人造酒(合成酒)の誕生

人造清酒
人造清酒の工場


 かつて映画には音声がなく、「活動弁士」が独自の語り口で内容を解説していました。その弁士として有名だった徳川夢声は、若い頃からアルコール依存症になっていました。
 徳川夢声はずっと日記を書いており、当然、そこにはアルコールの話が頻出します。

 戦争末期の1945年(昭和20年)5月23日、友人の俳優・高山徳右衛門(薄田研二)が、「アルコール製ウィスキー」を1升瓶400円で買わないかとやってきます。もちろんヤミ物資ですが、いったい「アルコール製ウィスキー」とは何なのか?

 高山が持ってきたものは、《アルコールに染料、香料を入れたるもの。香料はバニラ》で、いわゆる合成ウィスキーのことでした。
 

 意外ですが、戦争末期も庶民は「国民酒場」などで普通に酒を飲めました。しかし、値段は上がっており、しかも販売量には一応の制限がついていたので、こうした合成酒が幅を利かせていたのです。

 合成酒というとイメージが悪いですが、日本人はもともと合成酒からウィスキーの味を覚えたのです。横浜が開港した直後から洋酒は輸入されており、日本人も明治になってすぐにウィスキーを飲んでいます。しかし、当時、日本人が飲んだウィスキーは、ほとんどが安物の合成酒でした。

 日本で最初に合成ウィスキーの製造に成功したのは、鳥井信治郎が創業した寿屋(現在のサントリー)です。寿屋は1911年(明治44年)に合成酒「ヘルメス・ウイスキー」を販売しています。
 ウイスキーは、ビールの醪(もろみ=麦芽)を蒸留し、長く貯蔵するとできあがります。しかし、合成酒はエチルアルコール(エタノール)に化学的に作ったウイスキーのエッセンスを合成したものです。

サントリーウイスキーの広告
1942年のサントリーウイスキーの広告。蘇格蘭はスコットランドのこと
(国会図書館『第二回翼賛広告研究会作品集』より)


 サントリーが本格的なウィスキーの醸造に着手するのは関東大震災(1923年)以後のことで、国産初のウイスキー「白札」を発売したのは1929年。
 ウイスキー製造をサントリーで学んだ竹鶴政孝(マッサン)が、ニッカウヰスキーを創業し、初出荷に成功するのは1940年。つまり、この年まで国内でウィスキーを醸造できる企業はサントリーのみでした。

 たとえば1930年の統計を見てみると、日本のウィスキー製造量は、合成ウィスキーを合わせ22万6000リットル。輸入は24万8000リットル。国産ウィスキーのほとんどが合成酒だとすると、合成ウィスキーはまだまだ人気があったことがわかります。

 ちなみに、1937年に出版された『手軽に美味しく出来る家庭向き支那料理と西洋料理』には、ウィスキーと合成ウィスキーの違いが次のように書かれています。

《ウイスキーで真に上等なるものは、一口入れて舌で味うと、柔かい辛味と一種言うべからざる愉快なる香味が残ります。不良品は、強烈に辛味が、味覚を刺激し、一種不愉快な煙草のやにの如き臭味を有し……》



 さて、酒好きの徳川夢声は、1945年6月27日にブドウ酒を飲みました。翌28日、今度はハエの入った葡萄酒に「酒精」を入れて、割って飲みました。酒精とはエタノールのことです。

 日本では、ワインの醸造自体は1880年(明治13年)に成功していますが、国産化はなかなかうまくいきませんでした。醸造に成功しても、ワインは渋くて、日本人にあまり受けませんでした。

 そこで、1881年(明治14年)、神谷傳兵衛が輸入ワインにハチミツや漢方薬を加えて、「甘味葡萄酒」に改良したのが「蜂印香竄葡萄酒」(はちじるしこうざんぶどうしゅ)。要は甘いワイン味のカクテルです。
 ちなみに、この神谷傳兵衛が作ったバーが浅草の神谷バーですね。

蜂印香竄葡萄酒
「蜂印香竄葡萄酒」の広告


 実は、サントリー創業者の鳥井信治郎が独立し、最初に作ったのは合成ワインでしたが、その後、1907年(明治40年)に発売した甘味葡萄酒の「赤玉ポートワイン」が大ヒット。
 この成功が、サントリーが大企業になる第一歩となります。

