国産「化学肥料」のはじまり
あるいは「旭化成」と「昭和電工」の誕生

「大日本人造肥料」の過燐酸
「大日本人造肥料」の過燐酸


 日露戦争が始まると、巨額の戦費をまかなうため、日銀副総裁の高橋是清はロンドンで国債販売に走り回りました。
 ちょうど同じ頃のドイツには、電球メーカーの依頼で、社債販売に汗をかく男がいました。野口遵(のぐちしたがう)という人物です。

 小さな会社の社債を買う酔狂な人物はなかなか見つからず、販売は難航しますが、日本海海戦の大勝利が伝わると、あっという間に話がまとまりました。野口は意気揚々と帰国しますが、「もう社債は完売した」と言われ、話はご破算に。

 野口は、1万円ほどの慰労金をもらい、新橋でヤケ酒を飲んでいると、となりでどんちゃん騒ぎをやっています。宴会の主は、鹿児島県の代議士と鹿児島にある牛尾金山の持ち主でした。
 一行は意気投合し、いつしか水力発電で金山の開発を進めようという話がまとまります。

日本窒素の曽木発電所
日本窒素の曽木発電所


 こうして1906年、曽木電気という発電会社が誕生します。
 3つの金山に送電しても電気は大幅に余ったため、野口は余剰電力を使ってカーバイド工場を作りました。
 
 カーバイドとは炭化カルシウムのことで、水と反応させるとアセチレンガスが発生します。これが夜店で使うアセチレンランプの燃料となります。
 野口は東大で電気を学び、その後、仙台で日本初のカーバイド事業を興していました。そして、そのカーバイドは日露戦争の塹壕戦で大量に使われることになり、価格が高騰、野口は大儲けしていたのです。

揖斐川電気(イビデン)のカーバイド工場の電気炉
揖斐川電気(イビデン)のカーバイド工場の電気炉

 
 野口は、発電所から近い沿岸部の水俣にカーバイド工場を設立しました。
 カーバイドは、生石灰と石炭を高温で焼いて製造しますが、その際、膨大な電気を消費します。自家発電できないと参入は困難で、つまり、競合が少ないのがビジネス上の大きな利点でした。

 ちょうどその頃、ドイツでカーバイドを原料に、空気中の窒素を固着させる技術(フランク・カロー法)が開発されました。これが「石灰窒素」で、平時は肥料になり、戦時は火薬になるという優れものでした。
 1908年、野口はドイツに渡り、特許権の交渉をします。このとき、三井財閥も古河財閥も交渉に来ていましたが、野口は「三井は確かにカネがある。でも三井がやるんだったら発電所から作らないといけないんだぜ」と言って、特許の獲得に成功します。

 特許権は獲得できましたが、三井の資本が入るという条件付きでした。そこで、帰国後、三井家に交渉に行きますが、資本比率で意見が合わず決裂。やむをえず三菱と交渉し、資本が半々ということで決着します。
 こうして、1908年8月、水俣に日本窒素肥料が設立されました。もちろん、この会社が後に水俣病を引き起こすチッソです。

日本窒素の水俣工場
日本窒素の水俣工場(1908年)


 石灰窒素は農薬にも肥料にもなりますが、毒性が強く、植物にそのまま与えると枯死してしまいます。そのため、使いやすいよう、「硫安」に変成する必要がありました。
 硫安(硫酸アンモニウム)は、1896年、初めてオーストラリアから輸入されました。その後、輸入量は増えますが、国内ではガス会社が副産物として製造する程度で、なかなか量産できません。しかし、これも1914年、野口が初めて大量生産に成功するのです。

 そして、第1次世界大戦で肥料の輸入が止まったことで、1916年に1トン200円以下だった硫安は、1917年に360円、1918年に410円と高騰し、野口は再び戦争で大儲け。
 しかし、戦争終結で価格は暴落し、会社は危機に瀕します。

日本窒素の石灰窒素炉
日本窒素の石灰窒素炉


 野口遵は、フランク・カロー法の特許が切れることから、交渉のため3度目の訪欧をします。このとき、新しいアンモニア合成法を研究しているイタリア人のカザレーと出会います。
 カザレーの技術は、石灰窒素からアンモニアを作るのではなく、750気圧という高圧下でアンモニアを直接合成するものです(カザレー法)。野口は宮崎県の延岡に工場を作り、1923年、工業化に成功します。
 
 野口は、ヨーロッパで、もうひとつ別の技術も手に入れてきました。それが合成繊維ベンベルグです。ベンベルグは繊維が強く、手触りがいいため、ほかの人絹に勝る品質でしたが、アンモニア製造が難しかったことで普及しませんでした。しかし、野口のアンモニア合成の成功で、量産化が実現するのです。

ベンベルグ絹糸
ベンベルグ絹糸


 その後、延岡工場はベンベルグやレーヨンなど繊維生産に力を入れていきます。
 1943年、旭ベンベルグ絹絲は、ダイナマイトを製造していた日本窒素火薬と合併し、「日窒化学工業」と改称します。戦後、この会社が旭化成となりました。
 こうして野口は、電気を膨大に使う化学産業で、圧倒的な勝利を収めたのです。


旭ベンベルグ絹絲の薬品工場(延岡)
旭ベンベルグ絹絲の薬品工場(延岡)


