文化としての「結核」

結核防止
人が使った布団から感染することもあります


 俳人の正岡子規は明治35年(1902)9月19日に絶命しますが、死の2日前まで周辺雑事を新聞『日本』に連載していました。それが『病牀六尺』という本にまとまっているんですが、その最後は次のような俳句で終わっています。

 俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか

 俳病は「肺病=結核」と掛けてるわけですが、この「拷問」とはどういう意味か。子規は結核による脊椎カリエスに全身が冒され、激痛に苦しんでいたのです。
 その激痛はどんな感じかというと……

《もし死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである、しかし死ぬることも出来ねば殺してくれるものもない。一日の苦しみは夜に入つてやうやう減じ僅(わず)かに眠気さした時にはその日の苦痛が終ると共にはや翌朝寝起の苦痛が思ひやられる。寝起ほど苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか》(6月20日)
 
 子規はモルヒネで激痛をこらえながら死に至ります。
 で、実は、この「子規」という雅号はホトトギスの別名。子規が援助して柳原極堂が創刊した日本初の俳句雑誌も『ホトトギス』。 
 これはどういうことかというと、ホトトギスは血を吐くまで鳴き続ける鳥とされたことから、吐血した自分と重ね合わせていたわけです。


 一方、徳冨蘆花(とくとみろか)が明治33年(1900)に発表して空前のベストセラーとなった長編小説も『不如帰(ほととぎす)』。
 これは上流階級を舞台にした結核小説で、家系の断絶を恐れる姑によってむりやり離縁される女性の物語。
 主人公の浪子(モデルは大山巌大将の娘・信子)が、「もう女には生まれてこない」と絶叫するもっとも有名なシーンは以下の通り(青空文庫より引用)。

《二年に近き病に、やせ果てし躯(み)はさらにやせて、肉という肉は落ち、骨という骨は露(あら)われ、蒼白(あおじろ)き面(おもて)のいとど透きとおりて、ただ黒髪のみ昔ながらにつやつやと照れるを、長く組みて枕上(まくら)にたらしたり。枕もとには白衣の看護婦が氷に和せし赤酒(せきしゅ)を時々筆に含まして浪子の唇(くちびる)を湿(うるお)しつ。(中略)
 ほのかなる笑(えみ)は浪子の唇(くちびる)に上りしが、たちまち色なき頬のあたり紅(くれない)をさし来たり、胸は波うち、燃ゆばかり熱き涙はらはらと苦しき息をつき、
「ああつらい! つらい! もう——もう婦人(おんな)なんぞに——生まれはしませんよ。——あああ!」
 眉(まゆ)をあつめ胸をおさえて、浪子は身をもだえつ。急に医を呼びつつ赤酒を含ませんとする加藤夫人の手にすがりて半ば起き上がり、生命(いのち)を縮むるせきとともに、肺を絞って一盞(さん)の紅血を吐きつ》

結核防止
貸本屋などで借りた本経由でも感染します
(借りた小説はやっぱり『不如帰』!)



 さて、なぜか病気のなかで唯一「かっこいい」イメージのある結核は、人類誕生とともに存在していました。あのツタンカーメンも結核だったとされています。
 この病気の原因は長らく不明でしたが、1882年、ドイツ人のコッホが結核菌を発見します。

 しかしながら菌の発見と感染経路の確定は別問題のため、日本では長らく遺伝病か伝染病かという議論がありました。
 コッホが結核菌を発見した年、福沢諭吉が『遺伝之能力』で

《肺病、癩病、梅毒、癲狂(てんきょう)等の諸病は、親子相伝へ兄弟姉妹其(その)質を共にして之を免かるること難し》
 
 と結核を「遺伝病」としているのはやむを得ないとしても、先の『不如帰』でも伝染説と遺伝説を両方とも併記しています。


 それでも次第に結核は空気感染するものだと思われはじめ、ついに明治37年(1904)、「肺結核予防規則」が制定されます。
 これは俗に「痰壺令」と呼ばれるもので、《学校、病院、製造所、船舶発着待合所、劇場、寄席、旅店》などに唾壺(痰壺)を設置し、この痰壺以外に痰や唾を吐いてはいけないという決まりでした。

結核防止
人が集まる場所には必ず痰壺を置きましょう
(左端の白いものが痰壺)



 結核は日本では国民病と言われるほど蔓延しました。明治45年(1912)の統計によれば、肺結核による死者は過去10年の平均で7万3076人。ついには「肺病国」と揶揄されるまでになりました。
 こうした事態を受け、大正2年(1913)、内務省衛生局は「肺結核蔓延系統図」を制作、衛生思想の涵養にこれ務めました。
 今回の画像は、全8枚の系統図から転載したものです。

結核防止
教師が肺病だと多数の生徒に伝染(うつ)ります


結核防止 結核防止
古着は消毒してから使用なさい、流れで顔を洗い口をすすぐのは痰やばい菌を飲むようなものです


 上の左の図は結核患者が売り払った古着を着て感染した例で、「江戸の振袖火事もこの類ならん乎(か)」という注釈がついています。
 これはどういうことかというと、明暦3年(1657)の大火災(明暦の大火)の出火原因に次のような説があることを受けているのです。
 つまり、ある良家の娘が恋の病にふせたまま16歳で亡くなった。その娘の紫縮緬(ちりめん)の振袖を古着屋で購入した娘も、翌年の同じ日に16歳で死亡。さらに3人目の娘も翌年の同じ日に同じ年で死亡。不思議な因縁に驚いた三家の者が問題の振袖を本妙寺で焼き捨てたところ、振袖は風にあおられて舞い上がり、江戸中を燃やし尽くした、と。
 この火災で江戸城の天守閣も消失、死者は10万人とも記録されていますが、いずれにせよ結核と振袖は非常に密接なイメージがあったのでした。



 さて、結核の感染経路が明らかになったところで、有効な治療法はありませんでした。
 それで、結核薬として怪しげな民間治療が跋扈するんですな。『結核という文化』という本によれば、基本的には浣腸や採血を繰り返して身体から毒を抜くほか、コイの生き血やらイモリの黒焼き、高麗人参、猿の肝などが試されました。人の肝が効くと噂が立ち、実際に殺人事件も起きたようです。
 ちなみに昔のヨーロッパではミルクが特効薬とされたそうで、なかでももっとも効果があるとされたのが人の乳。金持ち貴族は治療と称して若い乳母を雇い、胸から直接乳を吸うといった儀式めいた栄養療法もあったんだそうです。


怪しい広告の例(笑)
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(『淑女画報』大正6年6月号)


 難病の代名詞だった結核が治療できるようになったのは、1943年に抗生物質ストレプトマイシンが発見されてからのことでした。
 現在では有効な治療薬が確立され、結核は基本的には治る病気となりました。

制作:2007年7月5日

<おまけ>
 結核は過去の病気というイメージがありますが、実は毎年約3万人の患者が発生してるんですな。2005年は2万8319人発症、死亡者数は2295人。なかなか病気の駆逐ってば難しいもんです。
 ちなみに結核の空気感染が初めて確認されたのは、なんと1994年のことでした。結核菌発見から実に112年も経っていました。

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