赤玉ポートワインの商標
「赤玉ポートワイン」の商標
(国会図書館『日本登録商標大全 第6輯 下巻』より)


 以後、ポートワインは日本中で盛んに製造されていきます。多くは、葡萄酒にアルコール、砂糖、酒石酸、タンニン、グリセリンなどを混ぜたものです。このとき添加するアルコールが酒精(エタノール)です。
 日本人は甘ったるいワインもどきが大好きで、そこにエタノールを入れて度数調整する飲み方は普通でした。

キリンポートワイン
キリンポートワイン

 
 エタノールは、溶剤、消毒剤、セルロイド、火薬の製造から燃料まで、さまざまな用途がある重要な産品です。いったいどうやって製造するのかというと、通常は糖類の発酵で作ります。
 主な材料としては、

①デンプン(穀物、ジャガイモ、さつまいも、栃の実……)
②繊維質(木材、おがくず……)
③糖類含有物(糖蜜、サトウキビやテンサイ、コーリャンの搾りカス……)
④アルコール含有物(みりんやぶどう酒の腐敗物、酒粕……)

 などがあります。このエタノールさえあれば、合成酒は造れるのです。

アルコールの蒸留装置
アルコールの蒸留装置(理研)


 1945年8月7日、徳川夢声は小田原の駅前旅館で合成清酒(人工酒)を飲みました。

《工廠の寮より貰いたる合成酒を飲み、ご機嫌となる。合成酒のことを「中野さん」と称す、中野セイゴウ即(すなわち)ゴウセイの符牒也》

 中野正剛(なかのせいごう)は1943年に自殺した国会議員で、この人物の名前をとって、合成酒を「中野さん」という隠語で呼んでいたことがわかります。
 
 この人造清酒の製造に初めて成功したのが、日本最高の研究機関である理研です。理研は合成ウィスキーも出していましたが、本命は合成清酒でした。

 人工清酒の研究は、1918年に起こった米騒動がきっかけと言われます。当時、日本酒の製造に毎年400万から500万石のコメを必要としていましたが、もしコメの不要な日本酒ができれば、大幅に主食が残ることになります。そうすれば、米不足は起きないだろう、というのが研究の始まりでした。

 日本酒を分析したところ、アルコールが16〜18%、エキスが4%ほどで、残りは水です。よって、このエキスを抽出し、エタノールに混ぜれば、日本酒が工場で作れることになります。
 より正確に分析したところ、日本酒のエキスは次のような成分でした。

・有機酸(コハク酸、フマル酸、乳酸、酢酸……)
・アミノ酸(アラニン、ロイシン、チロシン、グルタミン酸、フェニルアラニン、アスパラギン酸……)
・糖類(ブドウ糖、麦芽糖……)
・無機塩類(酸性リン酸カリ、酸性リン酸石灰、食塩、塩化マグネシウム、硫酸マグネシウム……)
・そのほか(グリセリン、デキストリン……)


 そして香料(プロパノール、アミルアルコール、プロピオン酸、バレリアン酸、レブリン酸、酢酸、アセトアルデヒド、ピルビン酸……)も必要です。
 
 もみ殻やトウモロコシの芯などから琥珀酸をつくり、大豆や小麦などからアミノ酸をとり、その他の原料を配合して水に溶かし、アルコールと糖類を加えて加熱、これを1カ月ほど置くと、味も香りもほとんど日本酒と変わらない合成酒が完成したのです。

理研合成酒の原料
理研合成酒の原料


 この人造日本酒「理研酒」を開発した加藤正二は、以下の5つの特徴をあげています。

①米を使わない
②防腐剤を使わない
 かつて日本酒には、防腐剤として、人体に有害なサリチル酸が大量に使われていましたが、理研酒は腐りやすい成分(硫黄分を含むシスチンなど)が極力排除されているため、サリチル酸を使う必要がありませんでした
③2日酔いしない
 かつて2日酔いの原因は「フーゼル油」だとされており、これを大幅に減らしたことで、2日酔いがなくなりました。ただし、現在はアルコールの分解で派生するアセトアルデヒドが2日酔いの原因だとされているので、科学的根拠はありません
④1年中、いつでもどこでも製造できる
 材料を混ぜてから1カ月もあれば出荷可能。特別の技術は不要で、容易に品質を均一にできる。少量の材料を混ぜるだけなので、遠隔地でも、酒造りに向かない暑い地方でも製造できる
⑤質の悪い清酒の品質改善
 色は薄く、癖のない味なので、低品質の日本酒に混ぜれば、質がアップする


