戦前のバイブル「教育勅語」を解説

教育勅語
教育勅語を下賜


 大阪城の隣に「教育塔」という記念碑があります。室戸台風(1934年)を機に立てられたもので、災害・事故などで犠牲となった生徒達の慰霊碑です(建設は1936年)。そのレリーフには、「教育勅語」を奉読する姿が刻まれています。

教育塔
教育塔


 教育勅語は1890年(明治23年)に発布された「明治天皇のお言葉」で、国民道徳の絶対基準とされました。翌年には「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定され、学校では「ご真影」と「教育勅語」がもっとも神聖なものとなりました。

 特に昭和前期になると、学校行事のたびに奉読していたため、ある程度以上の年齢の人なら、きっと、今でも全文暗記しているはずです。ちなみに妹尾河童の『少年H』には、

《校長先生が巻物になっている教育勅語を恭しく読む間は、全員頭を下げた姿勢で、三分間ほど絶対に動いてはいけないことになっていた》

 などと書かれています。

教育塔
教育塔のレリーフ


 教育勅語は、戦後、悪の象徴とされ、1946年に奉読と神格的取り扱いが禁止、1948年には失効確認が決議され、以後は、触れることさえタブーになってしまいました。しかし、帝国主義の時代、この教育勅語の下に国民が一致団結したおかげで、日本が植民地にならずにすんだという指摘もあります。

 というわけで、いまや幻になってしまった教育勅語を全文公開します。当時の生徒さえ意味がわからなかったという難解で厳粛な文章なんで、いったい、何人が読解できることやら?

 なお、原文は315字からなっていて、句読点や段落、ルビなどいっさいありません。そのため、読みやすいように句読点などをつけておきました。漢字はできるだけ原文の味を出すため、旧字を使用しました。

教育勅語
乃木希典が書いた「教育勅語」
 
 
 朕(ちん)惟(おも)フニ、我カ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳(とく)ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。
 我カ臣民、克(よ)ク忠ニ、克(よ)ク孝ニ、億兆心ヲ一(いつ)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此(こ)レ我カ國體(こくたい)ノ精華(せいか)ニシテ、教育の淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存(そん)ス。

 爾(なんじ)臣民、父母ニ孝ニ兄弟(けいてい)ニ友ニ夫婦相(あい)和(わ)シ、朋友(ほうゆう)相(あい)信シ、恭儉(きょうけん)己(おの)レヲ持シ、博愛衆(しゅう)ニ及ホシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發(けいはつ)シ、徳器(とっき)ヲ成就シ、進(すすん)テ公益ヲ廣(ひろ)メ、世務(せいむ)ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重(おもん)シ、國法ニ遵(したが)ヒ、一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレハ義勇(ぎゆう)公(こう)ニ奉(ほう)シ、以(もっ)テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ。是(かく)ノ如キハ、獨 (ひと)リ朕カ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民タルノミナラス、又(また)以テ爾(なんじ)祖先ノ遺風(いふう)ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足ラン。

 斯(こ)ノ道ハ、實(じつ)ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ、子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スヘキ所、之(これ)ヲ古今ニ通(つう)シテ謬(あやま)ラス、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラス。朕(ちん)爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々(けんけん)服膺(ふくよう)シテ、咸(みな)其(その)徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。

  明治二十三年十月三十日

   御名 御璽


 以下、1936年(昭和11年)に出版された『教育勅語画解』から、教育勅語の解説を書いておきます(以降の文章は、本サイトの見解ではありません)。

教育勅語下賜
教育勅語の下賜

【教育に関する勅語の御下賜】

 明治の始め、開国進取の方針となってから、日本は一足飛に世界の文明国の仲間に加わりました。けれども西洋の文物は善いも悪いも一時に我が国に流れ込んだのですから、昔からの「ありきたり」は善いも悪いも一様に「旧弊」といって軽蔑する新しがりやが増えました。これに対して、古風な人はまたむやみに古いことをいって非難しました。

 そういうわけで、明治20年前後は我が国の思想界が大変混乱した時代でありまして、一般の人々はどちらについて行けばよいのか、さっぱりわけがわからなくなりました。
            
 明治天皇はかねがね教育のことをお案じなされていましたが、この有様を御心配になって、教育に関する勅語を賜わったのであります。

 上の図は先に立つのが時の内閣総理大臣山縣有朋、後に勅語を棒げるのが文部大臣・芳川顕正であります。明治23年10月30日、この日、折りあしく天皇は御病気であらせられましたので、高等師範学校に行幸のうえ、お下しになるはずのところをお取りやめになって、特にこの二人を宮中奥御殿にお召しになりました。

 二人は恭しく勅語を拝受して御前を退き、今、御学問所の前をさがって来るところであります。

 ひとたび勅語が下りますと、さしもの議論は一時に鳴りをしずめ、国民は昔ながらの、しかもいつまでも動かない我が国「徳教」の大本に立ち帰るべきことを知りました。

【教育勅語の大意】

 教育に関する勅語は、明治天皇が国民の従い守るべき道徳の大綱を示したものです。
 勅語は全文を3段に分けると趣旨がよく理解できます。

 第1段は国体の性質を明らかにしています。

《我カ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳(とく)ヲ樹(た)ツルコト深厚(しんこう)ナリ。》

