ヒトラー最期の3日間
女飛行士ハンナ・ライチュが見たベルリン陥落

ヒトラーが過ごした地下壕
ヒトラーが過ごした地下壕


 ヒトラーの最期を描いた『ヒトラー〜最期の12日間〜』という映画がありますが、これは元秘書トラウデル・ユンゲの証言によるものです。
 当然、ほかにも地下壕にいた人たちがいて、戦後まもなく、そうした証言が徐々に公開されていきました。

 本サイトでは、ヒトラーにかわいがられた女性飛行士ハンナ・ライチュの証言を公開しておきます。ライチュは世界初のヘリコプターや世界初のジェット戦闘機のテストパイロットで、多くの飛行記録を持っています。

 ライチュは、ヒトラーが死ぬ直前の3日間、一緒に地下壕のなかにいました。ベルリン陥落の直前に壕を出て、まもなくアメリカ軍に逮捕されました。その尋問録が1947年にアメリカで暴露されるんですが、その証言を日本の雑誌『旬刊ニュース』26号(昭和22年5月、東西出版社)が転載しています。以下はその記事を読みやすく再構成したものです。
 


 ヒトラーは1945年4月24日、ミュンヘンにいたリッター・フォン・グライム空軍中将に総統官邸(地下壕)に出頭するよう命じた。当時、ソ連軍はベルリンをほとんど包囲しており、官邸に行くのは非常に困難だった。

 グライムは専属操縦士ライチュと偵察機に乗って官邸を目指した。ブランデンブルク門の方へ、木の梢ギリギリの低空で飛んだが、眼下ではいたるところで市街戦が行われ、上空には無数のソ連機があった。偵察機はソ連軍の攻撃で機体の底部がもぎ取られ、操縦していたグライムは右足に重傷を負った。ライチュはグライムの肩越しに操縦桿を握り、かろうじて着陸に成功する。


ハンナ・ライチュ
ハンナ・ライチュ 1941年4月
(ドイツ連邦公文書館のサイトより)


 2人が地下壕に到着したのは4月26日午後6時から7時の間であった。最初に現れたのはゲッペルス(宣伝相)夫人で、ライチュをキスと涙で迎えた。グライムはすぐにヒトラーの侍医から治療を受けた。病室にヒトラーが入ってきた。
「なぜ君を呼んだかわかるか?」
「いいえ、わかりません」
「それはヘルマン・ゲーリング(国家元帥)が余と祖国を裏切ったからだ。彼は命令に反し、ベルヒテスガーデンに行き、電報をよこした。かつて余が後継者に指名したことを理由に、もはや余ではベルリンで指揮を執れないから、代わりに自分が指揮を執るという。22時30分までに返事がない場合、認められたと見なすというのだ」

 ヒトラーは顔面蒼白で、目には涙を浮かべ、頭を垂らし、異常に低い声で続けた。
「余は直ちにゲーリングの逮捕を命じた。すべての地位と官職を奪った。そこで、君をゲーリングの後継者として空軍総司令官(および元帥)に任命する」

 その日の晩、ヒトラーはライチュを自室に呼んだ。ヒトラーは沈痛な顔で薬を2つよこして言った。
「ハンナ、君は余と一緒に死ぬ1人だ。われわれは皆こういう毒薬を持っている。余は我々の仲間が生きてロシア人の手に渡ることも、死体が発見されることも願わない。余と(愛人の)エバは死体を焼却する。君も自分で適当な方法を考えてほしい。グライムにもこのことを伝えてくれ」

 ライチュは、総統が負け戦だと考えてることを初めて知って、椅子に泣き伏した。
「総統、あなたは生きていただかなければなりません。これはすべてのドイツ人の意志です」
「いや、余が死んだとしても、それは国の名誉のためだ。ベルリンを最後まで守れという余の命令に、自分自身が兵卒として従わなければならない。余はオーデル川の岸でベルリンを救えると確信していた。この陣地を守るためにすべてのものを注ぎ込んだ。それが破られたとき、余は恐怖を覚えた。しかし、ベルリン300万人の同胞を守るために踏みとどまる決心をした。
 しかし、まだ希望はある。ヴェンク大将の第12軍がロシア人を撃破するだろう。そうしたら我々は退却して立て直すのだ」

 26日夜から27日にかけて、地下壕に初めて重砲火の雨が降り、居住者はおびえ、どのドアからもすすり泣きが聞こえた。ライチュは痛みを訴えるグライムの看病をして過ごした。
 27日の夕方、親衛隊中将のフェーゲラインが姿を消した。ヒトラーの愛人エバ・ブラウンの義弟にあたるが、ヒトラーは逮捕を命じ、即座に銃殺された。


