走るホテル「ブルトレ」の誕生

ブルートレイン
廃止されたブルートレイン(富士&はやぶさ)


 2009年3月13日、東京駅発のブルートレインが姿を消しました。最終列車は、熊本行き「はやぶさ」と大分行き「富士」の連結列車。
 テレビや新聞でもなんだか異常なフィーバーぶりだったので、せっかくなので俺もブルトレに乗ってみたよ。
 
 ブルートレインは、戦後の復興期から高度成長期にかけて相次いで誕生しました。
 ブルトレの基本定義は、「固定編成寝台客車を使用した夜行特急」とされています。この客車がブルーだったため、ブルートレインとされたわけです。なので、客車を引っ張る機関車は必ずしも青だとは限りません。

 日本初のブルトレは、1958年10月に東京〜博多間で運行を開始した「あさかぜ」で、以後40に及ぶブルトレが誕生しました。実は初期の客車は10系の茶色い客車で、20系が登場して初めてブルーになったんだそうですよ。
 この20系は日本で最初に冷暖房を完備し、その高級さから『走るホテル』と呼ばれました。

 さて、俺が乗ったのは3月8日。気合いでとった「はやぶさ」B寝台チケットです。ちなみにチケットのランキングは3つあって、上から広い個室のA寝台、個室のB寝台ソロ、カーテンで仕切られた2段ベッドのB寝台。
 浴衣もあって、いい感じでしょ?

ブルートレイン ブルートレイン
左がB寝台ソロ、右がふつうのB寝台

 
 駅には多くの人が集まって大撮影会。そのざわついた雰囲気のなかで、18時3分、はやぶさが静かに動き始めました。みんな手を振ってくれて「さよなら〜」って。
 鉄道ファンは温かいですな。

 さて、これから熊本まで18時間の旅が始まります。
 超ワクワク! と思いきや、実はほとんどの駅でホームに降りる時間はなく、しかも夜9時には半消灯で本も読めません。俺のベッドは窓のない2階だし、話し相手もおらず(深夜の名古屋まで人が乗ってこなかった)、結局することもなく、夜10時には寝てしまいました(こんな早寝は何年ぶりだろう・笑)。

 というわけで、これでは旅行記にならないので、列車設備&サービスの歴史についてまとめてみたよ。

 新橋〜横浜間で鉄道が開通したのは明治5年(1872)ですが、その翌年には駅で物売りが始まりました。
 車内で座布団の貸し出しサービスが始まったのは明治8年から。

第1号機関車
第1号機関車(旧交通博物館)


 東海道線というのは、明治22年(1889)にほぼ全通しました。明治初頭には東京〜大阪は駕籠代・宿代で11〜12円ほどかかりましたが、東海道線開通によって運賃3円33銭で行くことができるようになりました。
 それまで電車にトイレはついておらず、窓から用を足すのが当たり前でしたが、東海道線に初めてその設備ができたとされます。

ブルートレイン
ブルートレイン
2つ並んだトイレ。中央は封筒みたいな紙コップで飲む飲料水


 車内の照明は昔はランプですが、明治31年に電灯がつくようになりました。
 暖房は上等・中等では湯たんぽが入れられましたが、明治33年からスチーム暖房が入りました。

ブルートレイン ブルートレイン
冷暖房配電盤とJNR(国鉄)のロゴが残る温度計

 ちなみに「上等・中等・下等」というランク付けから「一等・二等・三等」に変わったのは明治30年からだそうですよ。
 

 朝6時過ぎ。 
 車内で人が大移動してることに気づいてついていってみると、弁当の販売が始まっていました。徳山駅から車内販売が始まるんですが、すでに長蛇の列。ここで名物「あなご飯」をゲットして食べました。

 前述したとおり、「はやぶさ」ではどの駅でも降りることができないため、自前で食べ物を持ち込まないと悲惨な目に遭います。もちろん車内販売はありますが、今回はお土産品も含め、出発から数時間で売り切れてました。だから弁当販売は誰もが待ち望んでいたわけです。

東海道線の食堂車(1954年)
東海道線の食堂車(1954年)

 昔は寝台特急といえば食堂車が有名でした。
 東京〜神戸で初めて寝台車ができたのが明治33年で、翌年から食堂車が始まりました。ただし全区間というわけではなく、国府津〜沼津、馬場(現在の膳所)〜大谷、神戸〜京都など限定的なものでした。
 寝台車の設置で、もうひとつ新たに始まったサービスが列車のボーイです。新橋、神戸、名古屋に美男子をそろえ、6名ずつ寝台車に乗り込んだといいます。明治41年の夏には、東海道線だけでボーイが数百人いたと記録されています。

 現在、基本的に列車は禁煙ですが、鉄道が開通した当時から、すでに分煙が行われていました。鉄道規則に「吸煙車の外は煙草をゆるさず」とあるんですが、ただしこれは有名無実化していました。どうしてかというと、禁煙車がなかったから。結局、禁煙車ができたのは、明治41年のことでした。

