幻の東京湾「埋立」計画
核爆弾で千葉の山を吹っ飛ばせ!

海ほたるを空撮
海ほたるを空撮


 羽田空港を飛び立って南に向かうと、すぐに不思議な三角形の建物が見えてきます。これは東京湾横断道路「アクアライン」の海底トンネル入口「浮島換気所」です。

浮島換気所
浮島換気所(中央が羽田空港、下の地図1)


 また、もっと千葉寄りを飛ぶ場合は、アクアラインの海上橋が見える場合が多いです。このように、アクアラインは川崎(神奈川県)側がトンネル、木更津(千葉県)側が橋になっています。トンネルと橋梁の接続部は木更津人工島、通称「海ほたる」と呼ばれていて(下の地図3)、休憩施設が設置されているため、観光地として有名です。

アクアラインの海上橋
アクアラインの海上橋(下の地図4)

アクアライン断面図
アクアライン断面図


 一方、東京湾、神奈川県川崎市の沖合約5キロの海上には、不思議な人工島が存在しています。まるでヨットの帆のような、青と白のストライプの2つの塔。平山郁夫と澄川喜一がデザインに関わった川崎人工島、通称「風の塔」です。
 これは、東京湾の中央部を横断する「アクアライン」の排ガス換気口です。

風の塔
風の塔(上の地図2)


 海ほたると異なり、この「風の塔」には、通常、立ち入ることができません。一体この島はどうなっているのか。
「風の塔」は直径195mの人工島で、90mの大塔はトンネルへの外気送気、75mの小塔はトンネルからの排気を担っています。2本の塔の間を風が抜けることで、効率的な換気ができる仕組みです。

 トンネル工事をする際、この人工島が掘削用のシールドマシンの発進基地となりました。そのため、深さ119m、厚さ2.8mという大規模な地中連続壁となっています。塔の高さは法律で決まっているだけで、換気自体にこの高さは必要ありません。よって、塔の内部は鉄骨が組んであるだけです。

風の塔の内部
風の塔の内部


 このあたりの地盤は「東京湾マヨネーズ」といわれるほど軟弱な地盤だったため、SCP工法という地盤改良工事を進めつつ、海底を掘削していきました。島の底から海水が沸き出て、いったんは水没するようなこともあった難工事でした。

 さて、この東京湾横断道路は、1966年に建設省(当時)が調査を開始し、1987年に事業認可、1997年に開通しました。しかし、計画自体は、それ以前に民間シンクタンクによって発表されています。その計画とは、単に東京湾を橋で結ぶのではなく、東京湾全体を土砂で埋め尽くし、広大な陸地を作り出す大プロジェクトの一環でした。

 今回は、知られざる「東京湾大開発」の歴史を振り返ります。

■東京港の築港

 いまでこそ海運の大動脈となった東京港ですが、政府はなかなか東京港の建造ができませんでした。それは近隣に横浜港があったからです。
 ペリー来航によって、横浜が開港したのが1859年(安政6年)。開港後、到着した物資の3分の2は東京に送られており、効率を考えれば、どう考えても東京港の設置が必要でした。

開港直後の横浜
開港直後の横浜


 しかし、東京湾は隅田川からの膨大な土砂が流れ込み、常に浚渫が必要です。水深が浅いため、大型船を入港させるには莫大な工事予算が必要でした。
 
 1872年(明治5年)、東京と横浜が鉄道で結ばれ、輸送力が向上します。その一方、入荷量は増え続け、横浜港はパンク寸前となり、繰り返し増強計画が練られます。

明治5年の横浜港増強計画
明治5年の横浜港増強計画(国立公文書館)


 1880年(明治13年)、ようやく日本初の東京築港計画が立ち上がります。
 最初の計画は「隅田川河口」案と「品川沖」案の2つでした。隅田川河口案は、開港後も定期的な浚渫のコストがかかるデメリットがありました。一方、品川沖には江戸時代以来の台場が複数残っていて、工事はしやすかったものの、当時の市場である日本橋から遠いことがデメリットでした。 

品川から眺めるお台場
品川から眺めるお台場(1930年頃)


