帝国海軍は「無能」だった!

日本帝国海軍
役立たずの海軍


 日本が第2次世界大戦で負けた原因はどこにあるのか?
 こう聞くと、たいていの日本人は「陸軍が悪かった」と答えるのですが、これは本当でしょうか? 戦史を丹念に追っていくと、無能で権威主義だった帝国海軍こそが日本を敗戦に導いた根本的原因だと判断せざるを得ません。しかし、戦後60年以上経った今でも「東京裁判史観」が幅をきかしているわが国では、いつまでたってもそうした見方は支持されないのです。

 僕の知り合いだった故佐藤晃さんは、終戦以来ずっと「陸軍悪玉論」に疑問を感じていました。そこで、退職後に戦史研究を始め、その成果を執筆してきました。テーマは一貫して「海軍無能論」です。そこで、その成果の一部を紹介したいと思います。
(当初、ご遺族から全文公開の許可をいただいたのですが、翻意されたので、法的に問題ない範囲での紹介にとどめます)
 

戦艦大和の最期
戦艦大和の最期

海軍の誕生と消滅

 1867年、明治維新が成立すると、明治新政府は、日本が近代国家になるための「富国強兵」政策を次々と実行に移しました。海軍戦力の強化は明治政府にとって焦眉の急でした。
 そこで明治新政府は、まず幕府所有の海軍操練所や海軍伝習所などを継承し、幕府と諸藩の軍艦の再編をして、応急の海軍をつくります。これが、帝国海軍の事実上の誕生。

東海鎮守府
横須賀に移る前、横浜に仮設されていた東海鎮守府


 1870年、明治政府は陸海軍を分離し、さらに1872年には東京築地に海軍省を設置、1876年には海軍兵学校を開設、1893年には海軍軍令部を設置し、ここに大日本帝国海軍が正式に誕生します。

海軍省と軍令部
海軍省と軍令部


 こうして誕生した帝国海軍は、近代国家の海軍としての装備を徐々に拡充させていきました。
 そして1894〜1895年の日清戦争、1904〜1905年の日露戦争では、海軍の大活躍により日本は勝利を収めます。
 日露戦争後、1920年に海軍増強政策である「八八艦隊法」が成立し、これによってさらなる海軍軍備の増強が始まりました。さらに言えば、この海軍増強策が欧米列強との建艦競争を招き、加えてアメリカを仮想敵国としたことで、その後の太平洋戦争を招くことにもつながりました。

日露戦争時の六六艦隊
日露戦争時の六六艦隊(手前から三笠、朝日、富士、敷島)


 列強との建艦競争は、1922年のワシントン海軍軍縮条約および1930年のロンドン海軍軍縮条約によって一時中断されましたが、その後、条約が破棄されることで、再び激化します。こうして、1941年の太平洋戦争開戦時には、帝国海軍は艦艇385隻、ゼロ戦など航空機も3260機あまり保有する大海軍になっていました。

 帝国海軍の主な作戦行動を列記すると、日清戦争の黄海海戦、日露戦争の日本海海戦、太平洋戦争の真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、マリワナ海戦、レイテ海戦などがあげられます。しかし、帝国海軍が優勢だったのはミッドウェー海戦まで。これ以降、帝国海軍はほぼすべての海戦で負け続けました。その最大の理由は、帝国海軍に「敵の補給路を断つ」といった軍隊の基本的な作戦知識が欠如していたからです。

ミッドウェーを目指す爆撃機
ミッドウェーを目指す爆撃機

 結局、1945年、日本が敗戦すると、帝国海軍はアメリカによって解体され、その歴史の幕を閉じました。誕生して約70年で消滅したのです。

海軍の暴走

 19世紀のドイツの陸軍将校・軍事理論家クラウゼヴィッツ(1780〜1831)の有名な言葉に、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」というのがあります。
 とすれば、戦争に勝つためには、政治体制がもっとも重要なポイントとなるわけです。しかし、大日本帝国は、国家総力戦である近代戦争を遂行するための政治体制がなかったのではないか、という根本的な疑問がわき上がります。

 実際、大日本帝国において、政府と軍部の協力関係はまったくといっていいほどありませんでした。
 軍隊を動かす最高指揮権のことを「統帥権(とうすいけん)」というのですが、明治維新以後、統帥権は政府から切り離されて独立していました。そしてその統帥権自体、陸軍と海軍とに分裂していたのです。
 したがって、大東亜戦争では、日本に陸海軍を統括する最高司令部が存在せず、そのために戦略が不在となり、個々の戦闘はまったく関連せずに個別に行われたのです。
 つまり、問題の本質は、陸軍と海軍とで統帥権が分断されていたことなのです。


