安政の大地震
地震予知はこうして始まった

安政の大地震
これが安政の大地震



 ペリーがやってきて日本が開国したのは安政元年(1854)ですが、この「安政」年間というのは、字面とは逆に、日本が大混乱した時期でした。
 
安政元年(1854) 3つの大地震による津波で静岡から四国・九州まで大被害
安政2年(1855) 安政の大地震
安政3年(1856) 安政の大洪水(巨大台風が関東直撃)
安政4年(1857) インフルエンザ大流行
安政5年(1858) コレラ大流行(死者10万人とも26万人とも)
安政6年(1859) 安政の大麻疹(はしか大流行)……


 といった具合です。今後、それぞれの惨状を追ってみる予定ですが、とりあえず今回は有名な「安政の大地震」の現場を見に行きましょう。
 


 安政2年10月2日(1855年11月11日)夜10時頃、江戸を大地震が襲いました。マグニチュードは6.9ですが、直下型なので大きな被害をもたらしました。
 『安政見聞集』には、地震の様子が次のように書かれています。

《今年安政2年10月2日夜亥時。大地震ありて。大江戸近国四方20里ばかりは。皆此(この)災にかゝれり。そが中にもとりわき大江戸市中を以て太酷といはんか。抑(そもそも)其(その)地動の発するや地底に大地の音の如き響ありて。忽(たちまち)地上激浪のうつ如く震動き。地裂天堕るかと驚かれ。見る見る100万の人家。倉庫神社仏寺。傾覆し。是が為に打殺されしもの。幾ばくといふ数をしらず。或は梁(はり)におされ或はくだけし柱にはさまれ。又瓦屋根。2階の下に。敷かれ土蔵の壁土に埋もれ。などしたる。男女老少。泣さけび助けてくれよ。起して玉はれ(たまわれ)と。よばはる声。もの凄きに。火また四方より炎々と燃出。焔(ほむら)天をこがすといへども。人々畏れあはてるをりからなれば。心神混乱し酔るが如くにて防ぎ消さんとする念なし。火は四方遠近。はかりがかしといへども。30余所ばかりに見え。何れの方より風吹き来るとも。市中残る方なく焼なんこと必せりとみゆ》

 幸いなことに風は普段より弱く、明け方近くにはすべての火が消し止められました。それでも、死者は当時の記録では13万とも22万とも36万とも書かれています。実際のところは、地震学者・関谷清景の推測では7000人とされています。

吉原の揚屋
これは悲惨! 売春中に地震が!(吉原の揚屋)

 
 さて、古来、日本では、地震の際に、さまざまな予兆が記録されています。
 いちばん多いのが、怪光現象。最古のものは『三大実録』(901年)で、《(869年)陸奥国、地、大に震動し流光昼の如く隠映す》と記録されています。
 
 安政の地震でも怪光は目撃され、

《怪しき光りもの四方にひらめきわたるやいなや、大地俄(にわか)に鳴動》(『時風録』)
《大地たちまちに裂破れ一だう(一条)の白気発す。その気ななめに飛さり金龍山浅草寺の五重のなる九輪を打まげ、散じて八方へちる》(『江戸大地震末代噺之種』)

 
 などと書いてあるそうです。これは、大地の結晶物質の崩壊による発光現象とも電磁波とも言われますが、定かではありませぬ。

地震の予兆
浅草で目撃された怪光

 
 このほか、安政の地震で報告された前兆には、
 
 ●浅草茅町の「大すみ」という眼鏡屋では、店先に展示してあった磁石に付いていた釘が落下、その2時間後に地震が起きた
 ●浅草蔵前の水茶屋(売春喫茶)「福本」では、地震の数日前に土間から清水がわき出た
 ●本所の井戸が濁り、塩っ気がついていた
 ●深川の井戸の底から、不気味な轟音が鳴り響いた
 ●本所永倉町でナマズが騒いでウナギが捕れなくなった
 
 などなど、さまざまなものがあります。
 で、どうやら地震と磁石には関係がありそうだということで、日本で初めて作られたのが、目覚まし時計を応用した地震予知機。仕組みは簡単で、地震が起こる直前に磁石が弱くなるという現象を利用しています。下図で鉄針が磁石から離れると、重りが落下、その動きに連動して上方にある鈴が鳴る構造。

日本初の地震予知機
磁石を利用した
日本初の地震予知機

 その後、同じ原理を利用して佐久間象山が作った地震予知機はこちら。長野の象山記念館に現物が残っているそうですよ。

地震予知機
佐久間象山の地震予知機

 一方、地震の被害に驚いた幕府は、蘭学者・宇田川興斎に命じて、オランダの『ネーデルンツセマガセイン』を訳させます。それが『地震預防説』ですが、ここには
 
《地震は地下に鬱伏せる電気より発するものにして、夫(か)の大気の時令節を失い、雷電空中に起ると一般の理なり》

 と書かれています。それで、地中深く銅製の柱を埋め込み、「越列幾的児」(エレキテル)を空中に放出することで、地震を防げるとしています。これが日本初の地震予防策でした。
 
 明治になると、地震研究は長足の進歩を遂げます。明治13年(1880)、お雇い外国人のユーイングが、日本初の地震実験所(研究所)と日本地震学会を設立します。ここで活躍したのが前述の関谷清景で、彼が日本の地震学の基礎を作っていくことになります。明治17年には、日本各地に地震計が設置され、地震観測網も完成。ここに、現在まで続く地震観測&予知研究が誕生したのでした。
 

地震予知と地震測定の歴史(明治以降)
制作:2004年11月24日


<おまけ>
 今後に期待される地震予知ですが、実は過去40年間、まったく地震予知に成功していないそうです。そればかりか、単なる税金の無駄使いだと断罪するのは、北大の地震学者・島村英紀教授です。

《阪神淡路大震災が起きる前には日本での前兆現象が790件もあったと謳われていた。前兆はすべてが地震の後に発表されたものだが、こんなに多く前兆が捉えられているのなら地震予知はできるのにちがいない、と人々が考えたとしても不思議はない。
(しかし)地下で地震がどう準備され、どんな前兆がどのように出て、最後にどう大地震に至るかの過程については、モデルも方程式もない》(毎日新聞、2004年1月12日朝刊)

 教授の『公認「地震予知」を疑う』は名著なので、一読をオススメします。
 

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