究極の東京開発「ラピュタ計画」
「人工地盤」の歴史と「空中権」


西台団地
西台団地


 都営三田線の西台駅を降りると、隣接した4棟の巨大団地に圧倒されます。駅直結のこの「都営西台アパート(西台住宅団地)」は、1階が広大な地下鉄の操車場になっているのです。

 巨大な団地群として知られる高島平団地の一帯はもともと田畑で、1965年、「土地区画整理事業区域」として都市計画が決定、翌年から日本住宅公団によって開発が始まりました。西台団地は、この高島平団地に隣接しており、1963年、東京都交通局が地下鉄6号線(都営三田線)の車両基地として土地を買収していました。

 三田線は1972年までに全線が開通予定で、それまでに基地を建造する必要に迫られます。一方、高度成長による都市化で、東京では住宅が足りないという深刻な問題もありました。しかし、敷地確保は簡単ではなく、結果として、土地の有効利用を図るため、車両基地の上空に人工地盤を作り、アパート群に加え、小学校、保育所、公設市場も設置されることになりました。完成したのは、1973年のことです。

 この用地は、面積が約14ha弱と広いので、敷地内に入るとそれが人工地盤の上だとは気づきません。しかし、この地盤の下には264両もの電車を収容できるスペースがあるのです。

西台団地への入口
西台団地への入口


 建造にあたり、問題となったのは、権利関係です。都交通局の土地上空を都住宅局、都住宅供給公社、板橋区など他の行政機関が使用することになるため、土地の権利関係が厳密に定められました。地上権は60年と設定されましたが、これが日本最初期の「空中権」の導入です。最終的に、人工地盤の設計と工事は交通局が担当するものの、予算は住宅局と住宅供給公社が負担するという変則的なものになりました。小学校部分は板橋区に無償使用権を設定し、学校の管理は区がおこなうことになったのです。

 そんなわけで今回は、人工地盤の歴史についてまとめます。

坂出人工土地
坂出人工土地(左下に「人口土地」の石碑)


 かつて塩田による製塩業で栄えていた香川県坂出市。その後、高度経済成長とともに工業化にシフトしますが、1960年代、市の中心部にある「清浜亀島住宅地区」には、各地からの労働者が住み込んでいました。坂出駅からおよそ200メートルという好立地ですが、1.2ヘクタールの土地は狭い路地で入り組んでおり、小さな木造のボロ平屋が埋め尽くしていました。多くの家に調理場はなく、玄関先の七輪で調理していたといいます。159戸のうち128戸は不良住宅で、街の中心にある「スラム」の解消は喫緊の課題でした。

 そこで、この場所に人工の地盤を作り、敷地面積を倍増させることになりました。地上9メートルと5.4メートルの高さに、1万平米の人工地盤を建設。地上部分には市民ホール、商店街、駐車場があり、地盤上には住宅140数戸、集会所、公園、緑地帯などを設けました。これが、日本初と言われる人工地盤です。

 手掛けたのは、巨匠・前川国男の薫陶を受けた若手建築家の大高正人です。

 当時、地価高騰、住宅の過密、クルマの増加などさまざまな問題を抱えつつあった日本で、1960年代、「人工土地」構想が大きな支持を集めるようになりました。日本建築学会にも人工土地部会が設けられるなか、大高は前衛的な「メタボリズム(=新陳代謝。社会の変化に応じて建築も変わるべきとする)」グループで活躍します。こうして、1966年に着工し、最終工事が1986年に終了しました。

 ここでは、空中権を「屋上権」として、坂出市が地権者から屋上権を購入するという特殊な仕組みで権利関係を処理しましたが、地盤そのものを誰が管理するのかなど、さまざまな問題が生まれることになります。

 なお、当時はハイカラだった人工地盤ですが、地盤上の住宅は間取りが狭く、多くの家に風呂がないことから、現在は居住者が減っているようです。

内側から見た坂出人工土地
坂出人工土地


 大高正人の、もうひとつ大きな人工地盤作品が、広島県の「市営基町高層アパート」です。

 広島城の西側にある川沿いの地域は、江戸時代、武家屋敷が広がっていましたが、明治になると、師団司令部や練兵場、陸軍病院などの施設が設けられ、軍都の中核となっていました。しかし、1945年8月6日の原子爆弾の投下で、爆心地に近かったこの地域一帯は壊滅してしまいます。

 戦後、この一帯には生存者や引揚者などが集まり、バラックを建てて住むようになりました。いわゆる「原爆スラム」です。これを解消するため、1968年、「基町地区再開発計画」が立案されました。このときの調査によると、不良住宅は2600戸、2951世帯と判明しています。

 一帯は、1978年、基町・長寿園高層アパート群として整備されます。新造された高層アパートは、一般的な南向きではなく、南東と南西に45度ずつ傾けた「く」の字型で、オープンスペースを挟んで屏風型に組み合わされています。これにより、日照や通風、プライバシーの確保に成功しました。中央のオープンスペースが広大な人工地盤になっており、下部が商店街、上部が緑地公園になっています。

