思想統制としての「国体」について


 前ページの文章では、「国体」はあまり重要な感じがしませんね。
 なにせまだ国家体制(=天皇制)が未熟だったわけで、こういった文章を国民に読ませることで、次第に「国体」のイメージが固まり、同時に天皇制が強固になっていったわけです。

『もともと、明治政府の作り上げようとした天皇制は、神としての天皇の崇拝および国教としての神社神道をその基本的な構造に含むもので、政治と宗教の混同によつて成立つてゐた。すなはち、それ自体、信仰の自由をさまたげるものであつたが、刑法第二編第一章に不敬罪が定められてゐることは、この信仰の強制力を強めたし、不敬罪の範囲がすこぶる朦朧としてゐることは、その恫喝を圧倒的なものにした。(中略)昭和二十年八月十五日までの日本人は、天皇にかこつけて言ひがかりをつけられることを、極端に警戒しながら生きなければならなかつた』(丸谷才一「言葉と文字と精神と」(『国語改革を批判する』中公文庫)

 これが大正になると、治安維持法が制定され、「国体」が「国家管理システム」の象徴として強烈なイメージを持ち始めます。


●治安維持法(旧法)(大正14年法律第46号)
 第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス
  前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス




 ね? これはつまり「国体」という言葉だけで、政府が人々の「思想」を管理することが出来るようになったということですね。さらに昭和になると、


●治安維持法(昭和16年法律第54号)
 第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ三年以上ノ有期懲役ニ処ス
 第七条 国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スべキ事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ四年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス



 と改正されます。人々はなんだか曖昧模糊とした「国体」という言葉に縛られ、鬱陶しい毎日を送るようになります。「思想」が完全に国家の管理下に置かれた時代ですね。


 最後に、昭和12年に文部省が編纂した「國體の本義」を引用しておきましょう。まず冒頭は

 大日本帝國は、萬世一系の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である。而してこの大義に基づき、一大家族國家として億兆一心聖旨を奉體して、克く忠孝の美徳を發揮する。これ我が國體の精華とするところである。この國體は、我が國永遠不變の大本であり、國史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、國家の發展と共に彌々(いよいよ)鞏(かた)く、天壌とともに窮るところがない。我等は先ず我が肇國(ちょうこく=建国)の事實の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。
 
 で始まります。以下、天皇に殉じる心構えについて。

 我が天皇と臣民の關係は、一つの根源より生まれ、肇國以來一體となつて榮えて來たものである。これ即ち我が國の大道であり、從つて我が臣民の道の根本をなすものであつて、外國とは全くその選を異にする。固(もと)より外國と雖も、君主と人民との間には夫々の歴史があり、これに伴ふ情義がある。併しながら肇國の初より、自然と人とを一にして自らなる一體の道を現じ、これによつて彌々榮えて來た我が國の如きは、決してその例を外國に求めることは出來ない。こゝに世界無比の我が國體があるのであつて、我が臣民のすべての道はこの國體を本として始めて存し、忠孝の道も亦(また)固よりこれに基づく。

   忠君愛国

 我が國は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉體することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに國民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心として奉り、天皇に絶對隨順する道である。絶對隨順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等國民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくて、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、國民としての眞生命を發揚する所以である。


 こういう文章を読むと、「国体」という言葉を簡単に口にするわけにはいかないとわかるのです。


「国体」の始まりについてはこちら

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