神風特攻隊


特攻訓練中の荒鷲


《身をもつて神風となり、皇国悠久の大義に生きる神風特別攻撃隊五神鷲の壮挙は、戦局の帰趨岐れんとする決戦段階に慮して身を捨てて国を救はんとする皇軍の精神である……科学と物量とを唯一つの恃(たの)みとする敵に対して、科学を超越した必死必中のわが戦法はわが尊厳なる国体に出づる崇高たる戦ひの妙技であらう》

 昭和19年10月29日、朝日新聞は第1回神風特攻隊をこう褒めたたえました。このときすでに 《科学を超越した戦法》としている点が泣けますね。いったい神風特攻とは何だったんでしょうか?

 特攻隊は敷島・大和・朝日・山桜・菊水隊に分かれていました。大和心を詠じた本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と、「七生報国(しちしょうほうこく)」で有名な楠正成の家紋「菊水」から来ています。

 第1回はフィリピン・マバラカット飛行場から飛び立った関行男海軍大尉(当時24歳)以下全5名で、スルアン島海域で玉砕しました。前述朝日新聞によれば、昭和19年10月25日のことで、

《航空母艦一隻撃沈、同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦火を収め、悠久の大義に殉ず忠烈、万世に燦たり》

 とされていま す。
 昭和20年4月に米軍が沖縄に上陸すると、ほとんどの特攻が沖縄を目指しました。機体には250キロの爆弾を搭載していたため、当然ですが、帰還者はごくわずかでした(沖縄特攻の死者は全部で1036人)。

 で、もっとも有名な特攻基地が鹿児島県の知覧にありました。今は知覧特攻平和会館になってるので行って来たよ。


入口には特攻隊員像。途中で切断された零戦52型も展示中


 館内には遺書をはじめ、多くの資料が展示されています。でも、基本的に「戦争は悲惨だ」とか「2度と過ちを繰り返さない」とかいう安易なセンチメンタル発言は嫌いなんで、これ以上の深入りはやめておきましょう。
 まぁ、参考までに隊員への訓辞を1つだけ引用しておきます。

《今までに出撃した隊のなかには、飛行機の故障で帰ってきたのもあるが、万遺憾のないよう十分に注意せよ。また、すこしぐらいの故障で帰るようでは、意志力がたりない。……敵艦に突入する時は、目を見開いていることだ。目をつぶって突込むような者は、特攻隊になっていないはずだ》(高木俊朗「特攻基地知覧」)

 清原勉少尉(当時24歳)の言葉です。こうして清原隊は、昭和20年4月16日に出撃、全12名のうち9名が玉砕したのでした。

制作:2002年8月4日

<おまけ>
 NHKスペシャル『学徒兵 許されざる帰還』によれば、特攻機には欠陥機が多く、機体不良などで引き返してきた特攻兵が相当数いたようです。
 彼らは“死に損ないの軍神”だったため、士気に影響しないよう、「振武寮」と呼ばれた建物に隔離されました。これは福岡女学院の寄宿舎を第6航空軍司令部が接収して設置したもので、終戦までのわずか2カ月間しか存在していません。
 寮内では上官が罵声と暴力で、帰還兵の“再教育”を繰り返しました。この寮の実態を調査したノンフィクション作家、林えいだい氏は、特攻隊の編成を担当し、寮内で特攻兵を暴行した倉沢清忠少佐に、生前取材しています。

《「やれやれ主義で隊員の心情をくみ取る思いやりが足りなかった。彼らを国賊のようにののしった自分が恥ずかしい」と涙ぐみさえした。たばこを持つ手がぶるぶると震えていた。そして、こう告白した。
「80歳まで、護身のためピストルに実弾を込めて持ち歩き、家では軍刀を手放さなかった」

 多くの若者に“散華”を強いた軍高官として、戦後も元特攻隊員や遺族の報復におびえ続けていたのだった。
 林の取材が終わると、倉沢は穏やかな表情に変わっていた。
「戦後、ずっと胸につかえていたものを全部吐き出して、すっきりした。わたしの戦後の区切りがついた」
 それから2週間後に死去。86歳だった》(共同通信2007年4月27日)