幻の新幹線計画
東京発北京行き「弾丸列車」

特急「富士」
在来線「富士」を“弾丸”に!

 2003年10月1日、新幹線の品川駅が開業しました。東海道新幹線が開業したのは39年前の昭和39年(1964)10月1日。この日に合わせたのも、“何かの縁”ということですな。

 実のところ、新幹線は昭和29年(1954)に完成するはずでした。正確に言えば、昭和15年(1940)からの15年計画ということです。
 この列車は、最高時速200キロ、東京ー大阪を4時間、東京ー下関を9時間という、当時としては驚異的なスピードで運行される超特急で、「弾丸列車」と呼ばれました。

 弾丸列車の終着駅は下関ではありません。
 計画では、下関から世界最長の「朝鮮海峡海底トンネル」(全長約200キロ)を経て釜山へ。さらに、京城(現ソウル)、奉天(現瀋陽)を通過して、片や満州国の首都・新京(現長春)へ、片や北京へと到達するスーパー国際列車でした。
 新京までは35時間40分、北京までは49時間10分の旅です。
 従来、特急「富士」を使って下関まで行き、そこから船使用で新京まで行くのに52時間かかったので、まさに「弾丸」の名にふさわしいスピードです。

弾丸列車計画
列車計画図(『写真週報』242号=1942年10月14日号より)


 ちなみに運行計画書によれば、北京までのダイヤはこんな感じです。

<1日目>
東京06:20発→(乗車9時間)→下関15:20着→(待ち合わせ50分、乗船7時間30分)→釜山23:40着→(待ち合わせ50分、乗車5時間50分)→

<2日目>
京城06:20着→安東で税関検査後、奉天18:00着(列車はここで2ルートに分離)
→(北行)新京21:40着

<3日目>
→(南行)山海関で税関検査後、北京07:30着


 弾丸列車計画の実現には、立ちはだかる大きな壁や課題がいくつもありました。具体的には狭軌か広軌か、電気機関車か蒸気機関車か、朝鮮海峡をどう輸送するか、などです。日本は明治以来、狭軌を使っていましたが、大陸では国際標準の広軌でした。
 また、電車や電気機関車の場合、発電所や架線が爆撃されたらすべてがストップしてしまう可能性があります。その点、蒸気機関車は自律運転だから問題はないという意見も特に軍部から多発しました。
 こうした問題の解決に執念を燃やしたのが、鉄道院の島安次郎です。島は、日本国内では実験できない広軌で高速走行試験を繰り返します。
 日本が誇る満鉄のパシナ型機関車「あじあ号」を使って、時速150キロ走行に挑戦するのです。しかし、140キロを超えると、激しいねじれ振動が起こりました。これはレールの基盤をしっかりさせることで解決します。

満鉄あじあ号
満鉄あじあ号(『科学朝日』1942年10月号)


満鉄あじあ号の客車
満鉄あじあ号の客車(①が一等展望車、②が食堂車)

 問題はまだありました。弾丸列車の総工費は5億5千万円、全体の24%がトンネル工事費です。なかでももっとも難関とされたのが、熱海の新丹那トンネル。全長7880メートル。富士火山帯からの熱湯で難工事が予想され、工事期間は7年半を予定しました。逆にいえば、ここさえ完成すれば、かなり建築計画が確実になると思われていたのです。

新丹那トンネルの起工式
1942年3月20日の起工式

新丹那トンネルの工事現場
これが工事現場

 
 さて、戦局の泥沼化はこのプロジェクトにも深刻な影響を与えます。
 昭和18年12月に出された報告書『昭和十九年度新幹線実施方針』には、

《目下工事中のものは新丹那隧道其他工事、日本坂隧道其他工事及新東山隧道工事の三件であるが……新丹那隧道其他工事は……未だ完成迄に長期日を要するを以て工事中止が現在線に影響を及ぼさざる程度に整理工事を行ひ十八年度限り中止する予定である》

 とあって、結局、工事は中止してしまいます。関係者たちの無念は想像にあまりありますね。

《然しながら新幹線の使命の重要性と長期計画たるに鑑み計画の一貫性を保持し後年度情勢の変化に伴ふ工事の促進に備ふるため計画未決定区間の計画の確立及諸設計を促進せんとするものである》

 この強い思いが、戦後の新幹線建設を成し遂げるパワーとなりました。実際のところ、弾丸列車も新幹線もほとんど計画に変更はなく、もちろん途中で工事が止まった新丹那トンネルも使われています。

 
 もはやほとんど忘れ去られた幻の新幹線計画。
 本当は関係者たちの熱い思いでその成功をたたえたいところですが、戦後の新幹線が予想以上のスピードで完成した理由は他にあります。
 総工費のおよそ13%が土地買収費だったんですが、なにしろ戦争というご時世だったため、土地買収に応じなければ非国民扱い。

《関係者が、土地をもっている一軒一軒を訪ねてきて交渉するというのではなく、乱暴にも、まとめて、この付近一帯の路線に当たる土地を買い取りたいとのことであった……測量の担当者が来て、いきなり「くぎを打たしゃい」といってくぎを打っていった》(前間孝則『亜細亜新幹線』)

 ということで、弾丸列車の土地買収は非常に効率よく(=つまり強引に)進められました。このことが、戦後、新幹線がかなり早く建設できた最大の理由でした。
 
 成田空港の土地買収を考えれば分かるとおり、戦後の「民主的な」プロジェクトは、個人の権利に押されて、なかなかうまく進みません。
 言い換えれば、もし新幹線計画が戦後に立案されたなら、土地買収もうまくいかず、予算は膨大になり、きっと現在の効率いい運行はあり得なかったでしょう。
 戦争の恩恵を被った最大の果報者は、もしかしたら新幹線なのかもしれません。


制作:2003年9月29日

<おまけ>
 戦前日本の鉄道計画は、弾丸列車で終わりではありません。
 最終的には、大東亜共栄圏を縦断し、昭南(現シンガポール)まで到達する大鉄道網を亜細亜に建設するはずでした。ルート案はいくつもありましたが、主なものは、北京から更に漢口、ハノイ、バンコクを通って昭南へ。
 一方、シルクロードを横断してベルリンまでのルートも想定されました。熱心だったのが鉄道省ベルリン事務所長だった湯本昇。背景には、1936年11月に「日独防共協定」が結ばれ、東京ーベルリン間の行き来が頻繁になってきたことがありました。当時は、まさに壮大なプロジェクトが進行していたのです。
中央アジア横断鉄道
国会図書館所蔵『中央亜細亜横断鉄道概要』より

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