探検コム/刑罰と私刑の世界

私刑類纂 遊郭の私刑



 民衆の歓楽境と呼ばれし遊郭内にも、昔は種々の私刑行われたり。クグツメ(=傀儡女、中世の遊女)時代のことは、美濃の青墓、近江の鏡山などにありし娼家の長が、少女を虐待せしことありか、後の小説本に2、3ホノ見ゆるのみにて、信ずべき記録の存せしものなし。

 私刑と称すべき苛酷制裁の行われしは、集娼制となりし徳川時代初期以来のことなるべし。江戸の吉原、京の島原、大阪の新町など、大都会に集娼遊郭の成立せし余弊として、奴隷制度の盛んに行われし時代には、遊客の機嫌取りを強い、粗食虐遇に甘んじせしめ、もしその不平を漏らせし者、またはその苦痛に堪えかねて、脱走あるいは情夫と駆け落ちせんとせしがごとき者あらば、「他への見せしめ」として苛重至極の私刑を加えしなり。
 
 また遊客に対しても、亡八(=遊郭の経営者)根性の発露として、遊興代価不払い者には、繋獄以上の制裁ありたり。また娼妓が遊客の髷(まげ)を切るなどの慣例も行われたり。

▲おろしという制裁


 寛永以来、吉原にては遊女を3(つの)位に分かち、太夫、格子、端と称し、京阪にては太夫、天神、端と称せり。この太夫職の遊女が、少しく不精励にて客足の減ずることあらば、楼主は直ちに懲戒として格子女郎(天神)に貶(おと)し、また格子女郎の者に同様のことあらば、端女郎に黜(しりぞ)くるを一般の例とせり。これを「太夫おろし」、「天神おろし」と呼べり。

▲殴打、絶食、水責めなど


 上のごとき「おろし」の制裁は、その最も軽き刑なり、これより進んでは殴打、絶食、水責めなどの酷刑ありたり。
 次にかかる苛責は、遊女に対することのみにあらず、遊女の未成品たるカムロ(禿)にもまた殴打、絶食などの刑を加えしなり。元来、カムロといえる語は、頭髪を剃り落とせしことより起こりしならんが、その頭髪を剃り落としことは、廓外への逃走を予防するにありしなり。

 このこと、既(すで)に束縛的にして、その奴隷視せしこと明らかなるのみならず、事実また愛憐なく温情なくして日夜酷使し、栄養不良・睡眠不足などにて病臥(びょうが)することあるも、冷淡に顧みざりしなり。

▲逃げ損じの釣るし責め


 安永頃の川柳に「なりは男だが泣く声は女なり」といえるがあり、これは遊女が吉原廓内を脱出せんとして、男の衣服を着、袖頭巾をかぶり、股引きを穿くなど、男装にて大門を通過せんとせしとき、門番の四郎兵衛(=監視役)に発見され「四郎兵衛から受け取って柱へくくし(=くくりつけ)」打つ蹴るの責めに遇(あ)うことを詠みし句なり。

『風俗見聞集』には、左のごとく深刻に記せり。
「このとき(脱走、駆け落ちなど)の仕置きは別して強勢なることにて、あるいは竹篦(しっぺい)にて絶入るまでに打ち擲(たた)き、または丸裸になし、口へは轡(くつわ)のごとく手拭いを食わせ、支体を四つ手に縛り上げ、梁(はり)へ釣り上げて打つことなり。これをブリブリと唱えるなり。常々の仕置きは、前にいうごとく、妻妾または老婆などの取り行うことなれども、竹篦ブリブリは彼(かの)亡八が自身に(て)するなり」 

 最近の語をもって言えば、これも非道の「監獄部屋」なるべし。

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▲桶伏(おけぶせ)という拘禁の牢


「今から270、280年前の頃、江戸の吉原では、無銭遊興の者に対して「桶伏」という刑罰法が行われていた。散々(さんざん)飲食をした上、遊女をもなぐさんだ翌朝、サア勘定というとき、無一文であると、古い風呂桶の中にその男を伏せて置くのである。