 かつて大日本帝国の軍部では陸軍が主戦力とされていました。ところが日清・日露戦争で海軍が活躍したことで、海軍の発言権が強まり、その結果、統帥権の分裂を招くことになりました。

 1893年(明治26年)3月、政府部内での激しい紛議のすえ「海軍軍令部条例」が制定され、平時の陸海軍軍令機関が完全に並列対等となりました。陸軍と海軍の地位は同じとなり、それまでの「陸主海従」が、「陸海並列」となったのです。

 ただし、これと同時に「戦時大本営条例」が制定され、戦時には陸軍参謀総長が天皇の幕僚長となって全軍の統帥を統合的に補佐することになったので、日清戦争では、この弊害は出ませんでした。しかし、日清戦争の黄海海戦の勝利が、海軍を海軍統帥権の完全独立へと駆り立てていったのです。

 1899年1月、海軍大臣・山本権兵衛(1852〜1933)は、戦時大本営条例の改訂を申し出ました。戦時といえども海軍統帥権を参謀総長の統括下から分離独立させて、「陸海軍を並列対等にせよ」という信じられない主張です。驚くべきことに、この主張が通り、1903年12月、「戦時大本営条例」は改訂されます。

山本権兵衛 児玉源太郎
山本権兵衛(左)と児玉源太郎

 1904年〜1905年の日露戦争では、児玉源太郎(1854〜1903)の尽力により、統帥権の分裂はなんとか回避され、結果、日本はロシアに勝利を収めました。

日露戦争の日本海海戦
日露戦争の日本海海戦

 ところが、この児玉は1906年7月、参謀総長就任後わずか3カ月で急逝してしまいます。陸軍の重鎮が消え、日本海海戦に勝利することで、帝国海軍の発言権は強化され、これが、後に太平洋戦争惨敗につながる海軍の暴走を招いたのです。
 海軍の暴走に手を貸したのが、マハンの「艦隊決戦主義」思想でした。

艦隊決戦主義と仮想敵をアメリカにした愚挙

 アメリカ海軍の将校アルフレッド・マハン(1840〜1914)による『海上権力史論』“The Influence of Sea Power Upon History”は1890年に出版され、そのなかで、「海洋国家の国権の拡張は制海権の確保にあり、その最大の戦力は大艦隊の常備であり、その任務は敵国艦隊の撃破である」ということが説かれました。
 帝国海軍は、このマハンの思想を利用し、また、それに凝り固まって、以後なんら新しい戦略思想を持ち得ずに、太平洋戦争突入までの時間を無為に過ごしたのです。

「艦隊決戦主義」では、海軍はただ艦隊を強化し、敵国艦隊との決戦に備えればよいということになります。つまり国家総力戦の概念はなく、陸軍との「共同作戦」も、戦争の雌雄を決する「後方兵站」も、それにともなう「通商破壊作戦」の概念もありません。
 しかも悪いことに、この艦隊決戦主義は、最終的には「大艦巨砲主義」を生み出し、1945年の戦艦大和の出撃・撃沈が最後の徒花となって、日本を壊滅的な敗戦へと導いたのです。

 1907年(明治40年)4月、わが国は想像もできない国家経営上の大失敗を犯します。これは「帝国国防方針」と呼ばれる新国防方針の決定でした。
 ここで策定されたのが、帝国海軍が仮想敵を米国艦隊としたことです。これで帝国海軍は米国艦隊を撃破する戦備が必要ということになり、以後、すさまじい勢いで海軍軍備の増強が始まるのです。当初は、戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻のいわゆる「八八艦隊」の建造案からスタートしましたが、戦艦のトン数は1.2万トンから3万トンになり、やがて6万トンになっていきました。

明治35年に結ばれた日英同盟書の最終ページ
明治35年に結ばれた日英同盟書の最終ページ


 さらに1923年、日英同盟が失効すると、大日本帝国は海防を独力で行う道を選択せざるを得ず、ここにさらなる米英との建艦競争が始まりました。そして、この建艦競争は海軍内部での対立や矛盾も深め、ロンドン海軍軍縮条約をめぐって海軍省(政府)と軍令部(海軍司令部)とが鋭く対立し、帝国海軍を2分する内部対立へと発展したのです。
 これは後に五・一五事件を呼び、海軍内に下剋上の風をもたらしたりもしました。

