写真と証言で綴る「二・二六事件」
反乱軍兵士の食事はどうしたのか、当時の証言を発掘!

二・二六事件
戒厳本部を護衛する兵士



 その日、東京は30年ぶりの大雪が降っていました。

 朝5時10分ごろ、突如、赤坂の大邸宅の玄関が打ち破られました。女中が慌てて2階の老主人に急を告げに行くと、目覚めたばかりの主人は「雪の落ちる音だよ」と暢気に答えます。
 しかし、まもなく靴を履いたままの一団が乱入してくると、主人は「何をするか!」と一喝します。しかし、1人の男が「国賊」と言って拳銃を撃ち、もう1人が軍刀で左腕と左胸を刺しました。

 3階で寝ていた夫人は、階下の物音で目を覚ましますが、そのとき室内電話がなり、「旦那様が大変です」という悲痛な声を聞きました。あわてて2階に下りておくと、家の主人である大蔵大臣の高橋是清が殺害されていました。夫人は後に「残酷というより、卑怯で残念」と語るほど、遺体は正視できないほど痛めつけられていました。

 昭和11年(1936)年2月26日、いわゆる二・二六事件の始まりです。


 二・二六事件は、陸軍の青年将校らが「昭和維新の断行」を叫んで決起したクーデターです。歩兵第1・第3連隊、近衛歩兵第3連隊など約1500人の兵士が、首相官邸、内大臣邸、教育総監邸、警視庁、朝日新聞などを襲撃し、三宅坂から永田町一帯を占拠しました。陸軍省と参謀本部一帯の交通も遮断され、国家中枢は反乱軍に押さえられたのです。

二・二六事件
反乱軍に占拠された警視庁


 彼らが出した「蹶起(けっき)趣意書」によれば、決起した理由は、

《内外重大危急の際、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚、政党等の国体破壊の元凶を芟除(さんじょ)し以って大義を正し国体を擁護、開顕せんとするにあり》

 ということです。
 当時、日本社会は大恐慌以来の不況に苦しみ、東北では凶作による身売りも横行していました。青年将校らは、こうした国家の危機を見て見ぬふりする特権階級を排し、天皇親政の新体制を作ることを目的としていました。

 殺された斎藤實(内大臣)、重傷の鈴木貫太郎(侍従長)、襲撃されたものの助かった岡田啓介(首相)はいずれも海軍大将だったため、海軍はすぐに鎮圧の態勢を整えます。まず横須賀の第1水雷戦隊を芝浦に上陸させ、高知沖の第1艦隊を東京に、第2艦隊を大阪に向けました。

二・二六事件
芝浦に上陸した海軍陸戦隊

二・二六事件
市内を警護する海軍部隊


 一方、陸軍はどうしたか。
 事件を知った陸軍首脳は昼12時半に皇居に集まり、善後策を協議しました。

《まず(川島義之)陸軍大臣が「早くこの事態を収拾して鎮圧し原状を回復しなければならないので、ご意見をいただきたい。漏れ承るところによれば天皇陛下におかせられては早く鎮定して遅くならないようにと仰せられた由」と述べた。一堂恐縮した。》(『憲兵将校・磯高麿の戒厳令日誌』より阿部信行陸軍大将の発言)

 こうして、反乱軍を刺激しないような「気持ちはわかるが後は上司に任せよ」という主旨の告示が書かれ、午後3時過ぎに「陸軍大臣告示」として発表されました。

 陸軍大臣告示
 一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達セラレアリ (決起の主旨は天皇陛下に伝えられた)
 二、諸子ノ行動ハ國體顕現ノ至情ニ基クモノト認ム (兵士の行動は国体を正そうとする気持ちからだと認める)
 三、國體ノ眞姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘス (国体の乱れや悪習については恐縮している)
 四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ (軍事参事官はみな以上の主旨で問題解決を図る)
 五、之以外ハ一ツニ 大御心ニ俟ツ (これ以外は天皇陛下のご判断をまつ)


