近代日本初の宝くじを入手
国民貯蓄運動「230億円」を死守せよ!

国民貯蓄運動
国民貯蓄運動


 江戸時代、「富籤」と言って非常に人気の高かった宝くじですが、明治元年(1868)に政府はいっさいの富籤を禁止します(もちろん陰では密かに行われていましたが)。
 明治も末になると、外地(台湾や中国)で「彩票」という宝くじが発売されるようになるんですが、結局これも中止になってしまいます。
 ところが、 昭和20年(1945)7月、ついに「勝札」として復活するんですねぇ。

勝札
これが勝ち札

 勝札の抽選は、終戦後の8月25日に、疎開先の日本勧業銀行長野支店で行われたと言われますが、定かではありません。おそらく抽選があったとしても、敗 戦の混乱で、ほとんどまともな支払いはされなかったと思われます。
 戦争をはさんでいるため、この「勝札」は「負札」と言われるようになりました。

 で、戦後の昭和20年10月29日発売分から「宝くじ」と名称変更してるんで、まさに「勝札」こそ宝くじの元祖というわけ。1枚10円。当時、国鉄の最低料金が10銭、豆腐1丁20銭だったというから、すげー高いですね。

 参考までに1組あたりの当選金額は以下の通りです。
(発売枚数は2000万枚、10万枚を一組としたため、全部で200組あったことになります)

等級
当選金額
本数
1等
10万円
1
2等
1万円
9
3等
1000円
90
4等
50円
900
5等
10円
19000
 
20000


 では、明治以降、長らく禁止されてきた宝くじは、どうして昭和19年に復活したのか?
 これは、「勝札」の裏面に「此ノ証票ノ発売ニ依リ挙ゲタ収益ハ凡(すべ)テ大東亜戦争ノ戦費ニ充テラレマス」とあることから、戦費捻出だったことがわかります。

 戦時下、日本政府は、戦費の調達に苦労していました。特に1942年12月に太平洋戦争が始まってからは、カネを集めるのが喫緊の課題となりました。
 そこで、大蔵省国民貯蓄局が中心となり、1942年、「貯蓄総額230億円」という貯蓄キャンペーンを開始します。ちなみに当時の国家予算が約80億円なので、その3倍という前代未聞の額でした。

国民貯蓄運動
国民貯蓄運動(文部省幻灯画「230億円」より)


  もともと大蔵省は、1937年の「臨時資金調整法」に基づいて、「戦時貯蓄債券」「戦時報国債券」という名前の「割増金付き債券」を発行していました。まぁ、単なる国債ですが、初期のうちは、償還金が年2回あるものもありましたが、次第に償還期間は長引いていきます。

戦時国債 戦時国債
戦時国債

戦時国債
戦時国債、ばんばん売ろうぜ


  膨大な国債を消化するため、逓信省も「割増金付き郵便貯金」という債券を発行して協力しました。これも通常の切手ではなく、単なる国債で、一般には「弾丸切手」と呼ばれます。

愛国貯金
こちら郵便局の愛国貯金(ポストの顔に注目)


  大蔵省と逓信省が努力した結果、国債消化率は9割5分8厘を達成し、昭和17年度の目標額230億円は見事達成します。しかし、翌昭和18年度の目標は270億円に引き上げられました。

国民貯蓄運動 国民貯蓄運動
国民貯蓄運動の成果
(集めた230億円のうち、国債の償還のために170億円も必要!)


 予算の未達に困った大蔵省は、ついに昭和19年(1944)11月、「福券」を発売します。福券もあくまで「割増金付き債券」ですが、もはや実態は宝くじでした。
 1億円を10円×1組10万通×100組に分け、これを発売。無利子で、昭和39年(1964)12月8日に、元本が戻る仕組みです。
 もちろん、これだけでは購入するインセンティブがないので、昭和20年2月に1度だけ抽選会があり、「奨金」がもらえました。1組あたり、1等は5万円1本。以下、2等5000円(9本)、3等500円(90本)といった具合で、ほぼ宝くじと同義。

福券
福券


 こうして、ついに翌年の「勝札」で完全に「宝くじ」が復活するのでした。 
 そして、当たり前ですが、敗戦により、これらの債券はすべて紙くずになりました。誰にも文句は言えないけれど、庶民はつらかったでしょうねぇ。

制作:2012年10月28日
戦時国債
少年も国債のために報国

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