発明と特許の誕生

第2回発明品展覧会
第2回発明品展覧会(昭和9年)



 日本人といえば独創性がなく、猿マネばかりというのが通説ですな。
 明治18年、「専売特許」を定めた法律が施行されたんですが、その10年後、当時の新聞社が出願数を調査しています。
 結果は、出願約1万のうち、認可されたのが2600、そしてそのほとんどが放っておかれているというものでした。
 
 これを受けて、記事では「わが国には大発明や大きな工夫がほとんどないが、これは専門家は他の事業に忙しく、アイデアが浮かんでも実験できないし、出願する人間は学を知らずに投機で申請するのだから、学者の価値が下がらない限り、まともな特許など出てこない」(時事新報、明治29年2月27日)と書いています。

 ちなみに特許庁のサイトには

《江戸時代には、新しい事物の出現を忌避する傾向があったといわれており、享保6年(1721年)に公布された「新規法度」のお触れは、「新製品を作ることは一切まかりならぬ」というものでした》

 とあります。「新規御法度」は食べ物から、衣服、道具、おもちゃなどあらゆるものの新規開発・改良を禁止し、さらに同業組合(株仲間)を公認することで、新商品の流通まで制限したわけですな。

 そんなわけで日本人に独創性がないかといえばそうでもなく、案外、「東洋のエジソン」とか「日本のエジソン」とか呼ばれる人物が多いんですよ。
 たとえば東芝を作った「からくり儀右衛門」(田中久重)や藤岡市助、トヨタの基盤を作った豊田佐吉、島津製作所の島津源蔵、シャープ創業者の早川徳次などなど。
 江戸時代にも日本で初めて反射望遠鏡を制作した国友一貫斎とかいろいろな発明家がいます。

田中久重の永久時計
田中久重の永久時計


 そんななかで、今ではまったく名前の残っていない「東洋のエジソン」がいるんですよ。
 その人の名前は亀井勝治郎といいます。

 ネットで検索すると、神戸大学図書館の新聞データベースで2件出てくるのみです。その記事によれば、亀井は幼いころから発明好きで、

・立体写真
・天然色活動写真(カラー映画)の撮影&映写機
天然色写真(カラー写真)
・国産初のレントゲン用の蛍光板
・天然色写真の陶器焼付け


 など、数多くの発明をしています。
 最後の「天然色写真の陶器焼付け」というのは「お皿のブロマイド」のことで、

《最近宝塚で売出した天津乙女や草笛美子の写真を焼きつけた装飾皿は羽 が生えて飛ぶ売れ行き、売切れ、売切れで製造が間に合わないという人気》(報知新聞1934年12月30日)

 を博しました。あまりの質の高さに、第1回発明品展覧会(昭和8年)では皇族の李王殿下の御召にあずかったそうです。このとき、李王が見たカラー写真は「神戸港」「神戸市街の俯瞰」「金魚」「花」の4点なんですが、たぶんこれがその写真。
 ちなみに富士フイルムが設立されたのが昭和9年、コニカ(小西六)が国産初のカラーフィルム「さくら天然色フヰルム」を発売したのが昭和15年なので、これがおそらく日本最初のカラー写真です。

日本初のカラー写真
日本初のカラー写真


 参考までに日本最初のカラー映画は昭和12年(1937)に公開された『千人針』ですが(通説の『カルメン故郷に帰る』は1951年)、亀井は昭和5年(1930)に産業合理化展覧会(兵庫県)でカラー映画を上映しています。

 こうした数々の発明をもとに亀井は25近い特許を取得し、昭和9年には帝国発明協会の最高賞(恩賜賞)、翌年には報知文化賞を与えられるほどの人物なんですが、しかし、いろんな資料や辞典を見ても、ほとんど記録が残ってないんですよ。これはちょっと不思議な感じです。

 亀井が活躍した頃、日本では発明や特許がかなり重視され始めました。どうしてかというと、昭和10年(1935)は特許法施行50年で、しかも「工業所有権の保護に関するパリ条約」の改正条約が発効した年だからです。
 もちろんこの背景には戦時という特殊な要因も多分にありました。亀井も「カラー写真を航空写真と組み合わせれば、赤外線写真とともに軍事利用できる」と書いているほどです。


パリ条約改正時(ロンドン)の政府内部文書
パリ条約改正時(ロンドン)の政府の報告書
(外務大臣の広田弘毅宛て)