二・二六事件
通行禁止で人けの絶えた丸の内を警備

【27日】

 27日午前3時、東京に戒厳令が発令されました。戒厳司令部は九段南の憲兵司令部に置かれましたが、手狭なため、午前6時に九段の軍人会館(現・九段会館)に移動します。

二・二六事件戒厳司令部
戒厳司令部

 
 この時点で、警視庁はまだ反乱軍に占拠されています。そのため、反乱軍の制圧は軍と憲兵隊の担当とし、警察は治安維持に専念します。

 事件発生と同時に、警察は電話で各警察署に非常招集命令を出すつもりでしたが、すでに電話交換室は反乱軍に包囲されていました。そこで、8名の電信係は、電信室を物置のようにカモフラージュし、26日午前5時50分、86すべての警察署に電信で非常招集命令を出すことに成功しました。

 一方、電話交換室の中には12名の交換嬢がいましたが、電話交換機も反乱軍の手に落ちることなく、死守できていました。警察電話が輻輳するなか、通常の半分の人員で普段の倍の電話を32時間にわたって交換したのです。その後、うまく18人の交換嬢が入れ替わりました。

 27日朝9時半、警視庁は神田錦町署に本部を設置しますが、結果的に、警察は電信も電話も機能させることができたのです。これが治安維持に役立ちました。

二・二六事件警視庁
警視庁の中庭の反乱軍


 余談ながら、この警視庁占拠には、後の5代目柳家小さん師匠がいました。「これは演習じゃないんですか?」と聞いたところ、誰も何も答えなかったというエピソードが残っています。


 午後4時、海軍の第1艦隊は東京湾に到着し、すべての砲門を市街に向けました。
 昭和天皇は、終始、すばやい鎮圧を求めていました。陸軍出身の本庄繁・侍従武官長は「彼らの行動は許されるものではないが、その精神は国を思うものです」と決起した将校の精神だけでも認めてほしいと天皇に奏上しますが、天皇は

《朕が股肱(ここう)の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校等、其精神に於ても何の恕(じょ)すべきものあり》(本庄繁 『本庄日記』)

 と一切許さないと断言します。

二・二六事件
「幸楽」前で撮影した反乱軍


 この日の晩、永田町の料亭「幸楽」に数百人の兵士が上がり込み、厳重な警戒をしいて、残りの兵士は休息につきました。実は、26日の朝10時頃、深刻な顔をした将校がやってきて、大量の弁当と酒の注文があったのです。幸楽は午後2時と4時の2回、トラックで弁当を運びました。
 ずっと演習だと思っていた幸楽のスタッフは、27日朝になって初めてラジオで事件を知ったそうです。

二・二六事件幸楽 二・二六事件
料亭「幸楽」の庭園と宴会場

【28日】

 28日午前5時。ついに、決起部隊を所属原隊に撤退させよという「奉勅命令」が下達されます。
 香椎浩平・戒厳司令官は説得による解決を目指し、反乱部隊との折衝を続けていましたが、次第に流れは武力鎮圧の方向に向かっていきました。

 午後、川島陸相と山下奉文少将が侍従武官室に来て、「反乱部隊将校は自決させ、下士官兵は帰営させる。ついては自決の場に勅使を派遣してもらい、死出の光栄を与えて欲しい」と提案します。
 これを聞いた昭和天皇は激怒し、

《「自殺するならば勝手に為すべく、かくの如きものに勅使など以っての外なり」と仰せられ、また師団長が積極的に出づる能わずとするは、みずからの責任を解せざるものなりと、未だかつて拝せざる御気色にて、厳責あらせられ、直ちに鎮定すべく厳達せよと厳命をこうむる》(『本庄日記』)

 という怒りようでした。

 この日、幸楽では10数人の中国人コックが逃亡したため、てんやわんやの忙しさとなりました。午後、大量の酒が届くと、兵士は飲めや歌えの大宴会を始めますが、夜6時頃には部隊はどこかに引き揚げていきました。
 深夜、背広姿の男達がやってきて80円を渡し、「国会議事堂の部隊は何も食べていないので、弁当を至急作ってくれ」と注文がありました。今からでは無理だと断ると、そのうちの1人が20円持って出て行き、まもなく米俵3俵を手配してきたため、やむなく注文を受けました。

二・二六事件山王ホテル
反乱軍がこもった山王ホテル


 幸楽同様、27日の晩に兵士が乗り込んできた山王ホテルでは、28日も大量のおにぎり作りをおこなっていました。
 山王ホテルの女給の証言が残っています。

「大広間の方では、みんなお酒を飲んで、大きな声でいろんな歌を歌っていました。そのうち、『思いが通らなくて、俺たちはいよいよ帰らなければならない』と言って、みんながボロボロ涙をこぼしてしまったのはビックリしました」
(『二二六事件画報』より、伊藤葉子さんの証言)


