「雁」の文化史
日本に飛来する7種類をコンプリート

朝焼けの中を飛び立つ雁
朝焼けの中を飛び立つ雁


 1874年(明治7年)に刊行された瓜生政和の『耶麻登道知辺 東京の部』(大和道しるべ東京の部)には、当時の東京に数多くの鳥がいたことが記録されています。たとえば、ホトトギスは忍が岡、駿河台、小石川初音の里、高田、染井で、キジは王子、西ヶ原、雑司ヶ谷、駒場が名所だとされています。そして、雁(がん/かり)の名所は「隅田関屋の里」「深川洲崎」「吉原の田んぼ」の3カ所。かつて、東京には数多くの雁がやってきたのです。

真雁(まがん)
真雁(まがん)


 なぜこんなに鳥がいたのかというと、江戸城から5里以内で鉄砲を撃つのが禁じられていたからです。
 1872年、東京に来たウィリアム・グリフィスは、冬、江戸城のお堀には数千羽の水鳥、鴨、雁、こうのとり、鶯がいたと記録しています。(『明治日本体験記』)

 ちなみに、1909年(明治42年)に刊行された高安月郊の『高安の里』でも、東京大学そばの西片町にあったシイの木に、

《鶯は2月の末から来て、庭の梅から隣に移り、向うへ飛び、遠くへ行くまで聞えた。杜鵑(ホトトギス)は昼も来て、一声ばかりか幾声、ひぐらしは暮より早く涼しさを流して夜にも入った。雁は(上野の)不忍(池)へ行く通路にした》

 とあって、当たり前のように雁が飛んできたことが書かれています。

日本一高い切手「月に雁」
日本一高い切手「月に雁」


 雁は寝床に入ると、一斉に鳴くため、夜の不忍池は、相当うるさかったのではないかと思われます。こうした「雁が音(かりがね)」を詠んだ歌としては、良寛あたりが有名です。

「雪の夜にねざめて聞けば雁がねも天つみ空をなづみつつゆく」
「ひさかたの雲居をわたる雁が音も羽白妙に雪や降るらむ」



ねぐらに入る雁(宮城県毛女沼)


 雁は、本来、警戒心が強く、人間が100mも近づくと、一斉に飛び立ってしまいます。
 1083年に起きた「後三年の役」では、源義家が、上空で飛ぶ雁の群れが乱れたことを見て、伏兵に気づくという有名なエピソードがあるくらいです。

菱食(ヒシクイ)
オレンジ色の嘴と足が特徴の菱食(ヒシクイ)

 
 しかし、あまりに大量にいることから、意外に簡単に捕獲できたという話も伝わっています。
 1880年(明治13年)が舞台の森鴎外の小説『雁』(がん)は、不忍池で、たまたま投げた石が雁に当たって死んでしまう、という小説です。

 これは都会の話ですが、18世紀後半、東北地方を旅した菅江真澄は、岩手県では「雁形」を作ることで、簡単に雁が捕れた時代があったと書いています。「雁形」は、もともと「鶴形」から始まりました。

《遠方の田の面の雪の中にたくさんたてならべてある鶴形は、実際に鶴が餌をあさる姿にみえる。真鶴、黒鶴などの餌をはみ、首を立てたところなどは、みな生きたもののようである。これは去年の秋、稲刈がおえるとすぐ立てた鶴形である。この鶴形の始めは、いつの世であったか、及川某という武士が造りはじめたといわれている。その子孫は今なおおり、及川の家で刻み彩って造ったものはあまり上手でないようであるが、それをみてほんとうの鶴がよく舞いおりてくるという。いっぽう、工作の巧みな人が心をこめて造っても、人間はその技巧に驚かされるが、鶴の目には、いっこうにそれをよしと思わないのであろうか、みむきもしない。及川の家の鶴形には今でもよく鶴が群れ下りるという。(中略)
 秋は鶴形がたいへん多く、今は鵠(くぐい=白鳥)形、鴨形、雁形などまで作りだされて、鳥のほうもめずらしく感じなくなり、また見て驚きあきれたのか、むかしのようには降りてこなくなったと語った》(『菅江真澄遊覧記』)


 捕まえた野鳥は、当たり前ですが、食べられました。日本は長く肉食禁止でしたが、鳥は「薬」だとして、見逃されてきたのです。
 いったい、雁はどんな味がするのか。

菱食(ヒシクイ)の飛翔
ヒシクイの飛翔


 江戸時代、幕府専用の雁の狩猟地で、その年初めて捕獲された雁は「初雁」といい、珍重されました。肉はまず宮中に献上。その後、位に応じて配分され、各藩は大饗宴を開催しました。
 1861年(文久元年)、徳川慶喜は幕政改革のため、一切の献上物を廃止します。しかし、初雁や初ヒシクイ、初鮭などは例外とされました。それだけ、珍重された証拠です。

オオヒシクイ
白鳥のようなシルエットのオオヒシクイ


 その雁の味を記録した文献が『本朝食鑑』です。以下、雁の部より引用します。

《白いものは味が薄く、脂も少なくてよい。また蒼いものは味が厚く、脂も多くてよい。雁金は肉は軟らかく脂が少なくて美味ではない。これは新雛でまだ成長していないためである。
 たいてい、秋に来る雁は肉が痩せ、脂はすくない。冬・春になれば、体は肥え、味もはなはだよくなる》