 食事は一椀飯に生塩を振りかけて与え、夜具などは無論なく、大小便も垂れ流しであって、公儀の牢舎にもない苛酷のものであったらしい。親族朋友の者がそれと聞いて揚げ代金の弁償に来れば、即時放免するが、さもなくば5、6日の間、留め置いて懲らしたのである。

 古い川柳に「伴頭(=年配の女郎)が来て桶伏の伸びをさせ」、「伴頭が受け出してくる若旦那」、「桶伏と入れかえにする座敷牢」というのがある。蕩楽息子のことを言ったもの。

 また「桶伏は逆さに振い取った上」とは遊女屋どもの冷酷を言ったものであるが、これは桶伏が禁止された後の作者が想像しての句であろう。

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 最古の吉原本、寛永19年(1642年)版の『あづま物語』に、
「やかれつつ かねのあるほど とられんぼ あとはかならず桶伏としれ」(『スコブル』)

「揚銭(あげせん)多く、負けて返すことのならぬをば、桶伏ということすといえり。(『浮世物語』)
 あげ銭につまりて桶ふせとなり云々。(『江戸土産咄』)
 ついには吉原にて桶伏になり、ようよう友だちのかげにて免れかえり云々」(『嬉遊笑覧』)

「桶伏——挙げ銭を負いたるものを捕えて、人湯桶を打ちかぶせ、銀をうけあわすることなり。昔はたまさかにかかることもありもやしけん。今(延宝)は名目のみ有りて、かようの仕業は無し。当時は銀を負いたる者の忍びて来りたるを見付ければ、留めてかえさぬ廓法なり」(『色道大鏡』)

「傾城伽羅三味線(宝永5年刊)巻3の大阪新町扇子や荻野が評判の条に『桶ぶせがあるとくるわ中の取り沙汰……おもてにあたらしき桶をうつぶけ、何屋何右衛門殿あげせんすまされぬゆえ、所の法にまかせ桶かぶせつかまつるとの書き付け』とあり、宝永までも大阪にはそのことありしがごとし。寛永版浮世物語巻1に『そのほかあげ銭につまり桶ぶせになり……とあり」(『日本及日本人』)

 吉原にて桶伏の行われしは、旧吉原時代の頃にて、延宝にはハヤ昔語りなりしこと前掲のごとし。宝永の頃まだ大阪にて行われしということ信じ難し。備前岡山にては近世までも桶伏のことありたりと語りし人あれども、全くの虚伝なるべし。

 また文化文政頃出版の草双紙類に、桶伏のことを、当時、現に行わるるがごとくに記せるもの多く、天保・安政頃の川柳狂句にも桶伏のことありといえども、これらはみな「桶伏」ということがトテツもなき苛法(=厳しい法律)なりしをもって、後の作者が読者の好奇心をそそらんとしての取材なるべし。

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▲浮気客に加うる懲罰


『川柳吉原志』に「性悪の客が馴染みの女郎に渡りを付けずに同じ家の他の女郎に手を出すと、大勢の女郎どもが寄りたかって、その男のチョン暫(まげ)を散切(ざんぎり)にするなど、頗(すこぶ)る峻烈なる私刑が行われていた」とあれど、この同じ家というは誤りなるべし。

 明和・安永・天明頃の川柳に、
「ざん切りにしなとゾロゾロ上草履」
「ざんぎりでたたき放しに息子され」
「罪科をいい立てて元どりを女郎切り」
「もとどり切れとおいらん下知(=指図)をする」
「頭巾でも召してと茶屋は笑止(しょうし)がり」

 などいえる句多きは、女郎が浮気客を懲らす方法として髷を切り落とすことなれども、このことは後の項に抜載せる記事のごとく、他の妓楼に行きて遊びし客に対する懲罰例なるべし。

 同じ明和頃の川柳に、
「傾城(=最も位の高い遊女)の意地は五丁を構うなり」
 といえるがごとく、馴染み客と定まりし者は、吉原中の他の妓楼に登らしめずとの意地あることを言いしにて、浮気客に対しては、廓の掟と号して髪を切り落とす権威あることを寓せし句なるべし。

