電信の歴史と写真

日本初の電信実験
日本初の電信実験


 日本に電信が伝わったのは、安政元年(1853)年のことでした。ペリーが幕府に電信機を献上したのです。ペリーの遠征記には、電信実験に極めて強い関心を示す日本人の姿が次のように書かれています。

《電線は真直ぐに、約1哩(1マイル=1600m)張り渡された。一端は條約館に、一端は明かにその目的のために設けられた1つの建物にあった。
 両端にいる技術者の間に通信が開始された時、日本人は烈(はげ)しい好奇心を抱いて運用法を注意し、一瞬にして消息が、英語、オランダ語、日本語で建物から建物へと通じるのを見て、大いに驚いた。
 毎日毎日、役人や多数の人々が集って、技手に電信機を動かしてくれるようにと熱心に懇願し、通信を往復するのを絶えず興味を抱いて注意していた》(『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫)


 この電信機を13代将軍・徳川家定の前で実験したのが、勝海舟と小田又蔵でした。これは1855年のことです。

ペリーから献上されたモールス電信機
ペリーから献上されたモールス電信機


 さて、慶応2年(1866)、福沢諭吉が『西洋事情』に電信(「伝信」と表記)について書いており、これで初めて一般人も電信とはなにか知りました。

《其の神速なること、千万里と雖(いえど)も一瞬に達す。各処に線を通ずるには、其道筋三、四十間毎に柱を建て、高さ八、九尺の所に線を掛く。(中略)
 現今西洋諸国には、海陸縦横に線を張ること恰(あたか)も蜘蛛の網の如し。互に新聞を報じ、緊要の消息を通じ、千里外の人と対話すべし》(『西洋事情』)


 で、これが『西洋事情』の扉絵。まさに現在のインターネットを彷彿とさせる絵柄ですな。インターネットのウェブとは「蜘蛛の巣」のことで、電信線を「蜘蛛の網」と書くあたり、福沢諭吉の先見の明に驚くしかありません。

西洋事情
完全にインターネット

 
 そして、明治2年(1869)、東京〜横浜間の電信架設が始まります。東京の築地運上所(税関)から横浜裁判所まで、約32kmに電柱593本を立て、初めて電信が実用化したのです。

明治2年の電信架設風景
明治2年の電信架設風景(東京・大森付近)


 ですが、この当時、やはり電信は庶民には理解できるものではなく、「針金で遠くのことが分かるなんて、ありゃキリシタンの魔法に違いない。どうも処女の生き血が塗ってあるらしい」といった噂が広まりました。

 また武士は「夷狄(いてき)の下を潜るなど汚しゅうござる」と扇子をかざして通るし、「話がわかるなら手紙も届くだろう」と、電線に手紙を吊す者もいたんだとか。

電信局
明治2年12月、横浜裁判所内の電信局の様子

電信機
明治3年、神戸〜大阪間で使用された電信機。右が発信機、左が受信機


 なかなか文明開化までは遠いですが、その後、明治3年に大阪〜神戸、明治6年に東京〜長崎、明治7年に東京〜青森、明治8年には青森〜函館間が開通し、明治維新後10年もたたずに、日本縦断の電信網が完成したのでした。


制作:2006年5月14日


<おまけ1>
 日本初の電信が開通した東京の築地運上所に見習いとして勤務していたのが、幸田成行。彼はその後、電信技師として北海道余市に赴任しましたが、坪内逍遥の小説に感化されて、突如、上京します。
 そして、『五重塔』などの作品を発表し、文学界に名前を残しました。その名を幸田露伴といいます。

<おまけ2>
 日本人で最初に電信実験を見たのは、ニューヨークに渡っていたジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)です。これは1853年のことで、ペリー来航直前のこと。

 で、さらにいうと、本当は日本初の電信実験はペリーによるものではありません。
 嘉永2年(1849)、松代藩士の佐久間象山が、オランダ語の文献を元に、70mほどの通信実験をしていたことがわかっています。
 松代町には、現在もこのとき実験に使った鐘楼が残されています。

 佐久間象山がこの実験をしたのは、サミュエル・モールスが世界初の電信機を開発した、わずか5年後のことでした。

日本電信発祥之地
「日本電信発祥之地」記念碑

日本電信発祥之地
鐘楼
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