オオヒシクイの飛翔
恐竜が飛んでいるようなオオヒシクイの飛翔


 雁の肉は、中国では「6月、7月に食べると神経を痛める」とされますが、日本にはこの時期に生肉は少なく、あるとすれば塩漬けなので、特に神経を痛めることはありません。

 肉を食べれば「諸風(もろもろの風毒)や麻痺を治し、腎を補い、胃を益する」とされました。
 脂を食べ続ければ「気を益し、飢えず、身を軽くし、老に耐える。毛を伸ばし、毒を殺し、聾を治し、疲れを補う」とされ、腸は「虚痢、久洩」に効果がありました。胃は生臭く食べられず、尾の肉も臭みがあっておいしくないけれど、それ以外の内臓は食べられました。

 ちなみに、『本朝食鑑』によれば、「イワシの頭は雁の味(と同じようにおいしい)」という諺があるそうで、雁の肉が美味だったことがわかります。



朝焼けの中を飛び立つ大量の雁(宮城県蕪栗沼)


 雁は、言うまでもなく渡り鳥です。渡り鳥には、以下のような種類があります。

●春から夏にかけ日本で過ごし、秋になると南下するツバメのような「夏鳥」
●シベリアで繁殖し、秋になると日本に渡来するガンのような「冬鳥」
●シベリアで繁殖し、冬を東南アジアやオーストラリアで過ごし、春と秋に日本に立ち寄る「旅鳥」
(近距離だが繁殖地と越冬地が異なるのを「漂鳥」、1カ所に滞在するのを「留鳥」といいます)

白雁(ハクガン)
白雁(ハクガン)


 冬鳥は75種以上いますが、現在、日本に飛来する雁は7種類とされています。マガン、カリガネ、シジュウカラガン、ヒシクイ、オオヒシクイ、ハクガン、コクガンです(かつてはサカツラガンなどもいたので9種類とされた)。
 ちなみに、『本朝食鑑』には4種類書かれています。

白雁(ハクガン)の飛翔
ハクガンの飛翔

《蒼黒で、腹には黒斑があり、くちばし・脚の黄いろいものは真雁(まがん)という。
 全体が蒼黒で、腹に黒斑がなく、白いのは腹白(はらじろ)という。
 全体が蒼黒で、額が白く、眼辺(めのふち)の黄いろいものは雁金(かりがね)という。
 全体が白く、つばさ・羽が黒く、くちばし・脚の紅いものは白雁である》


 腹白というのは何を指すのか不明ですが、ヒシクイかもしれません。

カリガネ
目が黄色いカリガネ


 美味だった雁は、猟銃で撃たれまくり、また湖沼が大規模に開発されたことで、1970年代初頭には全国で数千羽まで減少しました。その後、1971年に天然記念物に指定されたことで、日本では一切食べられなくなりました。
 そこで、本サイトでは、この7種類コンプリートの旅に出ることにしました。実は、飛来する雁は8割方、宮城県だとされています。そんなわけで、いざ、宮城県へ!

黒雁(コクガン)
黒雁(コクガン)

黒雁(コクガン)の飛翔
コクガンの飛翔


 カリガネやヒシクイは絶滅危惧種ですが、特に危険なのがシジュウカラガンです。シジュウカラガンは、一時、絶滅したと考えられていました。かつて、千島列島からアリューシャン列島にかけて広く繁殖し、冬には東北各地で見られましたが、毛皮生産のため、繁殖地に大量のキツネが放たれ、1938年から25年ほど観察記録が途絶えたのです。

シジュウカラガン
首筋が白いシジュウカラガン


 しかし、1963年、アリューシャン列島で奇跡的に発見され、そこから国際的な保護活動が進みました。天敵のいない千島列島北部のエカルマ島への放鳥が繰り返され、ようやく回復してきたのです。2015年には、宮城県内で2100羽以上が確認されました。

シジュウカラガンの飛翔
シジュウカラガンの飛翔


 現在では、雁も撃たれないと承知しているのか、比較的穏やかに生活しています。
 小林一茶は「けふ(今日)からは日本の雁ぞ楽に寝よ」との句を作っていますが、まさにそんな感じです。

 雁がまとまって飛ぶ姿を「雁行(がんこう)」といいます。清少納言は『枕草子』でこう書いています。
「秋は夕暮れ。(中略)雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし」

 冬に美しく編隊飛行するガンは、まさに季節の使者だったのです。

雁行
雁行


制作:2017年12月31日

<おまけ>

 読売新聞1886年(明治19年)5月18日付に、こんな記事が出ています。
《宮内省御用達の和菓子店「数寄屋町の塩瀬」で「珈琲落雁」というお菓子を売り出した。そのままで茶菓子になるし、お湯を注いで飲めばコーヒーの代用にもなる》
 落雁というのは、澱粉に水飴や砂糖を混ぜて着色した干菓子で、近江八景の「堅田の落雁」にちなんでつけられたという説があります。
 この記事から、明治初期にインスタントコーヒーが存在していたことがわかるのです。ちなみに、珈琲落雁はあまり評判にもならず、まもなく消えてしまったようですが。

堅田の落雁
堅田の落雁(国会図書館)
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