 近世は「見立てがえ」といえること行わるに至りたれども、この時代には同じ家の女郎とは、私通も公通もともに不可能たりしなり。

 岡場所と呼ばれし江戸の私娼窟たる深川弁天境内にありし遊里にても、浮気客を捕えて裸体にし、女の衣服を着せて抑留せしとのこと、天明版の洒落本に見ゆ。

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▲行燈部屋入りの果て



 桶伏の廃されし後、無銭遊興者をいかに処分せしかは不明なれども、後世の「行燈部屋入れ」および「付け馬」(=取り立て人)式に類せしことが行われしならんか。

 この付け馬は債権取り立ての手段なれども、粗食虐待の行燈部屋入れは、人身の自由を拘束する私刑のひとつと見るべし、なおこの行燈部屋に入れ置きて、数日を経るも向井金作(=迎え)の来たらざるときは、楼主はその猪子利吉を始末屋といえるに引き渡し、始末屋は本人に調金の途の有無を糺問(きゅうもん)し、ありといえば付け馬にて市中を廻り、その廻り廻りし後、ついに調金不可能なりしときは、再び廓内へ引き連れ帰り、衣服を剥ぎ取り、襦袢(じゅばん)と褌(ふんどし)にて追い出し、その衣服代が遊興費の3分の1にも足らざるときは、「テメーの様(よう)な奴は、再びこの廓へ来てはならぬぞ」と宣告し、剰(あまつ)さえ、後の戒めとしてシタタカ殴打を加えし後、追放する廓法なりしという。

 近世は警察署へ引き渡す規則になりて、このこと止(や)みしと聞く。

▲吉原芸妓の売淫罰


 吉原遊廓は娼妓を専一とし、芸妓は単に客の興を助くるに過ぎざる者なるをもって、この廓内にては芸妓に売淫するを許さざるなり。
「吉原芸妓の風紀——座敷へ出るにも二人ずつ組んで出て、枕席にははべらさないという規則でありましたが、その内実はそうでもありませんでした。しかし、それが知れると、券番の札は削られ、その茶屋は提灯を止められたので、客も芸妓も極秘にやりました」云々。(『大江戸』)
「札は削られ」とは芸妓の除名処分、「提灯を止められ」とは娼楼への出入り禁止処分を言う。

 以上のほか、各地の遊廓にて行われし私刑も多かるべけれど、概するに、範を吉原に採りしほかなかるべし。而(しか)してその私刑は、オモニ客待遇の悪き妓と逃走未遂の妓を苦しめしなるが、これらのことは徳川時代よりも以前、すなわち遊女の長者といえる抱主(=遊廓の主人)の出来しクグツメ当時の鎌倉時代・足利時代においても行われしなるべし。

「似せ物語に、男女うなずき合いて走らんとするを、長(おさ、妓楼主人)開きつけて、男をば、つけとどけしければ、女をば、たばかりて(=だまし)くらにこめてしばりければ云々」と『嬉遊笑覧』に見ゆるも、集娼制以前のことならんか。

 予はかつて『売春考』に、「明治政府の役人ども、開港通商、文物輸入の唱道で、人権の擁護を衒(てら)わねばならぬことになって、明治5年(1872年)10月に奴隷売買制の娼妓解放を断行したのは良(よ)かったが、それはホンノ束の間、従来の妓楼を『貸し座敷』営業として許可し、娼妓は任意の出稼ぎという鑑札、その実、貸座敷は旧のままの牢獄で資本主義者の横暴、出稼ぎは名目のみで自由廃業も容易にやれない可憐の囚われ者、それで今日までなお連続している」云々と記せしが、上のごとき苛責虐待の私刑は、この娼妓解放令の出でし後には厳禁され、偶(たまた)ま旧套(=古いしきたり)を脱せざる亡八あらば、人権問題・人道問題として糾弾さるるがゆえに、今は殆(ほとん)ど絶滅に近きがごとし