東京の富士山を登る!

富士山登山口
富士山登山口

 
 1830年代に刊行された江戸のガイドブック『江戸名所図会』に、次のような項目があります。

《高田富士山
 稲荷の宮の後にあり。巌石を畳んでその容(かたち)を模擬す。安永9年庚子に至り成就せしとなり。この地に住める大先達藤四郎といへる者、これを企てたりといふ。毎歳6月15日より同18日まで、山を開きて参詣をゆるす。山下に浅間の宮を勧請してあり。》 


 高田とは現在の高田馬場〜早稲田周辺で、このあたりに富士山があったと書かれているのです。正確に言えば現在の早稲田大学9号館(商学部)のあたり。

日本初の「江戸の富士山」
日本初の「江戸の富士山」


 つまり、1779年6月(安永9年となっていますが、正確には安永8年)、藤四郎という人物がここに模擬富士山をつくったと。で、山開きの4日間だけ登山できたと。なんだかビックリするような話なのです。

 但馬(兵庫)で生まれた藤四郎は11歳で江戸へ出てきて、富士講に入信しました。富士講とは江戸時代中期以降、大ブームとなった富士山信仰のこと。
 藤四郎は師匠(講元)の食行身禄が享保18年(1733)富士山烏帽子岩(吉田口7合目)で断食で死ぬまで仕え、その後、身禄同行という新しい富士講を設立します。
 この新富士講は江戸の富士山信仰で中心的な存在となったため、藤四郎は土や石を集めて富士山を築造することにしたのです。選んだ場所は湧水があって水稲荷と呼ばれていた土地。この湧水は徳川家光が命名したという「イモリの池(守宮池)」につながっていて、庶民の憩いの場所だったみたい(上図左下が「イモリの池」)。

 こうして9年5カ月かけて完成したのが10mの富士山でした。
 麓には富士山の浅間神社を勧請し、鳥居、石坂、そしてイモリの池には水垢離場を作ったのでした。さらに中腹には小御獄の宮(富士山5合目の神社)や日蓮聖人の旧跡を書いた経が宮などがありました(上図右上が浅間神社)。

 山開きのときには多くの茶店や水菓子売り、麦わらのヘビ(魔除け)屋などが出て、夜遅くまでずいぶん賑わったとされています。麦藁細工のヘビとは駒込の百姓が夢のお告げで始めた魔除けのことで、富士講ではかなり重視されているようです。

富士講(駒込の富士神社)
盛り上がる富士講(駒込の富士神社)
中央で団子食ってる男が持っているのが、多分、麦わらの蛇

 
 この高田富士を嚆矢として、以後、東京の各地に富士山が作られていきました。
 富士講は大正時代くらいまで盛んでしたが、徐々に勢いを失い、もはやほとんど忘れ去られた存在となってしまいました。



 実は、この高田富士は昭和40年(1965)まで残っていたんですが、早稲田大学がこの土地を買収、あっけなくブルドーザーで潰されてしまいました。

 ところが富士講のパワー恐るべし。その後、すぐに移転した水稲荷神社に富士山が作られたのです。
 この富士山は、現在「高田富士祭り」が開催される7月20日頃の3日間だけ登頂が可能です。2006年は7月22、23日でした。そんなわけで、さっそく登りに行ってみたよ!

高田富士 高田富士の登山口
浅間神社の脇に高田富士の登山口が


高田富士 高田富士
途中の祠と入り組んだ登山道


高田富士 高田富士
頂上には鉦(カネ)があるはずでしたが、今は消滅。頂上からは早稲田大学が望めます

高田富士 高田富士
下山道から見た頂上。麓には富士山の御胎内(洞窟)まで再現


 いや〜、やっぱり富士山は素晴らしいですな。
 なお、今回は昭和40年に発行された『新宿郷土研究』第1号を参考にしました。
制作:2006年7月25日

<おまけ>
 上記の「駒込の富士山」は現存してるんですが、ちょっと写真が見つからないので、同じく『江戸名所図会』から「護国寺の富士山」を公開しときます。ここも現存。
護国寺の富士山
護国寺の富士山

護国寺の富士山 護国寺の富士山
護国寺富士山の入口。右は頂上の浅間神社と大石。
麓には洞窟もあります。

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