日本の競馬の歴史

目黒競馬場
1930年ごろの目黒競馬場



 馬のよしあしを見極め、また売買する人を馬喰(ばくろう、「博労」や「伯楽」とも書く)と言いますが、東京・日本橋には馬喰町(ばくろちょう)という町があります。ここには江戸最古の馬場があり、盛んに馬が売買されていました。関ヶ原の戦いのとき、この地に軍馬が集められ、観兵式が行われたと言います。

江戸時代の馬喰町
江戸時代の馬喰町(江戸名所図絵)


 その馬喰町の本家はもちろん京都。上京区、北野天満宮のすぐそばにも馬喰町という地名が残っています。ここには右近衛府に属した馬場があって、毎年5月に大々的な競馬が行われていました。

 平安時代に書かれた『伊勢物語』(99段)や『今昔物語』(24巻36話)には在原業平がこの馬場で一瞬だけ顔が見えた美女をナンパした話が載っています。ナンパというのは、もちろん和歌を送ったということですが。

 このように平安時代にはすでに競馬は存在していました。

 ちなみに『日本書紀』には、679年、天武天皇が迹驚淵(トドロキノフチ)で宴会した帰り、馬を競走させたといった記録があります。ただし、「競馬」ではなく「馳走」という表現を使っており、文献上の「競馬」の初出は『続日本紀』の《群臣五位以上をして競馬を出さしめ天皇臨御し給へり》(701年)だとされています。

 当時の競馬は神事として行われたもので、京都・賀茂神社の5月5日の競馬が当時の姿を今に伝えています。
 
(余談ながら、世界最古の競馬の記録は、ホメロスの叙事詩『イリアス』に出てくる戦車競馬だそうです)

横浜競馬で優勝した日本種タイフーン号
1871年、横浜競馬で優勝した日本種タイフーン号


 1377年、イギリスで行われたレースが近代競馬の元祖とされていますが、では日本で近代競馬はいつ始まったのか?
 答えは開国とほぼ同時期なんです。

 安政5年(1858)、江戸幕府はアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5カ国と修好通商条約を結びます。これが安政五カ国条約で、要は開国するための基本条約。このとき日米和親条約で開港していた箱館に加え、神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港が決定します(下田は閉鎖)。

 ここから先は教科書に書かれない話ですが、開港するために何が最も重要なのかというと、外国人のための居留地の設定です。住む場所がなければ、開港もへったくれもありません。それで居留地にはどうやって水を引くとか屠場を作れとか、建築費はどっちが払えとか、実に細かい押し問答が始まるわけです。


副島種臣と各国公使
外務卿・副島種臣と各国公使たち(明治初年)
カッコつけてるけど、話ししてる内容は「競馬場作ってよ、そっちのカネで」


 居留地で最大のものが神奈川でした。

 幕府は栄えていた神奈川から勝手にひなびた横浜に変更し、しかも横浜の居留地エリアは大湿地帯。外国人たちは困ってこの沼地を日本政府がカネを出して埋め立てろだの、さんざん文句を言いまくります。

 湿地帯を嫌がった外国人が狙っていたのが、見晴らしの良い高台の山手地域。文久2年(1862)、幕府は山手に居留地を作ることを承認、さっそく外国人たちの移住が始まりました。

 そして同時に作られたのが、ほぼ唯一のエンターテイメントとしての競馬場でした。文久元年(1861)、現在の横浜市中区相生町に馬場が作られ、競馬が開催されました。これが日本初の洋式競馬。

 翌年夏頃には、現在の中華街のあたりにさらに立派な競馬場が完成します。ジョン・レディ・ブラックの『ヤング・ジャパン』によれば、一周約4分の3マイル(約1.2km)。建設を強く要請したのがイギリスとオランダ領事。完成後、神奈川奉行はすぐに2日間のレースの開催を許可しています。

 その後、競馬場は根岸に移りました。その横浜競馬場は、1942年、第2次世界大戦の激化で競馬が休止されるまで存続したのでした。

根岸競馬場
根岸競馬場(1870年11月16日)

根岸競馬場
関東大震災後、再建された観覧席


 一方、横浜以外の居留地では、神戸にも競馬場が作られました。こちらは鉄道敷設のせいで、わずかな期間しか存続しなかったようです。

神戸の競馬コース
閉鎖された神戸の競馬コース(1871年11月1日)

 
 さて、洋式競馬を見た日本人は、当然のことながら、自分たちでも競馬を開催しようと考えます。

 その最初のものが明治4年(1871)に靖国神社(当時は招魂社)で開催された洋式競馬です。主催は兵部省(翌年から陸軍省軍馬局)。このときの賞品は「袂(たもと)時計」や「羅紗(ラシャ)戎服」などでした(なお、非公式な競馬はこの前年から開催されていたようです)。
 以後、靖国神社の例大祭では明治31年まで競馬が開催されました。

競馬
『風俗画報』明治31年11月25日号


 今では信じられないことですが、当時、東京・三田には内務省勧業寮が管理する育種場があって、様々な動物が飼われていました。場内には馬場があって、やはりここでも競馬が行われました。
 この競馬を主催したのが興農競馬会社で、明治12年(1879)の秋季競馬で初めて賞金がかけられた競馬が開催されました。 

三田育種場
三田育種場

 
 興農競馬会社はその後、戸山に移動し、アメリカのグラント大統領夫妻の観覧競馬などを行っていますが、明治17年(1884)、上野の不忍池に一大競馬場を建設します。このときの社名は共同競馬会社。
 春と秋の2回開催し、内務省農務局から毎回賞金が出されるなど、非常に大きなイベントとなりました。しかし赤字が続き、まもなく閉鎖される憂き目に。

不忍競馬場
不忍競馬場


 明治27年(1894)に起きた日清戦争では、日本産馬の低い能力が問題になっており、競馬は日本馬の改良という大きな目的の下で発展していきました。

 ちなみに馬券の発売は黙認されてきましたが、明治41年(1908)に馬券発売が禁止となります。その結果、競馬事業は衰退、馬の育成にも障害が出始め、ついに大正12年(1923)、再び馬券の発売が容認されるようになったのでした。

※なお、競馬に関する年号などは資料によってバラバラで、今回はウィキペディアの記述と異なる記述が多々見られます。本サイトは『明治事物起原』等を参考にしていますが、ウィキペディアに出典表記がないので、どちらが正しいのかは不明です。


制作:2007年7月26日


<おまけ>
 居留地というのはあくまで日本の土地なので、外国人側は当然地租を払います。たとえば慶応2年(1866)の約書によれば、山手地域は1年100坪で12ドル。公園地域は100坪6ドル。そして、根岸競馬場は100坪で10ドルの地租がかかりました。
 政府はこのカネで土地の整備をする必要がありましたが、道路や溝などは外国人が勝手に整備するよう、地租の2割をはじめから引いて納税する仕組みがありました。

 攘夷の時代、外国人保護がうまくいかなかった幕府は居留地に自治組織を認めます。その結果、いつの間にか、裁判権だけでなく、警察権まで譲ることになってしまいました。

 文久2年(1862)、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件が起きると、自衛をうたい文句にまずフランスが、次にイギリスが駐屯します。今も日本には米軍が駐留してますが、この時代もまた、日本国内に外国の軍隊が存在したのです。

フランス軍の兵営
フランス軍の兵営(1870年10月1日)
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