裁判員になる前に
日本の陪審制度とは?

東京地裁で行われた初の陪審風景
東京地裁で行われた初の陪審風景(1928年)


 2009年5月から裁判員制度がスタートしました。候補者には「裁判員候補者名簿記載通知書」が送られますが、当初、選出されたのは約30万人なので、全国平均では352人に1人。
 裁判員制度は「より国民の理解しやすい裁判を実現する」のが目的ですが、国民の関心はまだ低いのが現状ですな。個人的にオレが裁判員だったら、美人は即無罪!(←こういう態度はいけません)

 実は、日本では戦前、裁判員制度に似た「陪審員制度」がありました。今回はその歴史を調べてみたよ!

大審院・控訴院・東京地方裁判所
大審院・控訴院・東京地方裁判所


 1909年(明治42年)、「日糖事件」と呼ばれる一大疑獄事件が発生します。日本製糖が台湾における砂糖産業の保護政策を延長させるため、国会議員に賄賂を贈ったとされる事件です。この汚職事件は、検察の過酷な取り調べが話題となりました。
 翌年、明治天皇の暗殺計画で多くの社会主義者が処刑された「大逆事件」でも、証人尋問が無視され、勝手に事実認定が行われるなど、裁判の信頼性が揺らいでいました。

 こうした状況を憂い、民意を裁判に取り入れようと考えたのが、後に「平民宰相」と呼ばれる原敬でした。
 もちろん司法当局は強硬な反対を続けますが、大正デモクラシーで原が1918年に首相となると、流れは変わりました。陪審法案が作成され、原の暗殺後の1923年、ついに成立するのでした。

陪審法
陪審法で国民が国政に参与


 ちなみに日本で最初に陪審制度を提言したのは福沢諭吉で、『西洋事情』に次のように書いてあります。

《英国にては裁判役の独断にて罪人を吟味し刑罰に行うことを得ず。必ず 立合のもの有て裁判の正否を見て之(これ)を議論し、罪人もその罪に伏し、立合のものもその裁判に付き異論なきに至て、初て刑に処するなり。その立合の者とは平生国内にて身分よきものを選び置き、裁判の起る毎(ごと)に入札を以(もつ)てその人数の内より24人或(あるい)は12人宛を呼出して裁判局に列座せしむるなり。此(こ)の法を「トライエル、バイ、ジューリ」と云(い)う》(1873年『西洋事情』初編 三)

 同時に福沢は1877年の西南戦争では、西郷隆盛ら薩摩軍を陪審裁判で審理するよう主張しています。これは、佐賀の乱(1874年)などを主導した江藤新平らが、まともな裁判を受けることなく処刑されたことへの批判と言われます。
 
 法律としてはフランス人の法律顧問だったボアソナードが1878年に起草した「治罪法案」が日本初の陪審法だそうですが、これは結局廃案となっています。
 いずれにせよ、福沢らの構想は、50年経ってようやく実を結んだのですな。

陪審裁判
陪審裁判の対象は詐欺、窃盗、横領、放火、傷害、殺人、強盗、爆発物使用、強姦、そして姦通


 さて、陪審法が施行された1928年(昭和3年)10月、日本初の陪審裁判が大分地裁で開かれました。
 事件は同年9月16日夜に発生したもので、かつて交際していた女に復縁を迫ったものの、拒否された男が相手を包丁で刺してケガを負わせた、というものです。
 10月23日から25日まで連日開廷された裁判で、争点は殺意の有無に絞られました。初日は関係者の証言が吟味され、2日目には「殺意の有無」と「傷害の意図」が12人の陪審員によって評議されました。

 陪審員の意見は「殺意なし、傷害目的」で一致し、裁判長もこれに同意、25日に懲役6ヵ月の判決が言い渡されました。
 判決書主文の前には、
「陪審の評議に付し判決すること左の如(ごと)し」
 と書かれていました。


 一方、東京地裁で初めて行われた陪審裁判は、1928年12月17日。傍聴席には司法大臣らの姿もあり、緊張した雰囲気の中で開廷しました(冒頭の写真)。

 こちらの被告は、保険金目当てに自宅に放火した21歳の女でした。5日連続で行われた公判では自白の任意性が争点となり、熱心な議論が続きました。
 当時の新聞には公判の様子が詳しく報道されています。裁判長に自白調書の読み直しを頼んだり、証人の警察官になぜ指紋が採れなかったのか詰問したりと、議論は白熱しました。
 また被告が実父の証言に泣き叫ぶと、「陪審席のこんにゃく屋さんもそば屋さんもほろりとなる」(朝日新聞19日付朝刊)といった感じでした。

