年表風・自転車の文化史

芳虎『東京日本橋風景』
芳虎『東京日本橋風景』(明治3年)
(国会図書館のサイトより転載)


 ロンドンに国費留学した夏目漱石は、異国の地でひどい神経衰弱に悩んでいました。その様子を見て、下宿の太ったおばちゃんが「自転車に乗ってみたら」とアドバイスしてくれました。
 イヤイヤながらもやむなく自転車を買った漱石でしたが、35歳という年齢もあり、何度練習してもうまくなりません。
 以下、急坂を初めて下ったときの場面。多少わかりにくい文章ですが、女学生の大群をよけ、車道から歩道に乗り上げたときの様子です。

《余は、疾風のごとくに坂の上から転がり出す、(中略)坂の中腹へかかる、今度は大変な物に出逢(であ)った、女学生が50人ばかり行列を整えて向(むこう)からやってくる、こうなってはいくら女の手前だからと言って気取る訳にもどうする訳にも行かん、両手は塞(ふさが)っている、腰は曲っている、右の足は空を蹴(けっ)ている、下りようとしても車の方で聞かない、絶体絶命しようがないから自家独得の曲乗のままで女軍の傍をからくも通り抜ける。

 ほっと一息つく間もなく車はすでに坂を下りて平地にあり、けれども毫(ごう)も(=まるで)留(と)まる気色(けしき)がない、しかのみならず向うの四ツ角に立ている巡査の方へ向けてどんどん馳(か)けて行く、気が気でない、今日も巡査に叱られる事かと思いながらもやはり曲乗の姿勢をくずす訳に行かない、自転車は我に無理情死を逼(せま)る勢でむやみに人道の方へ猛進する、とうとう車道から人道へ乗り上げそれでも止まらないで板塀(いたべい)へぶつかって逆戻をする事一間半、危くも巡査を去る三尺の距離でとまった》(『自転車日記』)


 明治人が「坂の上の雲」を目指して頑張っている時代、漱石は坂の下で板塀に激突してたわけですな。今から110年ほど前の明治35年(1902)のことです。

 ちなみにこの年、漱石の同級生だった正岡子規が死んでいます。子規は最後の随筆『病牀六尺』に「自分の見たことないもので、ちょっと見たいもの」として、「活動写真」「浅草水族館」「駝鳥」などと並んで、「自転車の競争および曲乗り」をあげています。


ワーグマン「明治2年の江戸」
ワーグマン「明治2年の江戸」


 さて、日本で最初に自転車が文献に登場するのは明治3年。『武江年表続編』(1878)に、

《明治3年6月15日「自転車といふは今年秋の本町辺の者より始しが行れず》

 とあるのが最初です。自転車のイラストは同じ年に多数登場してるんですが、有名なのは『絵入智慧の環』の「自在車」です。

自在車自転車
自在車
(国会図書館のサイトより転載)


 明治4年(1871)、明治政府は「太政官布告第265号」で東京府下の車に税金をかける決定をします。主に人力車を対象に収入の3%を徴収するもの。
 その成果が明治5年の「日要新聞」に記録されているんですが、徴税対象は人力車2万4522両、荷車6044両、馬車129両……そして自転車はわずか1両でした。これが明治8年になると記載がなく、明治9年で6台あるばかりです。

 明治12年、自転車が危ないので、内務省警視局が昼夜の走行規制を考慮中との報道が流れますが、依然、自転車はまったく普及していませんでした。

 明治25年秋頃から自転車は流行をみせ、明治26年7月1日、自転車の普及を図る「日本輪友会」が発足。機関誌『自転車』を発行し、外国製自転車の購入に便宜を図るなどしていました。

 明治32年12月、あるヒマ人が銀座の中心部に立って往来する車や人の数を数えてみました。天気が悪く露店もない寂しい夜でしたが、歩行者3762人、鉄道馬車182輌、人力車136輌、荷車18輌、荷馬車3輌、西洋人6人、犬12頭がいました。このとき自転車はわずか11台。やはり普及してるといった感じはありません(東京朝日新聞、明治32年12月30日)。

 自転車がなかなか普及しないのは、もちろん本体が高価だったからです。明治32年時点で自転車はほとんど輸入品なので、1台200〜250円とかなり高い買い物でした。参考ながら明治32年ごろの銀行の初任給は35円、上野〜青森間の普通運賃5円65銭、公衆電話15銭、雑誌『中央公論』は12銭でした。

 これに自転車税がかかります。
 下の資料は明治36年に香川県の自転車愛好家が出した減税陳情書ですが、これによると明治22年〜32年までは1台あたり年1円の税金がかかっていましたが、33、34年に1.5円、そして35年以降は4円の税金がかかりました。高松ではさらに付加税がつくため、8円もの税金です。