 これは建国以来、皇室が大きな徳を持っていたという特質を示しており、

《我カ臣民、克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一(いち)ニシテ世々(よよ)厥(そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ》

 は忠孝という臣民の長所を示しています。《此(こ)レ》は両方を総括し、以上がわが国柄の「純」であり「美」である点で、わが国の教育の基づくところもやはりこの点にあるという趣旨だと思われます。

 第2段は「忠孝」「信義」「法の遵守」といった国民の心得の要目を示したもので、私たちが実践すべき点を列記したものです。

 第3段には、

《斯(こ)ノ道ハ、實(じつ)ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶(とも)ニ遵守スヘキ所、之ヲ古今ニ通シテ謬(あやま)ラス、之ヲ中外(ちゅうがい)ニ施シテ悖(もと)ラス。朕(ちん)爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々(けんけん)服膺(ふくよう)シテ、咸(みな)其(その)徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ。》

 とありますが、これはわが国民の守るべき「道」の由来と価値を明らかに示したもので、畏れ多くも天皇陛下自ら、我ら臣民とともにこの道を実践躬行(じっせんきゅうこう)して、皆その徳を同じくしようと望んでいらっしゃるのです。

教育勅語
東郷平八郎の「義勇奉公」

【個々の具体例】

●我が皇祖皇宗
伊勢神宮
伊勢神宮に祀られている天照大神以降の歴代天皇のことです

●国を肇(はじ)むること
天孫降臨
天照大御神の命により、ニニギノミコトが高天原より地上に降りたこと。これを天孫降臨と呼びます

●宏遠(こうえん)に
神武天皇東征
神武天皇は、天照大神の意向を広く伝えるため、日向(宮崎)から中央に出て、橿原で即位。これが紀元元年です

●徳(とく)を樹(た)つること深厚(しんこう)なり
仁徳天皇
たとえば、仁徳天皇が貧困に苦しむ農民の税金を3年間免除した結果、国が豊かになったことを指します

●我が臣民、克(よ)く忠に
菅原道真
たとえば、菅原道真がよく学んだことで、天皇から信任を受けたことを指します。道真は九州に流されても、恩賜の御衣を大切にしていました

●克(よ)く孝に
豊臣秀吉
豊臣秀吉が朝鮮征伐のさなか、活きのいいタイを母の元に送り、残ったタイで宴会を開いたようなことを指します

●忠孝一致
楠木正成と楠木正行
父・楠木正成に「忠節に励め」と言われた息子・正行が、父の教訓を守り、朝敵と戦い、最期は忠死したようなことを指します

●兄弟(けいてい)に友に
曾我兄弟
鎌倉武士の子だった一万と箱王という兄弟は、長じて父の敵を取りました。これがあっぱれ曾我兄弟の話です

●夫婦相(あい)和(わ)し
農村風景
たとえば、農村で大きな月を家族みんなで見ているような状況を指します。夫婦、家族が仲良ければ、国力は発展します

●朋友(ほうゆう)相(あい)信じ
西郷隆盛
西郷隆盛は、親友の僧・月照が幕府に追われると、一緒に海に飛び込んで自殺を図りました(西郷は奇跡的に助かります)

●恭倹(きょうけん)己(おの)れを持じ
貝原益軒
たとえば、高名な学者・貝原益軒は知ったかぶりの相手にも、きちんと応対しました。恭倹こそ礼儀の基本です

●博愛衆(しゅう)に及ぼし
博愛社
西南の役では、博愛社が敵味方問わず治療を行いました。これが日本赤十字社の起原です

●学を修め
紫式部
たとえば、紫式部はうるわしい仮名文で源氏物語を書きました。博識だけでなく、徳望もありました

●業を習い
柿右衛門
名工・酒井田柿右衛門が、苦心の末、柿色の焼き物を作ることに成功したような話を指します

●公益を広め
行基
僧の行基が、諸国に仏教を広めながら、交通や水利を整備したようなことです

●世務(せいむ)を開き
二宮尊徳
世務とは世の中に有益な業務のこと。たとえば二宮尊徳は、荒れ地になっていた土地を苦心惨憺の末、復興させました

●国憲を重(おもん)じ、国法に遵(したが)い
選挙
憲法や皇室典範などの法律を守ることです。特に選挙は重要です

●一旦(いったん)緩急(かんきゅう)あれば義勇(ぎゆう)公(こう)に奉(ほう)じ
弘安の役の河野通有
弘安の役では、32歳だった河野通有が、一族郎党を引き連れ、大活躍しました

●天壤無窮(てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし
和気清麻呂
扶翼とは助けること。たとえば、道鏡が「宇佐神宮のお告げなので位を譲れ」と天皇に迫ったとき、和気清麻呂は「宇佐神宮の本当のお告げは皇統一系」と諫言しました。こうして皇統は守られ、和気清麻呂は護王神社として祀られました

●咸(みな)其(その)徳を一(いつ)にせんことを庶幾(こいねが)う
宮城・皇居
草木が太陽を仰ぐように、私たちも宮城を伏し拝みましょう

制作:2017年3月2日


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