 基町アパートでは、敷地全体が国有地だったため、空中権にまつわる大きな問題は起きていません。


基町アパートの巨大な広場
基町アパートの巨大な広場(グーグルアース)


基町アパートの構造図
基町アパートの構造図(『都市開発と人工地盤/国内の実例集』より)


 東京では、実は坂出人工土地より完成時期が早かった渋谷の宮下公園(1966年)が有名です。こちらは下層が駐車場で、上層が公園でしたが、近年大規模な開発が進み、往時の雰囲気はあまり残っていません。人工地盤が広く知られるようになったのは、完成時日本一高いビルとして話題となったサンシャイン60です。こちらは巣鴨プリズン(東京拘置所)跡地に作られました。330メートル×180メートルの広大な土地で、都市公園も含め大規模開発となりました。


巣鴨プリズン碑から見たサンシャイン60
巣鴨プリズン碑から見たサンシャイン60(下部オレンジ部分が人工地盤)



 実は、人工地盤の歴史は、人類の文明発祥とともにありました。古代インダス文明では、モヘンジョダロにレンガを10メートルほど積み上げた基壇が設けてありました。これが「城塞」部分で、周囲を見下ろすことができました。有名なところでは、レオナルド・ダ・ヴィンチも上下2層に分かれた 都市計画を発想しています。


レオナルド・ダ・ヴィンチの都市計画
レオナルド・ダ・ヴィンチの都市計画(ウィキペディアより)


 しかし、現代的な発想としては、建築家ル・コルビュジエが最初だとされます。コルビュジエは人口過密で環境が悪化した近代都市を批判し、「300万人の現代都市計画」「パリのヴォアザン計画」「輝く都市計画」など数多くの都市計画を立案しました。その根本はオープン・スペースを確保し、自動車道と歩道を分離することでした。

 コルビュジエの都市計画はほとんど実現しませんでしたが、現代建築で多用されることになったアイデアが「ピロティ」です。建物の1階部分に壁を設けず、駐車場や広場など開放空間として利用することで、人工地盤に通じるアイデアです。

 日本では、コルビュジエの弟子だった吉阪隆正が、初めて人工地盤のアイデアを紹介しました。1953年の『国際建築』1月号に発表した「個と集団の利益の境界線としての住居」で、《数層に重ねられた土地であって有効に狭い都市の市域を利用し、住宅に適した土地をつくるべき》としています。


ピロティが作られたコルビュジエ設計の国立西洋美術館
ピロティが作られたコルビュジエ設計の国立西洋美術館


 なお、人工地盤には「駅前の立体広場」「歩行者デッキ」「空中連結道」などさまざまなものが含まれます。駅前の高架広場は長崎駅や千葉県の柏駅などが最初期のものです。

 一方、神戸の三宮センター街ではアーケードに3つのスカイウェイが設けられています。下から広場状のセミクローズ型、クローズ型、オープン型となっており、これも人工地盤の一種とされますが、いわゆる通路まで人工地盤と言い始めると、だんだん定義そのものが曖昧なものになってしまいます。特に最近の駅前開発では高架広場に類した開発が当たり前で、もはや人工地盤という概念は消失した感もあります。


三宮センター街のスカイウェイ
三宮センター街のスカイウェイ


■東京『ラピュタ』構想


 さて、最後に幻の巨大プロジェクトを紹介しておきます。大林組の広報誌『季刊大林』は、さまざまな建造物の試案を出すことで知られますが、1989年に発行された第29号「地盤」では、想像を超えた人工都市が登場しています。それは、地上から31メートル上空に10km×10kmの人工地盤を複数作り、その上に新都市を建造するというもの。同誌では早稲田大学の尾島俊雄教授の「新地表面の建設による東京大改造計画」(1986年『東京大改造』など)に触発されたとし、『ガリバー旅行記』から「東京『ラピュタ』構想」と名づけています。

 まず、東京は以下の2つの大きな課題を抱えているとしました。

(1)業務機能の集幘による過密化
(2)定住人口の減少による過疎化

 当時、都心3区(千代田、中央、港区)は23区全体の7%の面積しかないにもかかわらず、オフィスと店舗の52%を占めていました。また、3区に勤務する就業者数は200万人にのぼるのに対し、居住人はわずか30万人程度しかいません。

東京『ラピュタ』構想
東京『ラピュタ』構想(『季刊大林』28号より)


 こうした問題を解決するため、「新・地表面の建設」が有効だとされました。以下に、建設コンセプトをざっくりまとめておきます。

●新・地表面によって、都心居住のパターンを温存しながら、同時に下層部(従米の地表レべル)に業務、商業を高度に集積
●新・地表面の上は快適な居住空間とし、居住者が緑、土、水に親しむ場とする。新宿御苑や明治神宮外苑規模の緑地を創造
●職住近接による定住人ロの増加を図り、都心部の交通量を相対的に減少させる。道路は緊急車両を除き、すべて歩行者・自転車専用に
●電気、水道、下水、ゴミ処理などの効率を高め、さらに情報通信ネットワークなどの新都市システムを導入
●新・地表面を適当な間隔で都内に数ユニット建設し、東京全体の改造計画の核とする