 さて、ここで、化学肥料について簡単にまとめておきます。

 肥料の3要素は、窒素、リン酸、カリウムですが、日本ではカリウムが取れず、これは長らく輸入頼みでした。
 また、リン酸は、高峰譲吉が1884年にアメリカからリン鉱石を持ち帰ったのが最初。これをきっかけに、1887年、渋沢栄一、益田孝、大倉喜八郎など財界の大物が集まって東京人造肥料を設立。後に、大日本人造肥料と改称し、それ以来、この会社が圧倒的な地位に君臨していました。大日本人造肥料は、現在の日産化学工業(旧日産コンツェルン)です。

 結局、国内の肥料産業としては、窒素をどうするか、というテーマがずっとあったわけです。

 野口遵のライバルとしてあげられるのが、森矗昶(もりのぶてる)。
 森の会社は、海藻のカジメからヨードを製造していましたが、第1次世界大戦終結後、東信電気に吸収合併されます。この東信電気は、東京電燈(現在の東京電力)と組んで、余剰電力を使った硫安製造に乗り出します。これが昭和肥料で、現在の昭和電工となりました。

昭和肥料の硫安工場
昭和肥料の硫安工場(川崎、1930年)

 
 なお、アンモニアの合成は、旭化成(1923年)を皮切りに、三井化学(1924年)、日産化学(1928年)、住友化学(1931年)、昭和電工(1931年)、東亞合成化学(1933年)、三菱化学(1937年)と続いていきます。いずれも違う合成法で、日本の化学産業の裾野の広さがうかがえます。

 ちなみに、昭和電工の製造方法は、東京工業試験所が開発した国産技術によるもので、これが「日本初の国家プロジェクト」とされています。
 そして、三菱化学が採用したハーバー・ボッシュ法の開発元であるドイツのBASFは、現在、世界最大の総合化学メーカーとなっています。

 さて、野口遵は、日本で肥料産業を完成させると、次に朝鮮半島に進出します。
 しかし、朝鮮半島は水力発電には適さない大地でした。西側は平坦で、河の傾斜はゆるやか。一方、東側は大山脈があるものの、急峻すぎていきなり水が海に落ちてしまう。しかも、降水量が少なく、特に夏以外はほとんど雨が降らないからです。

 唯一、適地として見つかったのが、現在の北朝鮮の興南エリアで、赴戦江をせき止め、その水による発電で肥料製造を目指したのです。
 1931年、朝鮮肥料が設立。1935年には、平壌への送電が始まります。

朝鮮・興南工場
建設中の朝鮮・興南工場


 実は、肥料と火薬はかなり製造工程が近く、野口は朝鮮でも火薬製造に乗り出します。
 ダイナマイトの主原料は硫酸、硝酸、グリセリンですが、硫酸と硝酸は日本の延岡工場と朝鮮の興南工場で製造できました。また、朝鮮半島北部はイワシの漁獲量が多く、これが硬化油となってグリセリンに変わりました。
 港には、アメリカ産の大量の硝石を運ぶ運搬船が、いつも横付けされていました。

 化学産業は、豊富な電気さえあれば、次々に事業を拡大していけます。たとえば、石炭→コークス→メタノール→ホルマリン→人造樹脂……といった具合です。
 野口は、金属精錬、水銀製造、合成宝石にまで事業を拡大し、日本と朝鮮にまたがる巨大な「日窒コンツェルン」を完成させます。
 その「何でも屋」ぶりを本人がこう語っています。

《アミノ酸・醤油等の調味料、窒素石鹸、バター、扇風機、筆箱等の学用品、ラジオ機械、不燃性フィルム、靴べらから下駄の鼻緒まで作っている。こんなふうであるから、「野口の通った跡には、ペンペン草も生えない」と悪口を云っていると聞くが、これは1つの木に沢山の枝が生ずる様に、1つの本(もと)からいろいろな工業が、つぎつぎに生れるのである。何(いず)れもそれぞれ有機的な関係をもち、甲の事業の生産の副産物は、乙の会社の原料となり、乙の事業は又(また)丙の事業と切っても切れぬ関係にあるといった工合(ぐあい)になっているのだ》(『今日を築くまで』)

 野口は、コンツェルン確立後の1940年、ソウルで脳溢血に倒れます。1941年の正月には「三十年の夢からさめて初日の出」と詠み、1944年に死去しました。

 日窒は、満州と朝鮮の国境で、巨大な水豊ダムの建設もおこなっていましたが、完成前に終戦となりました。終戦により、朝鮮および東南アジア各地で行っていた事業すべてを喪失し(一説には全資産の8割)、コンツェルンは崩壊。
 戦後の財閥解体の中で日本窒素肥料は解散し、水俣工場がチッソ、延岡工場が旭化成、新潟工場が信越化学工業、そしてプラスチック事業が積水化学になりました。

日本窒素の水俣工場
拡大した日本窒素の水俣工場(1937年)


 水豊ダムの水車発電システムは東芝製で、当時で世界最大。その巨大なダムは、現在も北朝鮮の主力エネルギー源となっており、朝鮮半島の戦後は、日窒コンツェルンの遺産で発展したと言えるのです。

窒素の領土
万能元素の窒素(クリックで拡大)

制作:2015年11月9日

 
<おまけ>
 昭和電工の元になった昭和肥料は、もともと調味料メーカー「味の素」傘下でした。
 味の素は、当初、小麦粉に塩酸を作用させて(加水分解)グルタミン酸を生産していましたが、これはコストが高いのが難点でした。そこで、日本窒素は大豆から製造する技術を確立します。これが「旭味」「ミタス」という化学調味料です。
 肥料のライバルは、調味料のライバル同士でもあったのです。
 そして、皮肉にも戦後、野口遵のチッソは水俣病、森矗昶の昭和電工は第二水俣病という公害病を引き起こすのでした。

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