列車車両
この列車ではすでに灰皿は見あたりませんでした

 8時32分、下関到着。
 ここでは機関車の付け替えという大イベントがあります。言うまでもなく鉄ちゃんたちはその情報を知っているため、ドアが開いた瞬間、先頭へ向かって猛ダッシュ!! あっという間に人だかりができましたが、すぐに「発車しま〜す」のアナウンス。朝の全力疾走にみんな息も絶え絶えですよ。


機関車付け替えのビデオ


 さて、動画を見ればわかるとおり、客車には1本の白い線がありますな。実はこれが寝台車の特徴です。
 ムリヤリ話を続けますが、かつて明治35〜36年頃までの東海道線には、客室のガラス窓に白い1本の線が引かれていました。これは初めて汽車に乗った人が、ガラスに気づかず頭をぶつけないようにするための配慮でした(本当です)。

 列車は九州に入り、最初の駅が門司。ここでは東京から連結されて走ってきた「はやぶさ」と「富士」の切り離し作業が行われます。6両目で切り離すんですが、俺は5両目だったので、いい撮影場所をキープできました。ラッキーと思いきや、すぐに「はやぶさ出発しま〜す」との叫び声が。あわてて戻ったとたんに出発。
 あまりのせわしなさに驚きますが、実際、勘違いした「富士」のお客さんが「はやぶさ」に残っていて、「どうしたものか」と車掌さんと相談中でした。次の小倉で待ってれば「富士」が来るので大丈夫ですけどね。

富士トレインマーク
富士トレインマーク


 で、時間のないなか、なんとか撮れた後続「富士」のマークが上の写真。
 このマーク、トレインマークというのですが、制定されたのは昭和4年(1929)のことでした。当時の鉄道省が愛称を公募したところ、実に1万9902票が寄せられ、1007票を取った「富士」が見事1位になりました。
 以下、「燕」「桜」「旭」「隼」「鳩」「大和」「鴎」「千鳥」「疾風(はやて)」の順です。

 こうして、当時最高クラスだった長距離列車に「富士」の名前がつき、大衆向けだった列車に「桜(当時は櫻)」の愛称がつけられました。 
 そして2位の「燕(つばめ)」は、翌年(1930)に運行が始まった超特急につけられました。東京〜大阪は従来の「富士」で約11時間かかりましたが、「燕」はなんと8時間20分。実に2時間半も時間を縮めたのです。

昭和30年頃の「つばめ」
昭和30年頃の「つばめ」

 さて、今回オレは終点の熊本で降りず、1つ前の大牟田で降りました。ここから西鉄に乗って柳川まで行き、さらに大川を経て佐賀に向かったのです。

 大川と言えば日本有数の家具産地。ではこの家具をどのようにして運んだのか?
 答えは、昭和10年に開通した国鉄佐賀線でした。

 その佐賀線が渡る筑後川には、全長507mの昇開橋が架けられました。船が通れるように、橋桁が上下するわけですな。有明海は干満の差が激しいため、工事は困難を極めたといいますが、そのあまりの美しさから、昭和62年(1987)に佐賀線が廃止になってからも残されました。その後、この橋は重要文化財と機械遺産の認定を受けています。

昇開橋
昇開橋


 夕方、俺は佐賀に着いたのですが、ここでの目的地は佐賀城本丸歴史館。ここに日本最古の「蒸気車雛型」(模型蒸気機関車)の復元模型が展示されているんですよ。
 幕末の蒸気機関車といえばアメリカのペリーが持ち込んだものが有名ですが、それより半年ほど前の嘉永6年(1853)、ロシアのプチャーチンが長崎に持ち込んだ模型蒸気機関車を警護に当たっていた佐賀藩の人間が見ているんですね。それで、藩主の鍋島直正の許可を得て日本で初めて作ったのがこの模型。 1855年のことです。

日本初の蒸気機関車の模型
日本初の蒸気機関車の模型(複製)


 しかし、この模型制作が実際の鉄道に応用されることはありませんでした。日本で鉄道が開通するのは、それからおよそ20年後、明治5年(1872)のことでした。

●寝台特急「日本海」最終便に乗ってみた

制作:2009年3月19日

<おまけ>
 当時の佐賀藩は日本有数の精練方(機械工場)を持っていたのですが、実際の蒸気機関車(と蒸気船)の製造は久留米の田中久重が担当しました。田中久重は明治維新後、工部省に招聘されて上京し、芝浦製作所を創設しました。これが現在の東芝ですね。

<おまけ2>
 昇開橋の先には、総延長6kmに及ぶデ・レーケ導流堤(オランダ堤)と呼ばれる堤防があります。明治23年(1890)、ヨハネス・デ・レーケによって建設されたもので、筑後川の蛇行を防ぎ、流速を上げることで、土砂の堆積を防ぐ役割を果たしました。これにより、航路が維持できたのでした。
デ・レーケ導流堤
この長大さはどうよ?
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