 こうして帝国海軍は、内部に分裂を持ちながら、1つの独立した権力として拡大の一途をたどります。

太平洋戦争突入までの帝国海軍とアメリカの動き

 言うまでもなく「太平洋戦争」はアメリカ側からの対日戦争への呼称であり、第2次世界大戦において、わが国は大東亜戦争を戦ったのです。しかし、帝国海軍が、ほぼ太平洋戦争において壊滅したのは紛れもない事実です。

 太平洋戦争開始前まで、大日本帝国は1931年(昭和6年)の満州事変を経て日中戦争を戦っていました。1937年7月の盧溝橋事件(支那事変あるいは日華事変とも呼ぶ)以後は、全面戦争に突入します。

盧溝橋
今では大観光地の盧溝橋


 この支那事変勃発の2年前、1935年12月、対米戦の必勝を叫ぶ海軍は政府を動かし、アメリカに海軍軍縮条約の破棄を通告させます。これにより世界は海軍艦艇の無条約時代となり、帝国海軍の建艦、増強はさらに激しくなりました。
 事実、1937年、海軍は喜び勇んで6万9000トンの巨大戦艦「大和」以下、「武蔵」「信濃」「紀伊」の建造を開始するのです。

 もちろん、これに対抗して、アメリカも建艦に力を注ぎ始め、太平洋戦争開戦前の1940年(昭和15年)7月にいたって、「両洋艦隊法」を成立させます。この両洋艦隊法で、アメリカの海軍力は一挙に7割増になり、太平洋戦争中の1943年半ばには、わが国が逆立ちしても足元にも及ばない強力艦隊が太平洋に出現することになったのです。

 太平洋戦争にいたる過程で重要なものに、この両洋艦隊法とともに「武器貸与法」があります。この武器貸与法の成立を聞いたチャーチル(1874〜1965)は「われ神に感謝す」と述べたといわれます。なぜなら、アメリカが連合国陣営として、日独伊の「枢軸国」に対抗するため、全面的に武器支援を行うことになったからです。
 さらにチャーチルは、この法案の成立を、第2次大戦における「フランスの敗北」「イギリス本土防衛戦」に続く“第3の運命の大転機”と呼びました。第4の転機とは「ドイツのソ連攻撃」、そして第5の転機とは「日本軍の真珠湾攻撃」です。

近衛文麿の逃走と東條英機の登場
 
 1940年(昭和15年)7月18日に成立した第3次近衛文麿(1891〜1945)内閣は、対米強硬派の松岡洋右(1880〜1946)をしりぞけ、当初、対米譲歩路線を目指しました。しかし、翌年の4月から始まった日米交渉は期待に反し、アメリカの態度は強硬になるばかりでした。その結果、当然のようにわが国内でも強硬論が勢いを増していきます。

近衛文麿
近衛文麿


 1941年9月6日、御前会議でついに「帝国国策遂行要領」の決定がなされます。
 これは「帝国は自存自衛を全うするため、対米英蘭戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」というもので、これにより、事実上の「対米英蘭戦争方針」が決定したのです。

 しかし、あれほど対米強硬姿勢を主張した帝国海軍には、米国艦隊を撃破する自信も意思もありませんでした。というのは、もともと米国を仮想敵としたのは、海軍力増強のための予算獲得の手段に過ぎなかったからです。けれど、「対米戦に勝算なし」とは、海軍側からは口が裂けても言えません。

 こうした海軍内部の矛盾を察した近衛首相は、9月12日、連合艦隊司令長官・山本五十六(1884〜1943)に、対米戦の勝算を尋ねました。ここで山本は「1年か1年半は見事に戦って見せる。だがそれ以後のことはわかりかねる」と語ったとされます。

 この山本の言葉を公家の文官出身の近衛首相がどの程度理解できたかはわかりませんが、10月12日、いわゆる「荻窪会談」が召集されました。集まったのは近衛文麿総理、東條英機陸相、及川古志郎海相、豊田貞次郎外相、鈴木貞一企画院総裁。ここで近衛首相がもっとも知りたかったのが、開戦に対する海軍の忌憚のない意見でした。しかし、及川海相は「和戦いずれにせよ、総理一任」で逃げたのです。

国会で答弁する東條英機
国会で答弁する東條英機


 10月16日、弱りきった近衛首相は、とうとう内閣を投げ出します。そして登場したのが、東條英機(1884〜1948)でした。
 組閣にあたって、東條は総理とともに陸軍大臣を兼務して憲兵を掌握し、内務大臣を兼務して治安警察を手中に収めます。そして、国内騒乱にはみずから鎮圧に乗り出す覚悟を示したのです。
 この東條内閣の成立で、大日本帝国は太平洋戦争開戦に向かうわけですが、当初、東條はたとえ屈辱的な譲歩をしても開戦を避けるつもりでした。