自転車
「自転車は20世紀の社会に相伴する利器、軍事用の利器」


 明治34年、中央公論に「最近、女子が自転車に乗り始めた。どうかこの活発な気風を押し広め、卑屈を優美と見なす考えをぶっ壊したい」との論評が出ました。
 この「女子」というのは、オペラ歌手の先駆けとなる三浦環(みうらたまき)のことです。

 三浦環は明治33年(1900)、16歳のとき、虎ノ門から上野の音楽学校まで自転車通学を始めました。当時、若い娘が自転車に乗るなんてあり得ない話だったのですが、紫の着物に赤い袴、そして白いリボンで颯爽と走っていく姿が評判になり、「自転車美人」として何度も新聞に取り上げられたのです。

  この三浦環の評判を聞いた小杉天外は、彼女をモデルに明治36年、読売新聞に現代小説『魔風恋風』を連載しました。以下、ヒロイン萩野初野が自転車で現れる冒頭シーン。

《鈴(ベル)の音高く、見(あら)はれたのはすらりとした肩の滑り、デードン色(=深紅)色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして、白リボン清く、着物は矢絣(やがすり)の風通(ふうつう)、袖長ければ風に靡(なび)いて、色美しく品高き18、9の令嬢である》

 まさにハイカラ女のイメージを具現化した存在ですな。

明治30年代の女学生
明治30年代の女学生


 ハイカラと言えば、明治41、2年に流行した「ハイカラ節」は「自転車節」とも言われるんですが、その歌詞はこんな感じ。

《チリリンリーンと出て来るは、自転車乗りの時間借り、曲乗り上手と生意気に、両手を離した洒落男、あっちへ行っちゃ危ないよ、こっちへ行っちゃ危ないよ、あぁ危ないと言ってる間にそれ落っこちた!》
 
 この歌詞からレンタサイクルがあったことがわかります。

銀座博品館 銀座博品館
明治41年、銀座博品館前(右は拡大図)

 自転車は「ハイカラ女」のものというイメージを崩したのが、明治42〜43年、三越が始めたメッセンジャーボーイです。それまで荷車などで行っていた商品の配送に自転車を利用するようになったのです。白塗りの自転車は目立ち、ハイカラ男というインパクトを与えたのでした。

三越のメッセンジャー・ボーイ 三越のメッセンジャー・ボーイと自転車
ともに三越のメッセンジャー・ボーイ


 日本の自転車は長く輸入車ばかりでしたが、明治26年(1893)、宮田製銃所(現・宮田工業)が製造を開始します。その後、第一次世界大戦のころには輸入が途絶したこともあり、国産車の生産は大きく伸びていきます。そして宮田の国産自転車がはじめて中国に輸出されたのは明治41年(1908)のことでした。

 昭和3年(1928)、日本の自転車台数はついに500万台を突破しました。
 この年、香川県の島に1人の若い女性教師が赴任します。大石久子という名の女性は、洋服で自転車に乗る現代的な女性でした。小説『二十四の瞳』は、『魔風恋風』と並ぶハイカラ女性の物語です。

 日本はその後、戦争に巻き込まれていきます。

 昭和16年、日本は真珠湾を攻撃すると同時にマレー半島に進撃します。長距離の移動が必要だったため、帝国陸軍は現地の自転車を徴発し、自転車部隊を編成します。川があれば担いで渡り、1日100kmほどの進軍をしました。これが「銀輪部隊」と呼ばれるもので、その後のフィリピン戦でも大活躍します。

 戦時中は自転車の生産はストップしていましたが、輸出された高品質の日本製自転車が多数現地にあったため、部品の調達を含め、非常に便利だったと言われています。

銀輪部隊 銀輪部隊
銀輪部隊(上はサイゴン、下はビルマでの渡河)


 さて、夫を戦争でなくした大石先生は昭和21年、ふたたび教壇に戻ります。そのとき、教え子だった生徒が集まるんですが、男子5人のうち3人は戦死、1人は戦場で負傷し失明していました。もしかしたら、自転車に乗って戦った生徒もいたのかもしれません。

 戦後、日本では自転車が大きく普及します。昭和33年(1958)には自転車税も消滅しました。そして、高度成長期には世界一の輸出国になりました。日本は自転車で戦争し、自転車で復興を遂げたのでした。


制作:2010年4月1日

<おまけ>

 ポーランドの科学者キュリー夫人は明治28年(1895)に結婚し、自転車を使って新婚旅行に出かけたそうですよ。ヨーロッパでは日本より10数年早く普及していたことがわかります。

 ところで、民俗学者の柳田國男は『明治大正史世相篇』で次のように述べています。
《村に自転車が入って来てから、若い者が兎角(とかく)出あるいて困るということを、こぼして居る年寄りは多いようである。是(これ)は旅行の用具を居職に応用すれば、いつでも必然に起るべき結果であって……》
 簡単に長距離の移動ができる自転車が村に入り込んだとき、共同体としての村落は崩壊の第一歩を歩み始めるのでした。

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