 翌年、お雇い外国人のムルドルは、河口の一部をふさぎ、水量を確保したうえで、水深の深い大きな池を沖合に作るという斬新な計画を発表します。
 しかし、予算難や横浜港の反対運動などさまざまな要因により、築港計画は進みません。

ムルドルの東京港建造計画
ムルドルの東京港建造計画(『東京市史稿 港湾篇4』)


 1888年(明治21年)、下関事件の賠償金がアメリカから返還されることになりました。大隈重信外相は、この金を使って「横浜港の大増築」をするよう、伊藤博文首相に提案します。当時、横浜港は生糸の輸出により巨額の外貨を稼いでおり、アメリカの恩義に応えるためにも、横浜整備を推したのです。もちろん、生糸貿易にアメリカは大きな利権を持っています。

 東京港の築港計画はいっこうに進まず、横浜港ばかり改築されていくなかで、東京港の築港に熱心だったのが星亨です。星の政治力で、1901年(明治34年)、ついに政府は東京港の建造を承認します。しかし、その直後、星亨は暗殺され、再び計画は停滞します。

東京湾築港を承認
東京湾築港を承認(国立公文書館)


 1923年(大正12年)、関東大震災が起き、再び東京港の重要性に注目が集まり、ようやく築港の議論が本格化します。結局、東京港が開港するのは1941年(昭和16年)のことでした。

1925年の京浜運河開削計画
1925年の京浜運河開削計画(『東京市史稿 港湾篇5』)

1931年の東京湾予想模型
1931年の東京湾予想模型

■「京浜の父」浅野総一郎

 1908年、セメントが主力の浅野財閥の創始者・浅野総一郎が、川崎(鶴見川と多摩川の河口に挟まれた部分)の海約150万坪(500万平米)を埋め立てる壮大なプロジェクト計画を神奈川県に提出します。浅野はこの場所に、一大工業地帯を作る計画でした。

 大ぼら吹きと言われつつ、5年後に認可がおりました。浅野は安田財閥の安田善次郎とともに、「東京湾埋立会社」を設立。まず1万トンの大型船が通れる運河を掘り、その土砂を使って陸地を造成しました。1913年(大正2年)から工事を開始し、1928年(昭和3年)、全計画が終了。1926年には鶴見臨港鉄道(現JR鶴見線)も開通しており、京浜工業地帯の基礎が作られました。

鶴見沖の埋め立て
鶴見沖の埋め立て(中央が鶴見臨港鉄道)

 ちなみに、埋立地内の安善町や浅野町、鶴見線の駅名「安善」「浅野」などは、言うまでもなく浅野と安田の名前から来ています。

 それにしても、なぜ浅野は東京湾埋立計画を思いついたのか。それは1896年(明治29年)から翌年まで行われた欧米視察の影響でした。欧米各地で巨大な船が横付けする港湾開発の発展ぶりを目の当たりにしたのです。そのときの衝撃を本人が語っています。

《「ゲーリック」という船に乗ってホノルルに行くと、大きな船がずっと入っていく。汽車が来て、……艀なんてない、日本はその当時艀がなければ荷物も人間も乗れないものだった。
 ビクトリアというところに着いて桟橋へ上って見た。それからずっとバンクーバーに行った。日本みたいに艀に乗るところは一つもない。そうして3里ばかりあるところの公園に行こうというのでずっと行くと、実に大きな野原だが、その中に将棋の盤のように道路がついて、その角々に鉄の3尺程あるものが2本ずつ出ている。あれは何だといったところが、一つはガス、一つは水這だ、ここにいつ小屋掛けしても何でもすぐ炊ける、それが100万 坪の野原だ。なるほどこれでこそ開けるんだと思った》(浅野総一郎『父の抱負』より)


 浅野は鶴見だけでなく、小倉や尼崎なども次々と埋め立てし、港湾を整備していきました。

■産業計画会議の2億坪埋立計画

 1959年、松永安左エ門(やすざえもん)が主宰した民間シンクタンク「産業計画会議」が、「東京湾2億坪埋め立て」を発表します。

 松永は東邦電力(現・中部電力)社長などを歴任し、現在の9電力体制を築いた「電力の鬼」とよばれた人物です。当時の東京都の人口は約900万人。以降、年間約30万人ずつ増加したとして、工場用地や住宅地の不足が喫緊の課題とされていました。問題の解決策としてぶち上げたのが、東京湾の3分の2を埋め立てる計画でした。