地下壕から見つかったエバとヒトラーの写真
地下壕から見つかったエバとヒトラーの写真


 ライチュは地下壕の住人について次のように観察している。

●ゲッペルス
 ゲッペルスはゲーリングの裏切りを常に怒っていた。小さいながらも贅沢な造りの部屋を、びっこを引きながら動物のように歩き回り、大げさなジェスチャーで悪口を言い続けていた。ゲーリングの悪口を言っていないときは、この地下壕にいる人たちが歴史的な模範となりつつあることを訴えていた。
「我々は世界に対して、名誉のために死ぬことを教えているのである。我々の死は、すべてのドイツ人に対する永遠の模範となるであろう」
 こういうゲッペルスのひとり演説は、まるで大勢の歴史家が一語一語記録を取っている前でしゃべっているようで、隣の部屋のライチュはずいぶん悩まされた。よくライチュはグライムと顔を見合わせて「こういう人たちが我々の国の支配者なのか……」と言い合った。


ゲッベルス
ゲッベルス
(ドイツ連邦公文書館 のサイトより)


●ゲッペルス夫人
 彼女は非常に勇敢な婦人だったが、ときどき、発作的に泣き沈んだ。子供たちのことが気がかりで、子供の前では常に快活にしていた。そして子供の服を常に清潔にキチンとさせておくことで忙しかった。
 彼女はナチ教育の模範婦人であり、もし第三帝国が存続しないならば、自分も子供とー縮に死ぬことを望んでいた。彼女はライチュに言った。
「ハンナさん。最後のとき、もし私が子供のことで気が弱くなったら助けて下さい。子供たちをこの世から連れ去るのに手を貸して下さい。子供たちは第三帝国と総統のものです。もしこの2つがなくなってしまえば、もはや子供たちの居場所はありません。私が一番恐れているのは、最後の瞬間に気が弱くなることです」

●ゲッペルスの子供たち
 ゲッペルスの子供は3歳から12歳までの6人いた。子供たちは暗い地下壕の生活の明るい光だった。ライチュは子供たちに歌を教え、総統や病人やグライムの前で歌わせた。
「『総統おじさん』と『洞穴』にいる限り、外でどんなに大砲が落ちても恐くない。だって、総統おじさんは、兵隊さんがロシア人を追い払ってくれると言ったから。明日にでも家の庭に帰って遊ぶことができる」と子供たちは思いこんでいた。

●エバ・ブラウン
 ヒトラーの「女友達」エバ・ブラウンは、一日中爪を磨いたり、服を着替えたり、化粧したりしていた。ヒトラーと死ぬことを当然のこととしているようだった。
 彼女は絶えず「かわいそうなアドルフ。みんなに見捨てられ、裏切られて」と言っていた。ヒトラーの前ではいつもチャーミングで、何くれとなく心を配っていたが、ヒトラーがいないときは、裏切った人間たちに悪罵の限りを尽くした。
 彼女がみんなと一緒に死のうとする理由は、ゲッペルス夫人と同じだった。第三帝国の次に何が来ようと、それは真のドイツ人が住むところではない、というのである。
 ヒトラーとエバは4月29日に結婚するが、ライチュ自身は、2人の結婚はあり得ないと思っている。ヒトラーにそんな意思があったとは思えないし、地下壕はそんな雰囲気ではなかったからである。もちろんヒトラーとの間に子供がいたというのもバカらしい噂としている。



ヒットラー結婚式
結婚式の証書。ゲッベルスとボルマンら立会人の署名も

●マルティン・ボルマン
 親衛隊大将のボルマンはほとんど動き回らず、机に向かっていることが多かった。彼は地下壕の重大な事件を後世のために記録していた。この記録は最後の瞬間に持ち出され、ドイツ史上の「最も偉大な章」をなすものと考えていた。

●アドルフ・ヒトラー
 ライチュが地下壕にいる間、ヒトラーの健康は日々衰えていった。最初のうちはまだ指揮することができた。
 当初は通信も可能だった。通信は電話で外部の急造の塔に送られ、気球で吊された移動アンテナを使ってラジオで放送された。だが、これはだんだん困難になり、28日夕方から29日の終日、通信は途絶えた。
 ヒトラーの誕生日の4月20日頃、官邸で最後の作戦会議が開かれたが、来るニュース、来るニュースすべてが絶望的なので、ヒトラーは大勢の前で失神してしまった。その後、肉体的にも精神的にも回復することはなかった。
 ヒトラーはずっとヴェンク大将がソ連の包囲を破ることを夢見ていた。ほかのことはあまり喋らず、28日と29日は、終日、ヴェンクのベルリン解放戦の研究をしていた。壕の中を歩き回り、手の汗でボロボロになった地図をふり回し、相手かまわず戦術を論じていた。興奮すると地図をつまみ上げて、足早に神経質そうに部屋を歩いては、もはや存在しない軍隊に向かって大声で防御命令を下すのだった。