 11月4日、「軍事参議官会議」が開かれます。軍事参議官会議とは、日露戦争直前の「戦時大本営条例」改訂で陸海軍軍令が分裂したため、陸海軍の意見調整のために設けられた制度ですが、いままで開催されたことは1度もなかったものです。この会議を受けて翌5日、御前会議で、新たに「帝国国策遂行要領」が決定したのです。

「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を全うし大東亜の新秩序を建設するためこの際対米英蘭戦争を決意して左記措置を採る」
 との大方針のもとに、
「十二月初旬を期限として陸海軍の作戦準備を完整するとともに対米交渉を行うほか、独伊との提携強化、タイとの軍事緊密関係を樹立する。対米交渉がその間に成功したならば武力発動を中止するが、成功しなければ開戦する」
 というのが、その主旨でした。

対米英蘭蒋戦争の腹案に真珠湾攻撃はなかった
 
 1941年11月15日、大本営政府連絡会議で、「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」が決定されます。これは、対米英蘭戦争および蒋介石(1887〜1975)との日中戦争をどう戦うかという大方針を決定するものです。
《速やかに極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し独伊と提携して先ず英の屈服を図り米の戦意を喪失せしむるに勉む》
 がその大方針であり、そのおおまかな内容は、以下の通りでした。

<第1段作戦>
 極東における米英蘭拠点を覆滅して、日・満・支・南方資源地帯を基盤とする自存自衛態勢の確立を図る。
 (「初期進攻作戦」、別名「南方作戦」)
 
<第2段作戦>
①中華民国・蒋政権の屈服作戦(「対支大作戦」)
 援蒋ルートを遮断され、補給を断たれた重慶に対し、政治的(和平)・軍事的(進攻)措置により、その屈服を図る。
②独伊とインド洋で提携する英国屈服作戦(「西亜作戦」)
 インド洋を制圧して日独伊の連絡連携を図るとともに、連合国の輸送大動脈を遮断して英国を軍事的経済的に追いつめてその屈服を図る。
③対米作戦
 太平洋近海に強固な防壁を築き、昭和18年(1943年)後半以降と推測される米国の対日反攻作戦に備える。

 驚くべきことに、この「腹案」のなかには、真珠湾攻撃は入っていませんでした。とすると、帝国海軍は政府にも陸軍にも秘密(または直前に一方的通告)にしてギャンブルのような作戦を実行したことになります。
 また、「初期進攻作戦」(南方作戦)の成功は、真珠湾でアメリカ太平洋艦隊を壊滅させたことが大きく貢献しているという説がありますが、これも疑問です。なぜなら、真珠湾以外の南方作戦には、帝国海軍の戦艦部隊も機動部隊もほとんど参加していないからです。

 さらに、英国を屈服させるための「西亜作戦」をなぜ実行しなかったのかという疑問もわき上がります。英国屈服作戦は、ドイツのロンメル(1891〜1944)将軍の中近東・北アフリカ・スエズ作戦を裏で支え、さらにソ連、蒋介石軍への「連合国の輸送大動脈」を絶つものなので、これを実行していれば、わが国はアメリカに対してかなり有利な条件で和平に持ち込み、ドイツの対ソ戦も有利な結末になったはずだからです。

 しかし、帝国海軍は連合艦隊を温存し、当時、インド洋を通して行われていた連合国の通商路を破壊しませんでした。

イギリスのインド洋の補給路
イギリスのインド洋の補給路をたたけば、ドイツは有利に


 1941年11月26日、東條の対米屈辱外交努力にもかかわらず、いわゆる「ハル・ノート」が日本側に提示されます。それは、日本政府の想像をはるかに超える高圧的なものでした。「これは宣戦布告だ」と、当時の日本政府の高官たちは全員、つぶやいたとされます。そして、その同じ日に、南雲忠一(1887〜1944)率いるわが連合艦隊は、一路ハワイを目指して、千島列島の単冠湾を出航しました。

真珠湾の被害
上空から見た真珠湾の被害

 こうして、1941年12月8日、帝国海軍の最後ともいうべき大戦果が、真珠湾奇襲攻撃であがります。しかし、海軍はこの戦果に舞い上がり、これが結果的にわが国の大惨敗につながっていくのでした。

制作:2010年4月25日

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