病は治ったにしても戦場は大なる牢獄である。いかにもがいても焦ってもこの大なる牢獄から脱することはできぬ。得利寺で戦死した兵士がその以前かれに向かって
 「どうせ遁(のが)れられぬ穴だ。思い切りよく死ぬサ」と言ったことを思い出した。
 かれは疲労と病気と恐怖とに襲われて、いかにしてこの恐ろしい災厄を遁るべきかを考えた。脱走? それもいい、けれど捕えられた暁には、この上もない汚名をこうむったうえに同じく死! さればとて前進すれば必ず戦争の巷の人とならなければならぬ。戦争の巷に入れば死を覚悟しなければならぬ。かれは今始めて、病院を退院したことの愚をひしと胸に思い当たった。病院から後送されるようにすればよかった……と思った。
 もうだめだ、万事休す、遁れるに路がない。消極的の悲観が恐ろしい力でその胸を襲った。と、歩く勇気も何もなくなってしまった。とめどなく涙が流れた。神がこの世にいますなら、どうか救けてください、どうか遁路を教えてください。これからはどんな難儀もする! どんな善事もする! どんなことにも背かぬ。
 渠(かれ)はおいおい声を挙げて泣き出した。

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