 そして最終日、停電のためろうそくの火に揺れる一室で、書記官が結論を書いた書面を大声で読み上げました。
「然(しか)らず」
 つまり、無罪だったわけです。余談ながら、被告は美人だと絶賛されていました。少なくとも当時の報道を読む限り、美人の若妻だったことが無罪になった大きな理由ではないかとの印象を持ちます。

陪審裁判 陪審員
当時の新聞から。各紙とも美人と絶賛してる「寒子」はこんな顔でした(右端。判決後)



 陪審制度はイギリスが起源で、現在、アメリカやオーストラリア、カナダ、ロシアなどで採用されています。これは無作為に選ばれた市民が、裁判官から独立して、事件ごとに有罪か無罪かを評決します。
 もう一つ市民が裁判に参加する制度には参審制があり、こちらは裁判官と一緒に判決の内容(有罪か無罪かと、量刑)を決めます。事件ごとではなく任期制で、ドイツやフランス、イタリアなどで導入されています。
 日本で導入される裁判員制度は、裁判官と共同で、判決の内容(有罪か無罪か、量刑)を事件ごとに決めていく仕組みです。

イギリスの法廷平面図
イギリスの法廷平面図(1926年)
(司法省資料から転載していますが、なぜか検事席が書かれていません)

東京地裁の法廷平面図
東京地裁の法廷平面図(1931年)

陪審員資格調査書
陪審員資格調査書(記入後、抽選で選ばれました)


 戦前に日本で行われた陪審制は、実はかなり独特でした。ここで、裁判員制と比較してみましょう。

●陪審員の資格は30歳以上で、同一地域に2年以上住み、国税3円以上の納税をし、読み書きができる男のみ(裁判員は原則誰でもOK)
●名前・住所・職業を公開(裁判員は非公開)
●「陪審員宿舎」に泊まり込み(裁判員は帰宅可能)
●事件についての報道は読めない(裁判員は報道を見てもOK)
●被告が陪審裁判を辞退することを認める(裁判員の裁判は勝手に決定)

陪審員宿舎
これが陪審員宿舎の様子(ラジオも晩酌もOK)

 
 日本の制度でもっとも変わっていた点は、裁判官が陪審員の答申に納得しなければ、何度でも裁判をやり直すことができた点です。結局、庶民の意見なんてどうでもいいわけで、なんだそれって感じですね(笑)。

陪審員
米俵や酒瓶や下駄やギターで描かれた陪審員。それに比べて検事らの立派なこと(笑)

(※なお、守秘義務は陪審員にも裁判員にもあります。陪審法では秘密漏洩すると1000円以下の罰金(当時の初任給の15倍ほど)。裁判員法では法廷で見聞きしたことは話してもいいのですが、「評議の過程」や「関係者の秘密」などを口外すると、罰金刑や最長6カ月の懲役となります)


 法律が通ると、政府は全国71地裁に陪審法廷を作り、陪審員宿舎も建設し、大がかりな広報活動を始めます。

陪審員
左2つが制度開始前に配布された資料。右は陪審員に配られた手引書

 広報活動の結果、当初、陪審裁判は年間100件を超えました。しかし、次第に被告が陪審裁判を辞退しはじめ、ついには年に数件だけとなってしまいました。そして、戦争の激化とともに、1943年、陪審法は停止されたのです。

 わずか15年間実施されたなかで、対象件数は484件(うち殺人が215件、放火が214件)。無罪は81件なので、無罪率は約17%と高率でした。
 当時も今も裁判官はほとんど有罪ばかり宣告するんですが、やはり庶民はなかなか他人を裁けないようですね。

 ふりかえって自分が裁判員になったら、どうなるのか? 原則として裁判官3人と裁判員6人の合議制で、被告の罪が決定するのです。他人の人生を、あなたは裁けるでしょうか?

制作:2008年11月30日


<おまけ>
 裁判員制度がアメリカの圧力でできたという説が根強いですね。これはアメリカが毎年日本に出してくる『年次改革要望書』で司法改革が長年にわたって要求されてきたことから言われる話です。
 現実に、アメリカは外国人弁護士が自由に国内で活動できるよう要求(命令?)しています。もちろん自由解禁されても仕事がなければ困るわけで、本音を言えば日本でどんどん裁判が起きてほしい。「裁判が身近になれば、みんなどんどん裁判を起こすだろう」という意図から、裁判員制度が始まったと言っても、まぁ間違いではないかもしれませんな。新司法試験で法曹資格を乱発したのも同じ理由です。
 日本人の感覚で言うと、裁判が常識になって、アメリカみたいな訴訟社会になると困るんだけど。しかしまぁ、もう日本は「何でも訴えてやれ」みたいな社会になっているので、アメリからしてみれば「してやったり」なんでしょうね。
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