日本初の映画上映会

浅草六区
浅草六区の映画街(1911年)


 かつて映画は「活動写真」と呼ばれていました。
 いったい誰が命名したのかというと、一般的には福地桜痴とされています。ただし、十文字大元も荒木和一も「自分が命名した」と語っており、正確なところはわかりません。
 で、石井研堂の『明治事物起原』には、興行主で機械技師でもあった杉浦誠言が、自分と、アメリカに帰化した柴田某と福地桜痴の3人が名付けたとしてしています。

 要は、明治26年(1893)、柴田がアメリカから持ち帰ったバイタスコープ(エジソンが開発したスクリーン投射式映写機)の上映会を行い、大人気を博した、という話です。これが、日本初の映画上映となりますね。
 面白いので、旧仮名を修正し、全文を公開しておきます。

《日清戦争前、明治26年の春かと思う。京橋区三十間堀に新井商会という貿易商があった。余は商業取引の用向で毎日のように出入して居った。
 新井商会の主人の友人に米国に帰化した柴田という人が、バイタスコップと称する機械と其機械の技師米国人シックという者を連れて渡来した。このバイタスコップ、今日の活動写真なのである。

 動く幻灯だというので、それは面白そうだ、是非見たいものだというと、電気動力が必要だという。で、早速蔵前の電灯会社へ送電を申込むと、会社では、疑懼(ぎく)して、兎も角(ともかく)会社内で試験して欲しいというので、其(その)夜、会社の庭で試験した所が、会社で心配したようなことも無かった。

 但、其の映り方が甚だ面白くなかったので、更に万事を整へて新井商会の倉庫の中で、夜の12時過から5間の隔りで映じて見ると非常な好成績。画中の事物が悉(ことごと)く活動するので、初めて見た連中、只もう感心するばかり、果ては対向の白幕(スクリン)の裏に何か仕掛があるのでないかと裏へ廻って改めて見る者さえ有った。

 そこで、之を一つ興行すると、吃度(きっと)当るからと、柴田を連れて遊び友達の福地桜痴を尋ねて相談すると、ヂヤ歌舞伎座で兎も角一度試験して見ようって、其晩、芝居がはねてから、本花道の出口へ機械を据えて舞台へ斜に映すと、頗(すこぶ)るお誂(あつら)えの映り加減に、桜痴居士も大に賛成して戮力(りくりょく=協力)することになった。

 ところで、愈々(いよいよ)興行するにしても、原名のバイタスコップでは覚えにくいから、日本風に誰にも分る名にしたが好いと、茲(ここ)で3人が、活動幻灯が好かろう、イヤ活動写真が好かろうなど相談したが、トドの詰り、活動写真と銘打つ事に極った。実に活動写真という名称の名付け親は、私と、柴田と福地とこの3人なのです。

 此(この)話を歌舞伎の座主へ話すと、座主も大変喜んで、吃度大入を取るだろうと、万事テキパキと話が進んだが、只、団十郎が苦情を持込んで来た。日本一のこの座に、そんな物を掛けて貰っては困る、それとも、是非掛けるというなら、今後私は歌舞伎へ出ないと、ダダを言って承知しない。

歌舞伎座
当時の歌舞伎座


 仕方がないから、終に神田の錦輝館でやることにした。昼夜2回、開演1週間興行、入場料は特等2円、普通1円・50銭・30銭、其広告は、三十間堀の広め屋に頼み、旗が20人、チラシ配りが30人、日立300円の費用で、堂々と大広告をやった。これは技師のシックが米国式の広告を教えてくれたのに基いたのだ。

 さて、蓋を開けると、連日大満員の上景気で、日延日延で18日間興行した。やればまだ打てたけれども、2階が墜落したので、建物が危険だといって、小面倒な官の命令などが有ったのでやめた。そして、その時のフィルムは、どんなものであったかというに、最短40尺、最長70尺、すべて16種で、お客に見せる時は、一種を3回も4回も繰返して立て続けに見せたものだ。それでもお客は大満足、拍手喝采を絶たなかった。
 
 此時は、動力に電気を使わないで、石油発動機を用いた。それは、丁度、十文字大元が米国から帰朝し、其将来した極新らしい物であった。

 柴田が輸入した機械の外に、其時分、フランス製の機械とフィルムが横浜に来て居た。それを同市山ノ手辺で一度外人が開演したそうだが、唯外人一部の目に映じただけで済んだ。其機械が手に手を経て在京伊太利公使館ブラチャインの所有となった。其頃、錦絵売込で出入して居た吉沢事(こと)、河浦謙一が才子だけに早速借受けることになって、横浜の某座(横浜電灯会社傍)で開演した。

 客足は中々多いが、肝腎の写真が鮮明に映らないので大弱り、一つ来て貰いたいと、私に頼んで来たので、私が技師然として出張した。河浦は幻灯の格で、スクリンの裏から映じて居る。おまけに、画面を鮮明ならしむは、スクリンに光線を吸収さする法を施さねばならぬというて、2人の道具方が、荒神箒へ水を含ませて頻(しきり)に水を浸込ませて居る騒ぎ。私は之を見て可笑しくて腹の皮をよった。早速前面から映させると頗(すこぶ)る完全に映ったので、一同万歳と市が栄えた。

