エアガールの誕生

エアガール(スチュワーデス)
日本初のCA「エアガール」



 昭和6年(1931年)8月25日、羽田に東京飛行場がオープンします。
 4日後の8月29日、ドイツのベルリンから12日間かけて飛んできた女性パイロット・エッツドルフの飛行機が着陸。これが羽田空港へ初めて到着した外国機です。

 市民は女性パイロットということに驚き、空港につめかけた群衆は大歓迎したと伝えられています。
 エッツドルフは、羽田空港の開設に貢献し、「民間航空の父」と呼ばれる元軍人・長岡外史から叙勲の栄誉にあずかりました(ちなみに長岡は、日本にスキーを導入した人物)。


エッツドルフ
エッツドルフ(右は橋本圭三郎・日本石油社長)



 羽田空港ができると、民間機はそれまで間借りしていた立川の軍用飛行場から移ってきますが、日本のスチュワーデスは、羽田ができる前の立川飛行場で誕生しました。
 
《エアー・ガールを求む。東京、下田間の定期航空旅客水上機に搭乗し、風景の説明や珈琲のサービスをするもの、容姿端麗なる方を求む。希望の方は2月5日午後2時、芝桜田本郷町飛行館4階へ》
 
 こんな新聞広告がでたのは、この年1931年のはじめです。東京航空輸送社による日本初のスチュワーデス募集でした。応募者は141人で、長岡外史らによって面接がおこなわれました。しかし、3月5日に採用が決定したのは、たった3人です。

 4月1日から、東京〜下田〜清水(静岡県)の水上旅客機(旅客6人乗りの遊覧定期便)で乗務が始まりました。客にコーヒーやカクテルをサービスするのが仕事で、給料は1回の飛行で3円、地上勤務で1円でした。

エアガール(スチュワーデス)
東京〜下田〜清水を搭乗したエアーガールたち



「エアガール」の名称は、同社社長の相羽有(東京初の自動車教習所を開設した人物)が、当時人気だった「バスガール」の “上を行く” 職業として名づけました。この言葉は流行語となり、当時の新語辞典に相羽が解説を加えています。

 それによると、和製英語のエアガールには当然のことながら訳語はなく、《(新聞では)「空の麗人」となり「空中の女性」となって賛美されるかと思えば、「空中の女給」とカフェー扱いしたものもあって苦笑させられた》(『最新新語新知識』)としています。毀誉褒貶はありましたが、宣伝効果は抜群でした。

 相羽によれば、そもそもスチュワーデス自体、発明したのは日本だそうです。

 1930年、ボーイング航空輸送(後のユナイテッド航空)は8人の女性を採用し、ニューヨーク〜マイアミ間で搭乗させました。しかし、このサービスはいたって質素で、いわゆるスチュワーデスは日本が先駆けだそう。欧米は日本に数カ月遅れて採用を開始しました。
(通常は、ボーイング航空輸送の8人が世界初というべきでしょうが、相羽がこれを「質素」としたのは、彼女たちが全員元看護婦で医療スタッフに近かったせいだと思われます)

 民間飛行機がようやく空を飛び始めた時代。しかし、この年6月22日には日本航空輸送の旅客機が福岡で墜落、3人が死亡してしまいます。これが日本初の旅客機墜落事故。まだまだ、空の大衆化は遠い時代でした。

 飛行機にエアガールが本格的に搭乗を始めるのは、1937年(昭和12年)頃からです。

完成直後の羽田空港
完成直後の羽田空港



 ちなみにですが、日本初の女性パイロットは、もう少し早い時期に誕生しています。兵頭精(ひょうどう ただし)が、1922年に免許を取得しました。

 1899年(明治32年)生まれの兵頭は、1919年(大正8年)、千葉県の伊藤飛行機研究所に入所し、1921年に卒業。翌年3月、三等飛行機操縦士の試験に合格しました。帝国飛行機協会が主催する飛行競技会にも出場しましたが、「女性初」という立場は攻撃されやすく、スキャンダルが新聞に書かれたこともあり、まもなく引退してしまいます。

 エアガールが採用される直前、1931年3月7日には、宮森美代子(当時19歳)が日本人女性として初めてパラシュート降下に成功しています。千葉県津田沼の海岸で1000メートルの高さから飛び降り、5000人の観衆から喝采を浴びました。5月24日には3000メートル上空から降下を成功させ、「天女」と呼ばれました。

日本初の女性パラシューター宮森美代子
日本初の女性パラシューター宮森美代子



 なお、エアガールは戦後、「スチュワーデス」という名称になりますが、男女差別につながるというポリコレの余波を受け、いまでは「キャビンアテンダント(CA)」「フライトアテンダント」などと呼ばれるようになりました。

東京飛行場の事務所
東京飛行場の事務所


更新:2022年3月18日

<おまけ>

 日本で初めてスッチーからサービスを受けたのは、当時の逓信大臣・小泉又次郎です。小泉は当時の新技術として話題を集めた「電送写真(FAX)」の視察をしたり、いろんなパフォーマンスが大好きな人間でした。この血を受け継いだのが、孫の小泉純一郎元首相ですが……血は争えないというか、妙に納得してしまいますね。
 
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