天皇陛下がやってきた

天皇巡幸
学校をまわる天皇陛下


《てんのうへいかが みんなのまへをお通りになるとき じぶんのおとうさんのようにかんじました》

 1946年(昭和21年)10月、昭和天皇が愛知県を行幸しました。そのとき天皇は豊橋市の八町国民学校(現・豊橋市立八町小学校)に立ち寄っています。地方巡幸で学校を訪問するのはわりあい珍しいことでしたが、中心部にあった八町国民学校は行政施設に近いこともあり、訪問先に選ばれたようです。
 冒頭の文章は、生徒(2年生)がそのとき書いた作文です。

 今回、本サイトは、この国民学校訪問時の関連資料約50点を発掘しました。そこで、この新資料をもとに、ひとつの戦後復興の物語を公開しておきましょう。
 なお、資料発見のニュースは「名古屋タイムズ」(2004年3月2日)に大々的に報じられています。

名古屋タイムズ
9段ぶち抜きのスクープよ!


 
 昭和21年(1946年)の正月、昭和天皇は「人間宣言」を行います。正確には「新日本建設に関する詔書」というもので、この中にこんな表現があります。

《惟(おも)フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動(やや)モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激(きげき)ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗(すこぶ)ル衰ヘ、為(ため)ニ思想混乱ノ兆(きざし)アルハ洵(まこと)ニ深憂ニ堪ヘズ。
 然レドモ朕ハ爾等(なんじら)国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚(きゅうせき)ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終止相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

(※人間宣言の全文はネット上にいくらでも存在しています。ただし、間違いのあるサイトが多いので、気をつけてね!)

 つまり、「失意の淵」に沈んだ日本国民を元気づけるべく、「現御神でない」天皇は、日本全国を行幸することにしたのです。

 天皇は昭和21年2月、神奈川県の川崎を皮切りに、昭和29年までに沖縄を除く全国を回りました。地下1500メートルの炭坑から田んぼのあぜ道、工場、学校などさまざまな場所を巡り、地元民から大歓迎を受けたのです。
 巡幸について、武者小路実篤はこう書いています。

《陛下が地方を御視察になられた時、人々は思はず涙ぐみ、思はず万歳を叫び、思はず君が代を唱ふといふ事実は我々にとっては、少しも珍しいことではない、我々とてその場に居たらそれ等の人と一緒になって泣き出すにちがひない》(「純情の人・天皇」)

 実際、大阪や名古屋では何千人という群衆が天皇に殺到、天皇は靴を踏まれ、ボタンを引きちぎられるなど大混乱。それでも「今日も人並みが崩れたね」と嬉しそうに語ったと言われています。

天皇に殺到した大群衆
天皇に殺到した大群衆
(天皇はどこだ?)

 天皇は何か説明を受けると「あ、そう」と連発することで有名でした。九州で「あちらに見えますのが阿蘇でございます」と説明され、思わず「あ、そう」と答えたのは有名な話。こうしたエピソードが伝えられるなかで、日本は戦後の混乱から立ち直ることができたのです。



 ここで、冒頭の作文に戻りましょう。本サイトが発掘した新資料をもとに、天皇がやってきた10月21日の様子を再現してみることにします。

○13時15分、宮廷列車で豊橋駅に到着。その後、車で市中心部の公会堂に行き、市長から戦争被害等の説明を受ける
○14時00分、学校に徒歩にて着御、生徒の約半分500人が出迎える(残りの生徒は授業)
○14時02分、学校長先導のもと、便殿(3階南端教室)入御。学校長による奏上。
(校長の記録によれば、天皇は奏上に対し一節ごとに頷かれ、「終戦後の教育には色々困難な点も多かろうが、しっかりやるように」と激励)
○14時07分、便殿発御、学校長先導のもと、校内巡覧。
 ルートは3階、2階、1階の順で、6年・5年・1年・4年の全10教室。ちなみに授業は地理(朝鮮農業の発達)、理科(秋の天気)、読方(「柿の色」)など
○14時15分、発御、学校玄関から豊橋駅へ

 つまり、教室をまわったのはわずか8分。この短い時間で、天皇は生徒6人と会話を交わしています。その会話はたとえばこんな感じです(6年生の報告による)。

『お家は焼けたの』
『ハイ、焼けました』
『みんな無事でしたか』
『ハイ、みんな丈夫です』
『そう、それはよかったね』
『有難うございます』
『しっかり勉強して、りっぱな人になりなさいね』


 こんな会話を児童と交わしたあとで、天皇は「万歳」の声に送られながら、学校を去っていきました。このとき会話した生徒は、その後どんな人生を歩んだんでしょうか?
 

 その後、八町国民学校では、巡幸と新憲法発布を記念して、児童文庫の復活が始まります。有志の寄付金、くず鉄の売却などで合計2100円の資金を作ったのです。空襲で木造校舎を焼失、焼け残った鉄筋校舎にも機銃掃射の跡が生々しく残っていたこの学校にも、ようやく「学校らしさ」が戻ってきたのでした。
 
 戦後の混乱期に行われた寄付活動。それはつまり、地元の復興への思いがいかに強烈であったかを示しています。その思いを支えた柱が天皇という存在だったのは言うまでもありません。
 天皇の戦争責任を語るのは大切かも知れないけれど、でも、戦後復興に果たした大きな役割の方も、忘れちゃいけないんでしょう。


 さて、今、その八町小学校はどうなっているのか? さっそく豊橋に行ってみたよ!

八町小学校
これが現在の校舎。

 行った日は日曜日だったので、校庭には何人かがサッカーしてるくらい。そこで生徒を掴まえて聞いてみました。
「ねー、この学校に、昔、昭和天皇が来たことあるって知ってる?」
「うん」
「そのときの記念碑とかある?」
「ないと思うよ」
「でも、当時の写真とかあるでしょ?」
「あーそれは校長室」
「なか入れるかな? 用務員さんとかいる?」
「今日は誰もいないよ。じゃーねー」

 かくして、豊橋まで行った俺は鍵のかかった玄関を前にあえなく撤退。しかも別の小学生に「勝手に入んじゃねーよ」とか言われるし。
 ま、そんなもんですな。

制作:2004年6月21日

<おまけ>
 天皇の巡幸には、GHQはかなり警戒していました。天皇がテロを煽る可能性もあったし、天皇がテロに遭う可能性もあったからです。そこで、天皇のそばには、いつもMP(憲兵)2人がついていました。

MP(憲兵)
これがその証拠写真(写真両端の目立たない男がMP)

 GHQは、天皇のあまりの影響力に、昭和23年になると全国巡幸を中止させます。その後、復活するも、昭和25-27年には再度中止命令を下します。GHQにとって天皇とはどんな存在だったのか? これも気になる点ですね。

広告
© 探検コム メール