ヒトラーの頭のレントゲン写真
ヒトラーの頭のレントゲン写真。脳は一般人と相違ないそうですよ



 27日の夜から28日にかけて、ソ連軍の砲撃は最高頂に達した。着弾は非常に正確で、この状態では、ロシアの地上部隊がいつ占領に来るかもわからないので、総統の命令で、再度の自殺会議が開かれた。地下壕の各人の死体破壊計画が再演された。そしてソ連軍が官邸の地上に到着したら、即座に大量自殺を始めることが決められた。

 毒薬は青銅製のカプセルで、ふたを取るとガラス瓶が現れ、その中に茶匙半杯ほどの琥珀色の液体が入っていた。ガラス瓶は歯ですぐ壊れ、手早く液体を飲み込むことができるようになっていた。
 誰もが自殺の予行演習で催眠術にかかったようになり、どうしたら完全に死体を破棄できるかが話題の中心となった。まだヴェンクが来ることに希望を持っていたが、27日にはただ総統の口に合わせて言っているだけで、ほとんどの者は助かるという望みを断念していた。

ナチ本部
ナチ本部の大理石テーブル。ヒトラーの椅子に座るソ連兵と、それを見る米兵


 29日に最悪の事態がやってきた。
 忠臣のヒムラーが米英当局に対し、スウェーデンを通じて、サンフランシスコ会議の決定に服従することを申し入れたというのである。これは全員に対する死の衝撃だった。男と言わず女と言わず、怒りと怖れと絶望で泣きわめいた。
 ヒトラーは狂人のようになり、顔を真っ赤にした。長い怒りの発作の後、人事不省となり、地下壕は一時完全な沈黙に支配された。

 やがて、30日の朝に官邸を占領するため、ソ連軍が兵力を集結させているという報告が入った。
 みんな、改めて毒薬を調べてみた。

 4月30日の午前1時半、ヒトラーは蒼白な顔でグライムの部屋に来て、ベッドの端に座って言った。
「我々の唯一の希望はヴェンクである。彼が到着できるよう、使える飛行機を全部集めて援護しなければならぬ。使える飛行機は1機残らず夜明けまでに召集せよ。貴下はここを出てレヒリンに行き、空軍を指揮せよ。これは余の命令である。貴下の空軍の任務は、官邸を攻撃するロシアの陣地を破壊することにある。第2の任務はヒムラーの活動を止めることである」
 そう言って、ヒトラーはヒムラーの逮捕を命じた。

 グライムとライチュはヒトラーに激しく抗議したが、ヒトラーは
「ドイツの一兵卒として、我々はあらゆる可能性を最後まで試みる義務がある。これが残された唯一の成功の機会である。そして、これを行うことが貴下と余の義務である」と言って応じなかった。
 ライチュはむせび泣きながら、「総統、なぜ我々をとどまらせてくれないんですか?」と懇願したが、ヒトラーは「神の加護を祈る」と言っただけだった。

 30分後、2人は地下壕を離れた。突撃隊員の小型武装車でブランデンブルク門近くまで行き、練習機の隠し場所まで出た。街路を滑走路にして飛び出すと、すぐソ連軍のサーチライトに照らされ集中砲撃を受けたが、大した被害も受けず、燃えるベルリンを後にした。
 グライムは無事レヒリンに到着し、命令を発した。そこで、すでにヴェンク軍が撃破されたことを知った。

 4月30日の夕方、グライムとライチュは、ヒトラーの死と、デーニッツの後継就任の報を聞いた。敗戦後、2人は米軍当局に出頭したが、グライムは5月24日、ヒトラーがくれた毒薬で自殺した。
 ハンナ・ライチュはその後解放され、1979年に亡くなった。


ヒトラーとエバの遺体
ヒトラーとエバの遺体がガソリンで焼かれた場所


ヒトラーの地下壕
その後、ソ連軍によって破壊された地下壕の入口


制作:2011年5月1日

<おまけ>

 ライチュがヒトラーと最初に出会ったのは、1937年、「機長」の称号を与えられたときです。しかし、このときは大人数で、ほとんど話すことができませんでした。
 2度目に会ったのは1941年、テストパイロットしての活躍に「黄金の功労賞」を授与されたとき。首相官邸の授与式では、ヒトラーの方から積極的に話しかけてきたといいます。そのときの印象を、ライチュは後に出版した自伝に次のように書いています。
《私はヒトラーが、純粋な航空技術の分野について、普通なら専門家でなくては持たないような知識にまで通じていることに、深い感銘を受けた。つねに本質と核心に触れる質問を投げかけてきたことは、驚嘆するほどだった》(『私は大空に生きる』)

ヒットラーとムッソリーニ
暗殺未遂現場を見るヒトラー(右)とムッソリーニ(左)
(1944年6月20日)

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