 なお、神社や仏閣など既存の歴史的建造物はそのまま保全することを前提とし、新・地表面にはそのための開ロ部を設けました。その結果、土地の平面利用率は以下のようになりました。

【新・地表面】
高層住宅ゾーン 20%
中低層住宅ゾーン 30%
公園緑地など 40%
開口部 10%

【下層部(従来の地上部)】

オフィス 20%
商業施設 10%
駐車場 10%
ユーティリティ 5%
大空間施設 10%
文化施設及び貯蔵施設、構造体 10%
開口部 10%
一般道路 25%

 そして、就業者数は5.3万人、居住者数は4万人(1万3000戸)と試算されました。もちろん、これは机上の空論ではありますが、やはりバブル時代は、みな発想も豪快だったことがわかります。

東京『ラピュタ』構想の配置図
新・地表面の配置図(『季刊大林』28号より)


 この計画は、資金的にも実現不可能だと思いますが、仮に実現を模索した場合、最も問題となるのが「空中権」の問題です。

 1980年代初頭、アメリカでは空中権法(エアライト・アクト)がほとんどの州で制定され、鉄道や道路などの上部空間を使った再開発が進みました。しかし、日本ではなかなか「空中権」の理解が進みません。そうしたなか、自民党の政調建設部会に新しいプロジェクトチーム「空中権等に関する小委員会」ができました。これは当時の中曽根康弘首相の強い意向で誕生したもので、ようやく空中権の議論が始まります。

 中曽根首相は「アーバン・ルネサンス(都市復興)構想」を提唱し、都市再開発を熱心に説き始めました。これは、さまざまな建築規制を取り払い、民間の力を最大限に利用して東京を再改造するアイデアでした。しかし、それには空中権などの処理が大きな壁となって立ちはだかります。そうしたなか、大きな注目を集めたのが国鉄用地でした。当たり前ですが、土地の所有者が国鉄だけなら開発も簡単です。

 しかし、当時の国鉄法では、国鉄の所有している土地を開発する場合、駅ビルなどの施設を作れるのは国鉄が出資した民間会社に限られており、しかもその建物を住宅として使用することは認められていませんでした。こうした規制をいかになくすかが中曽根民活の肝となりました。

 中曽根首相の意向を受けて、道路族のドンと呼ばれた天野光晴議員は、「東京の山手線すべてに空中権を設定し、その上に高層住宅を大量に建設すれば、山手線の内側の地価は半値になる」と語りました。まさに空中権の解放こそ、都市開発の根本となったわけです。これが、バブルへ経済への入口で した。


表参道ヒルズ
表参道ヒルズ

 こうした動きのなか、東京でも巨大開発が徐々に進むようになりました。その最大の成果が、1986年、赤坂・六本木にまたいで作られたアークヒルズです。5万6000平米の敷地の再開発にあたり、森ビルはコンサートホールとテレビ局のスタジオを地下に埋め、広大な広場を作り出しました。オフィス、ホテル、住宅棟などは、人工地盤上に作られた緑豊かな道でつながれています。
 
 2013年に開業した表参道ヒルズは、敷地が縦長ということもあり、人工地盤による土地拡張のイメージが明確に伝わってきます。

 いま、東京タワーの展望台から周囲を見渡すと、目の前の「麻布台ヒルズ」はじめ「六本木ヒルズ」「虎ノ門ヒルズ」「愛宕グリーンヒルズ」など森ビルの高層ビルがあふれています。実は、森ビル社長の森稔氏は、コルビュジエの「輝く都市」を知って衝撃を受け、「都市開発のコンセプトの原点」になったと語っています。コルビュジエの夢の一端は、ひそかに東京で実現していたのです。


東京タワーから見た麻布台ヒルズ
東京タワーから見た眺望(中央が麻布台ヒルズ)


制作:2024年3月23日


<おまけ>

「世界最大の大家」とも言われる「都市再生機構」は、「日本住宅公団」と「宅地開発公団」が合併し、1981年に「住宅・都市整備公団」として誕生しました。略称「UR」は英語表記「Urban Renaissance Agency」から来ていますが、もちろんこれは中曽根民活の「アーバン・ルネサンス構想」が由来です。

 URの資料によると、URがおこなった最初の人工地盤工事は、1970年代後半、横浜・天王町駅そばの物件のようです。その後、URは数多くの人工地盤を手がけましたが、有名なのが、アサヒビール本社の隣りにあるリバーピア吾妻橋です。これは親水エリアを作るため、一帯を人工地盤上に作っています。

リバーピア吾妻橋
リバーピア吾妻橋
 
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