【29日】

 29日午前5時30分から、永田町近辺の住人の立ち退きが始まりました。東京市内の電車もすべて運行が停止しました。戒厳司令部は約2万4000人の兵力で反乱軍を包囲して戦闘態勢をとっています。

二・二六事件
事件で大渋滞する新橋

二・二六事件
不安そうな市民


 まもなく、飛行機から下士官兵あてのビラがばらまかれました。そこには、

「今からでも遅くないから原隊へ帰れ」
「抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する」
「お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ」


 と書かれていました。
 西新橋の飛行館屋上には、「勅命下る軍旗に手向ふな」と書かれたアドバルーンが掲げられました。

二・二六事件 二・二六事件
配られたビラとアドバルーン
 

 そして、午前8時50分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した放送がおこなわれます。

《勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして、誠心誠意活動して来たのであらうが、既に、天皇陛下の御命令によつて、お前達は皆原隊に復帰せよと仰せられたのである。
 此上お前達が飽く迄(あくまで)も抵抗したならば、夫(それ)は勅命に反抗することとなり、逆賊とならなければならない。
 正しいことをして居ると信じてゐたのに、それが間違つて居たと知つたならば、徒(いたづ)らに今迄の行懸(いきがか)りや義理上から何時までも反抗的態度をとつて天皇陛下に叛(そむ)き奉り、逆賊としての汚名を永久に受けるやうな事があつてはならない。
 今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ。さうしたら今までの罪も許されるのである。お前達の父兄は勿論のこと、国民全体も、それを心から祈つて居るのである。速かに現在の位置を棄てて帰つて来い。
 戒厳司令官 香椎中将》


 これは近来の名文と言われますが、この原稿を読んだのはNHKの中村茂アナウンサーです。後に、「人も泣かせ、自分も泣いた」と語っています。

 こうして、反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、事態は収束しました。

二・二六事件
原隊に戻る反乱軍


 では、この放送を、当事者の青年将校はどう聞いたのか?
 高橋是清を軍刀で刺し殺した中島莞爾少尉が、取り調べでこう答えています。

「(奉勅命令は)正式に奉達されませんし、他より聞くこともありませんでした。ところが29日朝ラジオで初めて変なことだと知り、これは下士官兵を解散させる餌として使ったものと知り非常に嫌悪の念で聞きました。
 正式の命令とは、部隊内であるから軍隊の命令一系統に基づき下達されるべきものと信じます。即ち私は小藤(恵)部隊に臨時編入されていたのですから順序に基づき奉勅命令の奉達されるべきでありますのにもかかわらず、何もなく突如ラジオによって下士官兵に対して「お前達を指揮している上官に達してあるから……」とか放送されたのでは全く心外に堪えぬことと思います。他の陸相官邸に集まった同志将校は誰も知りませんでした。
 勿論奉勅命令とあれば絶対に服従すべきものと信じます。正式奉達でなくともラジオ放送の結果下士官兵が逆賊の汚名を蒙ることは可哀想に思い、涙をのんで下士官兵を帰したのです。しかしこれに対している部隊は誠に武士の情けを知らぬ態度をとり、非常に憤慨しました。》(『二・二六事件 研究資料Ⅱ』)


 結局、この事件で2人が自決、北一輝など19人が死刑判決を受けました。
 反乱部隊は、その後、当初の予定どおり満州に送られ、下士官兵の多くがノモンハンで戦死しました。

二・二六事件
事件収束を伝える電光掲示板

●五・一五事件はこちら

制作:2012年2月26日

<おまけ>

 太宰治が二・二六事件について書いています。

《関東地方一帯に珍らしい大雪が降った。その日に、二・二六事件というものが起った。私は、ムッとした。どうしようと言うんだ。何をしようと言うんだ。
 実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。激怒に似た気持であった。
 プランがあるのか。組織があるのか。何も無かった。
 狂人の発作に近かった。
 組織の無いテロリズムは、最も悪質の犯罪である。馬鹿とも何とも言いようがない。
 このいい気な愚行のにおいが、所謂大東亜戦争の終りまでただよっていた。
 東条の背後に、何かあるのかと思ったら、格別のものもなかった。からっぽであった。怪談に似ている。》(『苦悩の年鑑』)

226事件
平常に戻った霞ヶ関(左は国会、右は参謀本部)

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