 併(しか)し此の写真はフランス一流の頗る挑発的のものでした。目下活動界の重鎮たる河浦氏が活動写真に始めて指を染めたのはこの時なのです。そして、30年の2月に、吉沢が錦輝館で開いた時などは、2ケ月間、昼夜2回づつ打通しという盛況でした。
 水素瓦斯で、活動写真を映出することは、有名なぽんたの旦那鹿島清兵衛さんの工夫です》

 途中に出てくる河浦謙一が経営する吉沢商店は、日本最古の映画会社の一つで、浅草公園に巨大施設「ルナパーク」を開設しています。後に合併により日活となります。
 また、最後に出てくる鹿島清兵衛とは、写真界のパトロンとして有名な人物で、本人も明治28年(1895)に歌舞伎座で日本初の舞台写真(9世市川団十郎の「暫」)を撮影しています。ぽん太は美人絵葉書のモデルとして有名な人物。
 当時はもちろん音声がなく、活動弁士が活躍しましたが、もっとも有名なのが駒田好洋。説明中に「すこぶる非常」という言葉を多用したため、流行語となりました。


 では、大阪はどうか。やはり『明治事物起原』によると、エジソンのキネトスコープを日本に初めて導入したのは、大阪の荒木和一です。

 荒木がサンフランシスコを訪れたとき、初めてキネトスコープを見ました。覗き眼鏡のようななかに、50尺の景色が写ったフィルムがあり、回転しています。覗くと、まるで人が活動しているように見え、大変驚きました。荒木はキネトスコープを1万円で買い、帰国。
 明治28年(1895)8月頃、大阪の南地演舞場の2階で、神戸の高橋信治(鉄砲屋)、大阪の三木福助(時計屋)が中心となって、2分10銭で興行したところ、大入りとなりました。

 荒木は再び渡米し、エジソンが改良したキネトスコープに蓄音機、X線の器械も一緒に購入してきました。映写には非常に強い光が必要だったため、電灯会社や鉄工場に依頼してテストを重ね、明治29年2月23日、はじめて新町でエジソン式の活動写真を上映しました。
 日清戦争後だったため、李鴻章が馬車に乗ってロンドンに着いた光景を映しただけで、拍手喝采でした。

 なお、一般にはキネトスコープの初上映は、明治29年(1896)11月25日から12月1日まで、神戸の神港倶楽部で行われたとされています。映画の日が12月1日になったのは、ここから来てるんですね。
 その後、荒木は関西各地で興行を続け、明治36年には、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会に「不思議館」を建て、米国女優カーマンセラの火焔の舞と活動写真を呼び物としました。このとき、ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(1902)も上映されたようです。

 一方、リュミエールのシネマトグラフの初上映は、明治29年2月20日。フランスから帰国した稲畑勝太郎が持ち込み、明治29年2月20日、南地演舞場で上映を行いました。内容はボートレースの映像などでしたが、これはエジソンのキネトスコープ上映の3日前のことです。まさに大阪で米仏の新発明が鉢合わせしたわけです。

第5回内国勧業博覧会の不思議館
第5回内国勧業博覧会の不思議館


 さて、明治32年、神田の錦輝館で『米西戦争活動大写真』が上映されたのがニュース映画の始まりです。
 その後、明治36年(1903)になると、フィルムを着色した疑似カラー映画が登場します。
 重要なのは明治37年になって日露戦争が開戦したことです。映画館では戦地の様子が次々と上映され、人々はこぞって映画館を目指しました。戦場の映像はこれ以上ないスペクタクルで、日本人は戦争を「動画」で見る驚きを味わったのです。

子供博覧会
第1回子供博覧会(三越)


 明治42年、三越で子供博覧会が開催されました。このとき、東京から名古屋までの車窓風景を撮影し、会場に模造した機関車に客を乗せて、まるで汽車の旅をしているような出し物が登場します。あまりに好評で、後には鉄道省が東京〜長崎バージョンを作成したほど。
 映像は、こうしてイベントでも多用されるようになったのです。

<関連リンク> ●映画誕生写真とフィルムの誕生


制作:2012年9月17日


<おまけ>
 日本における映画撮影は、明治27年、東京の小西写真機械店がフランスから輸入したカメラで撮影したのが最初です。機材を銀座の広告代理店・広目屋が購入し、新橋芸者の手踊りなどを撮影しました。同年、三越の店頭を撮影し、上映したものが、映画を初めて広告に利用したものです。ただし、残念ながら映像は現存していません。
 明治30年、稲畑勝太郎と一緒に来日したリュミエール社の技師コンスタン・ジレルが日本各地を撮影し、その後、やはりリュミエール社から派遣されたガブリエル・ヴェールも日本で撮影を行いました。ほかに日本人の柴田常吉というカメラマンが撮影しており、これらが日本を撮影した最古の映像だとされています。

 なお、一般に、東京初の映画上映は明治30年の錦輝館だとされています。この元ネタは『風俗画報』(明治30年4月10日号)なんですが、もしこれが事実だとすると、日本初の映画上映は大阪になります。ですが、前記『明治事物起原』のほか、『近代世態風俗誌』『文芸倶楽部』(明治41年10月号)などで初上映は明治26年だと書かれているので、こちらが正しいと思います。つまり、日本初の映画上映は東京・神田ということになりますね。

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