理研酒
理研酒「新進」の広告


 理研は1921年に特許を取得し、「祖国」ブランドで鉄道会社などに細々と卸し始めます。
 その後、製造特許を手にした大和醸造が、「新進」ブランド(地方は「如楓」)で、1升1円65銭で一般への販売を開始。当時、1等酒は1升3円から4円くらい。安くても2円くらいしました。理研酒はアルコールが飛びやすく、杯に入れたままだと水っぽくなる欠点はありましたが、安いこともあり、人気を集めます。
 大和醸造は京橋に「新進バー」を作るなど宣伝にも力を入れましたが、実は最大の顧客は陸軍と海軍でした。

理研酒のラベル
理研酒「如楓(じょふう)」のラベル


 一方、理研も1928年に工場を作り、「利久」ブランドで1升1円50銭で売り出しました。
 その後、特許契約を結んだ企業はどんどん増えていき、1943年(昭和18年)には47社、年間生産量は76万4000石に達しました。
 戦争で食糧難になると、配給の酒はほとんどが理研酒となりました。

 徳川夢声は、原爆報道を聞いて、8月8日からずっと酒なしで過ごしましたが、19日、敗戦後初めての日曜日に多くの客が来たことで、ついに酒を飲みます。
 客が2本の上等の日本酒を持ち込み、また秘蔵のサントリーウィスキー12年ものも開けたのです。
 空には、日本の飛行機がぶんぶんと編隊飛行しています。そして、「これらの飛行機をそっくり敵に渡すのは惜しくてならないな」と思ったのでした。

理研酒の製造・アルコール濾過器と真空蒸発罐
理研酒の製造/アルコール濾過器(右)と真空蒸発罐(左)

 
 その後、物資不足とともに、酒の入手は困難になります。メチル入りの毒酒を飲んで「目散る」(失明)になったり、死んだ人が続出。カストリなどの密造酒も大量に横行します。
 政府は醪(もろみ)をしぼる前に2倍のアルコールを添加し、ブドウ糖や水飴、グルタミン酸ソーダで味を調整する「三倍増醸」と呼ばれる製造法を認めました。

 参考までに書いておきますが、現在も、多くの日本酒には醸造用アルコールが添加されています。純米酒は「米、米麹」しか使用できませんが、「本醸造」でも「大吟醸」でも、醸造アルコールの添加はOKなのです。
 なお、パック酒など格安の酒で、醸造アルコール以外の添加物(糖類など)が書いてあるものは、前述の「3倍増醸酒」が混入されています。

理研酒の貯蔵タンク
理研酒の貯蔵タンク


 酒造業界の過当競争に敗れ、「利久」を製造した「理研酒工業」は、1955年(昭和30年)、協和発酵工業に吸収合併されました。協和発酵は2002年に酒類事業をアサヒビールへ譲渡しており、現在も「利久」はアサヒビールが販売しています。
 また、大和醸造は、1961年、メルシャンに買収されました。「新進」ブランドは消滅しましたが、メルシャンは今も「かぶき桜」などの合成酒を販売しています。そのほか「力正宗」など、理研酒は今も健在なのです。


制作:2014年4月23日


<おまけ>
 合成清酒の製法には、理研式だけでなく、大蔵省醸造試験所の黒野勘六が開発した「電化式」もあります。アミノ酸をエタノールで溶解し、電流を通すとアミノ酸が分解され、高級アルコールになるのです。これに調味料を補って完成です。
 電化式による清酒販売のため、1931年に「興国酒造」が創設されて、ブランド「新興国」として1升1円で販売されました。

電化式の合成清酒の製造法
電化式の合成清酒の製造法
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