国会へ行こう! 時空編

建築中の帝国議事堂
建築中の帝国議事堂
 

 昭和11年(1936年)11月7日午前11時、永田町に完成した「帝国議事堂」(現在の国会議事堂)の竣工式が行われました。あいにくの小雨が降る天気でしたが、全国から約2800人の「お偉方」が集結、豪壮な議事堂の完成を祝いました。
 
 現在の議事堂は大正9年(1920年)に工事が始まったんですが、約1万5000トンの鉄骨、2万5000トンの花崗岩、そして24種類の木材、37種類の大理石が集められています。総工費は2573万5977円。まぁ、現在の貨幣価値で数千億円といったところでしょうか。
 
 議事堂の建設は明治14年(1881年)以来の悲願でしたが、弱小国の悲しさで予算がなく、ずぅーーーーと仮建築のままでした。もちろん本建築の話は何度も出るんですが、結局のところ予算が付くことはありませんでした。

 というわけで、歴代すべての国会議事堂を旅してみるよ!
 
 まず前提として書いときますが、もともと明治政府に国会はありませんでした。立法は「元老院」が行っていました。

元老院議事堂
これが元老院議事堂
 

 で、明治7年(1874年)、征韓論に敗れて下野した副島種臣、後藤象二郎、板垣退助、江藤新平たちが「国会を作れ」と騒ぎ始めます。これが日本史の教科書でいう「民撰議院設立建白書」。冒頭はこんな感じです。

《方今政権の帰するところを察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而も独り有司に帰す。それ有司、上帝望を尊ぶと曰はざるにあらず、下人民を保つと云はざるにあらず、而も政令百端、朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出づ。言路壅蔽(ようへい)、困苦告ぐるなし。それかくの如くにして、天下の治安ならんことを欲す。三尺の童子も尚ほその不可なるを知る。因循改めず、恐らく国家土崩の勢を致さん……》

 まぁ、政治闘争に負けた腹いせみたいなものですから、「このままでは日本が崩壊する」と強い口調で言ってるのも当然といえば当然です。

 その後も国会請願運動は続き、明治14年(1881年)、遂に政府も国会開設の詔勅を発表します。これにより、明治23年(1890年)に国会を作ることが決まりました。ネット上にはなぜかこんな基本文献が見あたらないので、全文公開しときます。

《朕祖宗二千五百有余年の鴻緒(こうしょ)を嗣(つ)ぎ、中古紐を解くの乾綱を振張し、大政の統一を総攬し、またつとに立憲の政体を建て、後世子孫継ぐべきの業をなさんことを期す。さきに明治八年に元老院を設け、十一年に府県会を開かしむ。これ皆漸次基を創め、序に循(したが)いて歩を進むるの道によるにあらざるはなし、爾(なんじ)有衆、また朕が心を諒とせん。

 顧みるに、立国の体、国各々宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず、我祖我宗、照臨して上に在り、遺烈を揚げ、洪謨(こうぼ)を弘め、古今を変通し、断じてこれを行う。

 責朕が躬(み)に在り、まさに明治二十三年を期し、議員を召し国会を開き、以って朕が初志を成さんとす。今在廷臣僚に命じ、仮すに時日を以ってし、経画の真に当らしむ。その組織権限に至ては、朕親(みずか)ら衷を裁し、時に及んで公布する所あらんとす。

 朕惟(おも)うに、人心進むに偏して、時会速やかなるを競う。浮言相動かし、ついに大計を遺(わす)る、これ宜しく今に及んで謨訓を明徴し、以って朝野臣民に公示すべし。もしなおことさらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害する者あらば、処するに国典を以ってすべし。特にここに言明し、爾有衆に諭す。

 奉勅
      太政大臣 三条実美
  明治十四年十月十二日》



 さて、1889年に大日本帝国憲法が発布され、1890年7月1、2、3日に第1回衆議院選挙が行われます。そしてついに11月29日、第1回帝国議会が開催されました。で、このとき間に合わせで作った木造の仮議事堂がこれ。右が貴族院、左が衆議院です。

初代の国会議事堂
初代の国会議事堂

 
 ところがこの議事堂は、1891年、使用開始1年もたたずに火事で焼けてしまいます。しょうがないので鹿鳴館を貴族院にして、虎ノ門工科大学を衆議院にしてその場をしのぎます。

鹿鳴館
鹿鳴館


 そしてまもなく再建したのがこの仮議事堂。

国会議事堂
第2代

 
 この議事堂も大正14年(1925年)に焼失して、再度、建造されたのがこれ。

国会議事堂
第3代
 
貴族院
貴族院

衆議院
衆議院


 そして、ようやく昭和11年に現在の国会議事堂が建設されたわけです。
 国会の歴史もなかなか大変です。

開院式当日の衆議院
開院式当日の衆議院

勅語奉答文を読む近衛文麿・貴族院議長
勅語奉答文を読む近衛文麿・貴族院議長
 

制作:2003年10月12日

 ところで、1890年の第1回選挙では、ほとんど金銭買収はなかったといわれています。これはなんというか、地元の名士は限られているため、あらかじめ誰に投票するのか事実上、選挙前に決定していたからだそうです。たしかに政党もなければ地盤もないわけで、金をばらまく余地もなかったのかも。

 それでまぁ、第1回国会には地方の名士連中が集まったわけですが、みんながみんな偉そうで、誰もが「俺様状態」だったようです。

 この状況を見て、日本の将来を悲観したのが中江兆民と杉浦重剛の2人。絶望のあまり、あっさりと議員辞職してしまいました。いつまでも国会にへばりついてる能なし議員様は、ちょっとはこの清廉さを見習って欲しいものです。
     
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