《さいわい、東京には、10億平方メートル(3億坪)の海域を有し、近代的な巨大な船舶の出入にも便利な良港の建設に適し、しかも遠浅で経済的に 埋立地を造成し得る東京湾がある。
 われわれの調査によれば、東京湾には約6億6000万平方メートル(2億坪)の埋立地が経済的に造成できる。そして10万トンの巨船を自由に出 入させる良港を建設し得る。
 われわれの計画によれば、アジア経済の中心として発展すべき日本の工業の支柱となる「東京」の工場敷地問題も、拡大する東京の住宅問題も交通問題も、東京湾の大規模な建立によって解決し得る》(『東京湾2億坪の埋め立てについての勧告』)


 埋立によってできた新たな大都市は「ネオ・トウキョウ」と名付けられました。東京湾の中央には大空港が作られ、湾岸部とは道路や高速鉄道で結ばれます。巨大な水路によって、東京、横浜、千葉は国際貿易港となります。レクリエーション施設や広大な緑地帯の設置も検討されており、完全な人口都市が誕生するはずでした。


「ネオ・トウキョウ」計画
「ネオ・トウキョウ」計画


 この産業計画会議の責任者は、日本住宅公団の初代総裁で、後に千葉県知事になった加納久朗(ひさあきら)です。加納は、私案として1959年に『新しい首都建設』を刊行しています。
 
 その壮大すぎる計画では、千葉県の山を核爆発で吹っ飛ばして、その土砂を使うとしています。唖然とする大プロジェクトの詳細を以下にまとめておきます。

加納久朗の「ヤマト」計画
加納久朗の「ヤマト」計画1

加納久朗の「ヤマト」計画2
加納久朗の「ヤマト」計画2


(1)東京・晴海埠頭から千葉・富津岬まで直線を引き、その千葉側全部を埋め立てる。羽田までは東京側もすべて埋め立てる。土砂は千葉県の鹿野山、鋸山を地下核爆発で吹っ飛ばして使う
(2)埋め立てに際し、巨大水路は残しておき、千葉港は国際港にする。埋立地は「ヤマト」と名付ける
(3)ヤマトを住宅ベルト、工業ベルト、森林ベルトなどに縦割りする
(4)都市部には、まず司法・行政・立法府を集約させる。住宅エリアには皇居も置く
(5)山を削った千葉の土地には新たな農業地帯を作る
(6)房総半島の山を崩せば太平洋からの空気が東京に抜けるようになり、冬は暖かく夏は涼しくなる


加納久朗の「ヤマト」計画
加納久朗の「ヤマト」計画3


 なぜ千葉の山を使うのかというと、《鹿野山や鋸山の岩石はサンド・ストーンだから、地上で日光に触れるところではもろいが、水のなかに入れてお くと非常に強い。だから埋立用には最も適している》(『新しい首都建設』)とし、核爆発の被害については、《放射能は地下爆発の場合、すべて岩と土砂が吸収してしまうから、人体への害にはならない。したがって、鋸山の爆破にこれを利用することは可能であり、合理的である》としています。

鋸山
鋸山


 産業計画会議は、1961年、東京湾の高潮対策、交通対策といった観点から、巨大な埋め立てをしない川崎—木更津の長大な横断堤を築くという勧告をしています。
 
《川崎・木更津の横断堤を提唱するのは、東京湾計画を発表した直後に伊勢湾台風が襲い、名古屋地方に大きな被害があり、東京湾埋立は大きな台風のとき果して大丈夫だろうかという疑問を生じたからである。
 われわれは直ちに気象庁の寺田博士に、「もし、伊勢湾台風が東京に来たらどうなるか」と質問した。その答は、「高潮は1キロ1キロ海を渡るにつれて、湾の奥にいくほど高くなるのが原則である」とのことで、われわれは防潮堤をどの辺に築けばどうなるかの計算をお願いした。その結果(中略)、中央の川崎・木更津間に横断堤を作れば大いに効果が上る。平均して1メートル以上も高潮を抑える、場所によっては1メートル半も高潮か低くなることを、電子計算機は教えてくれたのである》(『東京湾に横断堤を』)


