船を沈めて防波堤を造れ!
敗戦直後の代替インフラ

沈船防波堤・軍艦防波堤
防波堤にするため沈められたタンカー(右)



 秋田港には、高さ143mの全面ガラス張りのタワー「セリオン」が立っています。展望台の高さは100mで、ここから港を一望できます。

 この港の入口には、かつて軍艦が3隻沈められていました。未完成の駆逐艦「栃」、練習用駆逐艦「竹」、海防艦「伊唐」です。「栃」は全長98m、「竹」は90m、「伊唐」は80m。この3隻による長さ268mの「軍艦防波堤」によって、秋田港は廃港の危機から抜け出すことができました。


秋田タワー・セリオン
秋田タワー


 かつて秋田港は、魚介類を積んだ大量の船が入港し、いつも賑わっていました。5月にはニシン、その後はイワシやらサバやら、多くの魚が水揚げされました。
 ところが、戦争で港が空襲(土崎空襲)され、主力の浚渫(しゅんせつ)船「第五開北丸」が破壊されると、事態は一変します。

 秋田港は、冬になると波で押し寄せる砂で航路が埋まってしまうため、春には砂を取り除く作業が必須でした。しかし、浚渫ができなくなり、もちろん物資不足で新たな浚渫船の建造も不可能。その上、国の予算は船の入港実績に応じて配分されることが決まり、まさに廃港の危機となったのです。

 そこで、軍艦を埋めて防波堤代わりにすることになりました。GHQと交渉の末、軍艦3隻の払い下げに成功。1948年夏、砂を満載した3隻は港に沈められ、防波堤が完成したのです。

 軍艦は1975年頃までにすべて撤去されましたが、この軍艦防波堤こそが、秋田の復興を支えたのです。


秋田港の軍艦防波堤
秋田港の軍艦防波堤


 実は、軍艦防波堤は全国で作られました。

 もっとも有名なのは、北九州市の洞海湾。響灘臨海工業団地の一角に、現在も駆逐艦「涼月」「冬月」「柳」の3隻が沈められています。「凉月」と「冬月」は1945年4月6日、戦艦「大和」の護衛のため沖縄に出撃した駆逐艦で、奇跡的に生き残りました。そして1948年、港に沈められたのです。
 
 全長770mのうち約400mが軍艦で、現在も形が残っているのは「柳」のみ。
 現地に行くと、軍艦の形がはっきりわかります。

軍艦防波堤
軍艦「柳」の形がはっきりわかる「軍艦防波堤」


 このほか、京都府の竹野港には「春風」、福島県の小名浜港には「澤風」「汐風」、八丈島の神湊港には「矢竹」などが沈められました。

軍艦防波堤
北九州の「軍艦防波堤」設計図


 それにしても、防波堤の代わりに船を沈めるというプロジェクトはどうやって始まったのか。

 日本初の計画は、敗戦から1年後の昭和21年秋にさかのぼります。舞台は青森県の八戸港。計画を進めたのは、運輸省港湾局です。

 敗戦後、日本の食糧難は深刻でした。そこで、まずは化学肥料(硫安)の増産が叫ばれます。原料は硫化鉱。そこで、八戸近郊にある松尾鉱山では、昭和21年度30万トン、昭和22年度40万トン、昭和23年度61万トンの大増産計画が打ち出されます。

 当時、八戸港の荷役能力は年間3000トン。これを増強するため、沈船による防波堤計画が案出されました。

 八戸港を管理する運輸省第2港湾建設部は、建設省土木研究所に水槽実験を依頼します。

 土木研究所は、幅4mの試験水槽に、長さ10m近い八戸港の模型を再現。そこに人工波を起こし、影響を地道に測定していきます。


沈船防波堤の実験
沈船防波堤の実験(以下、すべて『科学朝日』1948年10月号より)


 半年間におよぶ大規模実験の結果、既存の防波堤の端から220m沖に、138度の角度で450mの防波堤を築けばいいことが判明。

 通常の防波堤を築いた場合、工費6700万円、セメント6300トン、工期3年かかるところ、沈船にすれば、工費5000万円、セメント0トン、工期1年で済むことがわかりました。敗戦後の物資不足には最適な方法でした。

 この実験結果に適合する船として白羽の矢が立ったのが、長さ150mの「2TL型」大型油槽船。3隻沈めればちょうど450mになります。
 
「2TL型」というのは、戦時標準船として量産された1万トンタンカーのこと。「T」は油槽船(タンカー)、「L」は、最も大きいラージの意味です。GHQと交渉の末、「東城丸」「大杉丸」「富島丸」が選ばれました。

沈船防波堤「2TL型」
2TL型タンカー

 
 1947年6月から、横浜の三菱ドッグで油槽船の改良工事が始まります。
 油槽船には、高波でも流されないよう、1隻あたり1万1000トンもの砂を積ませる必要があります。そこで船内を砂積み用に細かく区切り、さらに、海上に出る面積を減らすため、船橋などの突起部分を取り外しました。
 砂積みは、川崎の日立造船所の沖合でおこなわれています。

沈船防波堤
沈船にするため工事中のタンカー


 1947年10月、まず「富島丸」が横浜港から曳航され、八戸港に向かいます。ところが、荒波のせいで、富島丸の船倉では砂と水が分離し、砂が一方に片寄る事態になりました。地震で地盤から泥水が噴き出す「液状化現象」が、なんと船内で起きたのです。船は8度半も傾き、沈没寸前にまで至ります。こうして、翌年春まで、横浜で排水作業が続けられることになりました。

 最初に沈められたのは「富島丸」で、1948年7月10日のことです。

 船を正確に沈めるため、海底には7個の巨大な錨が設置されていました。海底の錨と船上のウインチをワイヤーでつなぎ、ゆっくりと船体を安定させます。その後、船体のハッチを開き、海水を徐々に船内に送り込み、水平を保ちながら沈めていきました。
 15時半にハッチを開き、完全に船が沈んだのは19時でした。

 防波堤自体は1948年8月に完成しましたが、1カ月後に襲来した「アイオン台風」によって、甲板や外壁に巨大な亀裂が発生。補修工事が完全に終わったのは1950年3月のことでした。


完成した沈船堤防
完成した沈船堤防(干潮時に撮影したため船体が目立つ)


 この補修工事を受け、八戸港は1951年に国の重要港湾に指定され、八戸の復興を支えます。
 八戸港の軍艦が撤去されたのは、それから17年後。まず1968年に「東城丸」が撤去され、1985年、「大杉丸」と「富島丸」が撤去され、新たな防波堤が築かれました。 

八戸港の沈船防波堤
3隻の沈船による防波堤
 

制作:2016年4月28日


<おまけ>
 土木研究所が再現した八戸港の模型は、平面の縮尺が600分の1に対し、高さは100分の1でした。なぜ同率でないかというと、もし高さも600分の1にすると、水深が小さすぎ、波の状態が観察しにくいからです。
 結局、実験結果を解析する際、縮尺の差を解消するために複雑な計算が必要となり、これが非常に大変だったとされています。
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