 そんなわけで、日本の特許法の歴史をまとめておきます。
 日本で初めて特許制度を紹介したのは福沢諭吉です。慶応2年の『西洋事情. 外編. 三』には次のように書かれています。

《目的とする所は、世間一般の為(た)めを謀(はかり)て、発明家に専売の大利を許し、人心を鼓舞して世に有益の発明多からしめんとするに在り。その法、世の士君子、窮理(きゅうり=物理)、舎密(せいみ=化学)、器械学等を研究して、新奇有用の物を発明することあれば、その次第を書に記してこれに品物の図を添え、或は又図を以て解し難きものはその雛形(ひながた)を造りて、その書面に発明者の姓名を記し、これを「パテント・オフヒシ」と云える発明免許の官局に出して点験を請(こ)う》

「パテント・オフヒシ」とはpatent officeのことで、現在で言う特許庁のことですな。
 続いて、慶応4年、福沢諭吉の友人だった神田孝平が『西洋雑誌』4号の中の「褒功私説」で外国の特許制度について紹介しています。


帝国発明協会研究所
帝国発明協会研究所
(関東大震災で麹町にあった特許局は焼失し、目黒の帝国発明協会研究所に移動しました)



 こうした流れのなかで、明治4年、「専売略規則(新発明品専売免許規則)」と呼ばれた簡易特許法が施行されるのですが、まだ誰もその意味がわかりませんでした。
 そもそも特許審査できる人材がおらず、大量の外国人を雇わなければならないわりに大した発明が出ないことで、結局、1件の認可もないまま1年で廃止されてしまいます。

第1回内国勧業博覧会
第1回内国勧業博覧会
(こうした博覧会で新商品が盛んに発表されました)


 その後、特許史では有名な臥雲辰致(がうんたつち)の「ガラ紡事件」が起きます。臥雲はガラ紡という紡績機を発明し、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会で1位を取りますが、特許制度がなかったため、コピーされ放題で大損したという話です。

ガラ紡のオリジナル
これがガラ紡のオリジナル



 明治16年、平山甚太という日本人が初めてニューヨークで特許を取得(内容は「昼間の煙火」)したことが報じられ、ようやく日本人の間にも特許という概念が広まります。
 そして明治17年、最初の商標法である「商標条例」が制定されました。第1号商標は、京都府の平井祐喜による「膏薬丸薬」の商標でした。
 明治18年(1885)、ついに「専売特許条例」が施行され、専売特許所も設立されました。第1号特許は堀田瑞松による「堀田式さび止め塗料とその塗法」でした。
 
 ちなみに「専売特許条例」が公布されたのが明治18年4月18日だったことから、毎年4月18日を「発明の日」と呼んでいます。
 明治21年(1888)には審査主義を確立した「特許条例」が公布され、その後、いくどかの改正を経て、日本は国際条約(パリ条約)に加盟するのでした。


 さて、こうした「特許の誕生」みたいな話はどこにでも書いてあるので、ちょっと珍しい話を。
 実は「特許条例」が施行されたとき、「これは商売になる」と思ったのか、意外にも出願者が多かったんですな。実際はそのほとんどが使いものにならないカスネタでしたが、なかでも審査官を驚愕させたのが「漆塗りの黒い棺桶」でした。

 東京の増田平三郎ら3人が出願したものですが、伝説では当時の特許局長だった高橋是清自らがこの棺桶に入って特許にすべきか協議したと言われています。
 しかしながら、結果はもちろん却下。怒った増田は審判官に決闘を申し込みました。結局、一時の激昂ということで片がつくんですが、それにしても決闘とは。

 ちなみに明治21年には犬養毅も決闘を申し込まれるなど、当時は何回か決闘(未遂?)事件が起きたようで、こうした状況を受け、明治22年末、決闘および決闘への関与を禁止する「決闘罪」が施行されたのでした。
 余談ながら、高橋是清も犬養毅も後に首相になり、ともに暗殺されています。


制作:2009年4月20日


<おまけ>
帝国発明協会の機関誌『発明』から、昭和10年頃の珍発明を紹介しときます。

太陽電球 自動窓締め機
左:太陽電球=フィルターで黄色い電球が白色に!
右:窓に角砂糖をはさめば、雨が降ると溶けて、自動的に窓が閉まる!

ゴルフ練習機
ゴルフ練習機。打った球はぐるぐる回って遠くに行かない!どこまで飛んだかもわかるぞ!
© 探検コム メール