 まさにアクアラインの原型がここにあるのです。

『東京湾に横断堤を』
『東京湾に横断堤を』(電力中央研究所のサイトより)


■「東京計画1960」以降

 一方、東大建築学科の丹下健三は、1961年の正月、テレビで『東京計画1960』を発表します。こちらも東京湾を潰して、土地を拡大させるものです。

 丹下は「都心」という考えを捨て「都市軸」という新たな考えを提示しました。この都市軸は、都心とインターチェンジで結んだ上、東京湾の海上に直線的に延ばしていくのです。

《現在の都心の諸機能は、その上にサイクル・トランスポーテーション(鎖状交通体系)の環を建設することによって、この都市軸の一環となります。
 まず市ヶ谷—東京環、東京—築地環、築地—晴海環を建設します。インターチェンジの場所としては、市ヶ谷の濠、東京駅の操車場上部、月島海上を利用します。それらの環は、インターチェンジのところで地表に接触するが、他の部分では、地上40メートルまた海上50メートルの高さを走っている吊り橋—サスペンション・ブリッジ—の形式をもっているので、市街地では建物の上空を走ることになります。1キロメートル間隔にたつ支柱の土地を確保すれば、その建設が可能です。》(丹下健三『建築と都市』より)


「東京計画1960」
東京計画1960(『建築と都市』より)


 しかし、こうした東京湾埋立計画には、いまでは当たり前の環境保全の考えは含まれていません。
 1987年、丹下の弟子であった黒川紀章が、環境保全を含めた『環状都市東京計画2025』を公表します。黒川は、その思いを以下のように語っています。

《東京の失敗は運河をつぶしたことにあると思います。もうひとつは埋め立てを浅いところからやったことがよくなかった。なぜかというと生態系の密度が一番濃いところは岸辺だからです。もし必要なら真ん中に島をつくればいいというのが「環状都市東京計画2025」の提案です。きっかけは東京湾を湾奥まで鯛がくるようにしたい。江戸前の鯛で寿司が食えるようにしたいというのが僕ら2025研究会のスタートだったんです》(『Future Visionの系譜』より)


環状都市東京計画2025
環状都市東京計画2025(『Future Visionの系譜』より)


 東京湾開発計画は、その後も次々に登場します。特にバブル時代はすさまじく、ゼネコンの大規模な夢物語が多数登場しました。

 有名なところでは、大林組が発表した「エアロポリス2001」(1989年)や大成建設が発表した「X-Seed 4000」(1990年)があります。「X-Seed 4000」は高さ4000m(800階建て)、直径6500mの富士山状の建造物を東京湾に作り、未来都市を新造するものです。こちらはほとんど夢物語ですが、「エアロポリス2001」は、もう少し実現可能性が考慮されていました。

「エアロポリス2001」は、東京湾の浦安沖約10kmの海上に高さ2001m、500階建てのビルを建造するもの。

《これは東京の既存の都市集積をそのまま利用しつつ、同時にパシフィック・エリアの首都ともなる新しいシンボルの誕生をめざしたからである。したがって、建物内のオフィス・スペースには、国連施設、多国籍企業、国際研究機関など、世界各国の機関や企業が入り、国際都市を形成している。また、わが国の行政機関をエアロポリスに移転し、遷都の効果を持たせる可能性も考慮した》(『季刊大林』No.30「空中都市」)


 高さが2001mもあることで、有効床面積は1100万平方メートルという、千代田区に匹敵する空間が生まれます。当時、日本で一番高かったサンシャイン60の延床面積が約25万平方メートルだったことを思えば、驚異的な広さです。
 ちなみに、ビル内の移動はリニアモーターによるエレベーターを想定していました。

 しかし、いずれの計画も実現することはなく、アクアラインだけがその夢の跡として残されたのです。


エアロポリス2001
エアロポリス2001

制作:2017年12月19日

<おまけ>
 産業計画会議は、水不足を解消するため、利根川上流に高さ125メートルの沼田ダムを建設することも勧告しました。貯水量8億トン。国内最大の奥只見ダムが6億トンなので、その巨大さがわかります。
 しかし、このダムも結局は幻となってしまいました。

海ほたるシールドマシン
海ほたるに残された巨大なシールドマシン(右下は富士山)

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